【試読用】ひげを剃る。そして女子高生を拾う。【書籍版】

しめさば/角川スニーカー文庫

電柱の下の女子高生①

 失恋をした。

 二つ年上の、同じ会社に勤める女性だ。名前は後藤さんといった。

 後藤さんは面倒見が良く、研修の時から俺に良くしてくれた。笑顔が淑やかで、気配りができて、社畜と化していた俺の心の支えだった。

「男がいるなら最初から言えやァ……」

 もう何杯ビールを飲んだか分からない。向かいの席で他人事のように笑う同期の橋本の輪郭もぼやけて見える。

 そう、デートに行ったのだ。後藤さんと。勤続5年目にして、ようやく彼女をデートに誘った。快く誘いを受け入れられて、これは行けるのでは! と期待を膨らませながらデートに行き、動物園を一緒に歩いた。正直、動物よりも後藤さんの横顔ばかり見ていた。ときどき、乳も横目で見た。

 とにかく、このチャンスを無駄にしてはならないと、俺は張り切りに張り切っていた。動物園を回り終え、オシャレなフレンチの店で夕食をとった。味はもう覚えていない。

 そして、満を持して。俺は後藤さんを誘った。

「このまま、俺の家に来ませんか」

 お互い大人である。この言葉の意味くらいは、すぐに理解できるだろう。期待と不安の入り混じった目で後藤さんを見ると、後藤さんは困ったように笑っていた。

 そして、首を横に振ったのだった。

「会社では秘密にしているんだけど、私、恋人がいるの」


   *


「じゃあなんでデートに来たんだよッ!!」

「ああもう吉田、それ今日六回目だから」

「一万回でも言ってやるよぉ……」

「一万回も同じ話聞きたくないんだけど」

 俺がビールを呷るのを、橋本は苦笑しながら見ていた。

「そのへんにしときなよ」

「馬鹿、こんなんで俺の怒りがおさまるかってんだァ」

「酒が回ってきた後の方がキレてるじゃん。埒明かねぇって」

 橋本は他人事だからそんなことを言えるのだ。今日は飲まないとやっていられない。

 後藤さんにフラれた直後、俺は茫然自失で小さな公園のベンチで項垂れた。

 訊くと、五年前から彼女には恋人がいたのだという。

 つまり、俺が彼女と知り合った時にはすでに男がいたということだ。

「馬鹿みてぇだ……」

 男のいる女に五年も思いを寄せてしまっていた。

「だまされた……俺の恋心を返せよ……」

 半ば責任転嫁のようなセリフを吐いて項垂れていると、悲しさよりも怒りのほうがふつふつと胸の中で大きくなってゆくのを感じた。

 それに気付いた瞬間に、俺は橋本に電話を入れていた。



「急に呼び出されたと思ったら失恋の愚痴だもんなぁ」

「いいだろ、お前の嫁さんのノロケ話もいつも聞いてやってるじゃねえか」

「ノロケじゃなくて愚痴だよ」

「聞いてる方には同じようにしか聞こえねえんだよ!!」

 なんだかんだと言いながら、橋本は呼び出しに応じてくれたし、こうして俺の愚痴を聞いてくれている。

「あぁ……いけると思ったんだけどなぁ」

「男がいるんじゃ無理だわな。それも五年モノでしょ」

「あの柔らかそうなおっぱいでシゴいてほしかったのになぁ!」

「馬鹿、声がでかい」

 隣の席で吞んでいるOLがちらりとこちらを見て苦笑するのを視界の端にとらえたが、知ったことか。酒が回っているせいもあってか、明らかに人並みの羞恥心がなくなっているのを感じる。

「俺の肩を優しく叩いてくれた手も、『お疲れ様』って言ってくれたあの口も全部使用済みなのかと思うとつらすぎて死にそうだ……」

「リアルな妄想するからでしょ」

「どうせならヤッてからフッてほしかった」

「絶対そっちの方がショックでかいと思う」

 酒を飲んで喋っていると、いかに自分がいやらしい目で後藤さんを見ていたかがよく分かった。だがそれも仕方のないことだと思う。この歳になると、どう頑張っても恋愛感情と性欲は切って離せない関係性になってくるのだ。そういうものなのだ。

「まあ、僕は疑問が解消されてスッキリしたけどね」

「疑問って?」

「いや、あんなに美人な後藤さんに男がいないわけないって思ってたんだよね。しかももうあの人28でしょ? そろそろ女性は結婚を焦り始める歳だろうし」

「そう、だからこそ押せば行けると思ってたんだよなぁ……男がいるなんて知らなかったからよぉ……あ、お姉ちゃん! ビールおかわり」

 俺が手を上げて居酒屋の店員に注文をすると、橋本は溜め息をついた。

「飲みすぎだって。僕、今日は終電前には帰るからね」

「わァってるって」

「どんだけ吉田が体調悪くしても、介抱しないからね」

「大丈夫、大丈夫」

 橋本の忠告も適当に聞き流し、浴びるようにビールを飲んで、俺は失恋の苦しみから一時的に解放されたような気分になっていた。


   *


「おぇ……ンッ……う、うェェ……」

 道路の側溝の前で両手をついて嘔吐した。

 居酒屋から出て、橋本と別れ、タクシーに乗ったところまでは良かった。タクシー車内の独特な匂いで酔ってしまい、おそらくその酔いをトリガーにして酒からくる吐き気も同時に来てしまったのだ。

 タクシーを降りてすぐに、嘔吐した。つまみで食った肉やら野菜やらが出た。

 少し歩いたところで、また嘔吐した。アルコール臭い液体が出た。

 そして、今、家の近くの道路でまた嘔吐している。黄色い液体が、出た。苦い。

「クソォ……後藤ォ…………」

 全部あの女が悪い。

 よろよろと立ち上がって、数歩歩くとまた吐き気が来る。しかし、もう吐くものなどないということも分かっているので、しゃがみ込むのはやめた。

 吐き気を我慢しながら歩いていると、十字路の横に建っている電柱が目に入った。あの電柱のある十字路を右に曲がれば、もうすぐ俺の家だ。

 ぼんやりとする目で電柱を見つめながら歩いてゆく。すぐに、その電柱の違和感に気が付いた。電柱自体というよりも、電柱の下だ。電柱の下に、人がうずくまっていた。

 ……酔っ払いか?

 都会の駅の近くだと、地面に人が転がっていることはよく見る光景だが。自分の家の近所で人が路上でうずくまっているというのは初めてだった。

 近付いてゆくと、どうやらそれが女性であるらしいことと、しかも女子高生であるらしいことが分かった。なぜなら、その人物は『制服』を着ていたから。紺色のブレザーに、灰色のチェックスカート。スカートを穿いたまま体育座りでうずくまっているものだから、下着が丸見えになっている。黒だ。

 ……コスプレではなさそうだ。

 瞬時に俺は判断する。都会の〝それらしい〟通りを歩いていると、女子高生の恰好をした女が客引きをしている姿はよく見るが、そういったコスプレにしては、電柱の下の彼女の制服はあまりに〝地味〟だった。

 ちらりと腕時計を見ると、時刻は深夜1時を回っていた。こんな時間に女子高生がどうしたというのだろうか。

「おい、そこの。そこのJK」

 気付けば、声をかけていた。

 女子高生は膝と胸の間にうずめていた顔を上げて、ぼんやりと俺を見た。

「こんな時間になにしてんだ。家に帰れ、家に」

 俺が言うと、女子高生はぱちくりと瞬きをして、口を開いた。

「もう電車ないし」

「朝までそこにいんのか」

「それも寒い気がする」

「じゃあどうすんだよ」

 女子高生は、うーんと唸って、首を傾げた。

 よく見ると、なかなかに可愛い顔である。髪の毛は黒に近い茶髪で、目は切れ長。鼻はラインは綺麗だが、先端は丸かった。〝美人〟と〝可愛い〟の中間にいるような顔をしている。可愛いとは思うが、俺の好みではない。

 首を傾げていた女子高生は、スッと首の角度を戻して、俺をじっと見た。

「おじさん、泊めてよ」

「おじ……お前なぁ」

〝おじさん〟と呼ばれたことと、その女子高生の妙に尻の軽そうな感じに腹が立ち、俺は声を大きくした。

「会ったばっかりの〝おじさん〟についていく女子高生があるか!」

「でも今日帰るところないし」

「駅まで戻ればカラオケとかネカフェとかあるだろうが」

「お金もないの」

「じゃあ俺の家には無償で泊めろって話か?」

 俺が訊くと、女子高生は、「あー」と声を上げて、すぐにひとり頷いて言った。

「ヤらせてあげるから泊めて」

 俺は絶句した。

 最近の女子高生はみんなこんな感じなのだろうか。いや、絶対にそんなことはないはずだ。こいつが明らかにおかしいのだ。

「そういうことを冗談でも言うんじゃねえよ」

「冗談じゃないって。いいよ?」

「こっちが願い下げだ。ガキくせぇ女を抱けるか」

「ふぅん」

 女子高生は頷いて、今度はとびきりの笑顔を作って言った。

「じゃあ、タダで泊めて」

「……」

 再び、俺は絶句した。

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