第4話 錯覚
「はぁ……はぁ……ゴホッ……ゴホッガハッ……!」
酷い熱だ。
――解熱剤を……
しかし喉も腫れている。喉に薬を詰まらせたらどうしよう。
今から先生に来てもらえるだろうか? 駄目だ、こんな状態のご主人様を放って出られない……――
僕はこんなとき、なにもできない。焦りだけが先行して混乱してしまう。
「ご主人様……」
そう狼狽しながら彼のことを呼ぶだけだ。
「ご主人様死なないでください。あなたが死んでしまったら、僕はもう……――――」
強く死なないでほしいと祈る。
僕が治癒魔術の系統なら……何百回とそう考えた。大切な人を救えない破壊の力なんてあっても仕方がない。
守ることはできても、癒すことは出来ない。
彼の身体は荒く呼吸をしていた。しきりに胸が上下して、苦しそうに身をよじっている。
――汗を拭かないと余計に悪化してしまう。
僕は急いで水と布を持ってきて寝室に戻ると、ご主人様は上半身を起こしていた。
「ご主人様、横になっていないと駄目ですよ! 酷い熱なんですから!」
「うるせぇ……俺の勝手だろうが」
彼は頭を抱え、呼吸が整わない内に何度も咳をする。
「ご主人様お願いします。横になってください。今お身体を拭きますから……」
「いらねぇよ」
力なく強がって見せる姿。
無理にでも止めるべきだろうか。それとも本人の自由にさせるべきか。
いや、考えるまでもない。止めなければ死んでしまうかもしれない。
僕は水をその辺において、ご主人様をベッドに押し倒した。抵抗する力もない様子で、汗ばんでいる熱い身体で苦しそうに喘ぐ。
「ッ……なんだよ、お前には珍しく積極的だな?」
弱々しい声。
ご主人様は自身を押さえつけている細い僕の腕を掴んだ。振りほどけないと解ると、その指は僕の肌を力なくなぞった。
いつもとは違って艶めかしさがない。
「寝ていてください。無理にでも寝かせます」
僕が必死にそう訴えると、ご主人様は観念したように深くため息をついた。
顔を見られないように横を向いて、表情を隠そうとする。
「……解った。そのかわり傍にいろ」
腕を引かれて抱きしめられると、ご主人様の身体の熱を感じ取る。かなり発熱している。
こんな風に抱きしめられることに慣れていない僕は、心臓の脈動が徐々に早くなっていくのを感じていた。
「いつでも傍におります」
「あぁ……ゴホッ……ゴホッ!」
僕には病気の苦しさが解らなかった。
すごく苦しいんだろうってことだけは見れば解る。いつも気丈なご主人様が、こんなに弱いところを見せてしまうのだから。
不謹慎だとは思ったが、こうして抱きしめられると嬉しい気持ちが強かった。抱かれるのとはまた違う、大事にされているという感覚。
――いや、違う。
勘違いだって解っている。
ご主人様は僕のことを大事になって思っていない。自分の都合の良い玩具でいてほしいだけだ。自分の傷をなめてくれる存在がほしいだけなんだ。
そう思っていると、間もなくご主人様の寝息が聞こえてきた。
眠るとすぐに解る。
毎晩その寝息を聞いてから僕は眠っているから。
あれこれ考えながらご主人様に抱きしめられたまま眠った。
◆◆◆
珍しく僕は悪夢を見なかった。まるで母親が子供にするように愛情を注がれて抱きかかえられているような感覚だ。
僕の小さい頃、かすかに残る家族の記憶は思い出したくもない悪夢に塗りつぶされて、よく覚えてすらいない。
ただ、母が子を抱くその柔らかく暖かい感触だけはなんとなく覚えている。
僕は上半身を起こして、ご主人様の熱がないかどうか額に手を当て確認した。もう額は熱くない。
――良かった……熱は下がったんだ…………
僕が安堵しているとご主人様は目を覚まし、当然のように僕の太ももに頭を乗せた。
「熱は下がりましたか……? まだ無理をされない方が……」
「大丈夫だ。このくらい」
僕は恐る恐るご主人様の肩まである銀色の長い髪を撫でた。まっすぐで少し硬い髪。手入れがされていない伸ばしっぱなしの髪。
僕の大好きな髪。
「お前……髪、邪魔じゃねぇのか?」
ご主人様が僕の長い赤い髪に触れて弄ぶ。くるくると彼の白い指に赤い髪が絡むところを彼の目が捉える。
「ご主人様が長い方がお好きだと……」
「別に切ってもいいんだぜ?」
「触れてくれた髪を切りたくないんです」
「くく……」
髪の毛の次は首輪の鎖をもてあそぶ。ジャラジャラと音が静かに鳴り響く。
「そろそろお食事を……」
僕が名残惜しさを感じつつも、立ち上がろうとすると腕を掴まれた。
「もう少し……このままでいろ」
「……はい、ご主人様」
なんて幸せなんだろう。
と、同時にまた……失ってしまうのではないかと怖くなる。
今が永遠に続けばいいのに。この上ないほど幸せなのに。ご主人様は魔女の僕より早く歳をとってしまうし、僕より早くに……――――
「お前、寝ているときにうなされているよな。いつも何の夢見てんだよ」
思考を遮るようにご主人様は僕にそれを聞いた。
僕は言ってもいいのか言わない方がいいかと悩んだ。両親が殺された夢だなんて言いたくない。
憐れまれたくない。
きっとご主人様はそんな憐憫を僕に向けたりしないって思っていても。
「……小さい頃の夢です」
「どんな?」
咄嗟に何も出てこなくなってしまい黙ってしまった。どう話したらいいか解らなかった。
僕は本当のことなんて何一つご主人様に話すことは出来ない。嘘はつきなくないのに、嘘の上でしかこの幸せは成立しない。
でも、彼には嘘をつきたくない。
その気持ちが倒錯する。
嫌な汗が出てくるのを感じる。僕はなかなか出てこない言葉を懸命に紡いだ。
「……父さんと母さんが魔女に殺されて……」
「お前の親も魔女に殺されたんだな」
ご主人様はゆっくりと身体を起こした。
彼のぬくもりが僕から離れてしまうことに残念な気持ちが萌芽する。
「俺のオヤジとお袋も、魔女に殺された。顔は覚えてねぇ。ガキの頃だったからな」
「…………」
なんと返事をしていいか解らず、僕は黙ってしまう。
「魔女がこの町からいなくなって別世界にきたみてぇに生活も変わった。今までの地獄が嘘みたいだ……けどな」
ご主人様は顔だけで僕の方を向いて、言葉を続ける。
「おかしいんだよ。魔女の支配を逃れて2年も経つのに何も起きやしねぇ。人間が革命を起こしたなんて話が、魔女どもに知れない訳がねぇ」
僕はドキリとして目を泳がせた。
「町の連中は口には出さねぇが、いつか……またここに魔女がくることにビクビクしてやがる。革命が成功したのも、この町の魔女が下位の魔女だったのと、運が良かったからにすぎねぇ。また魔女が来たら、ここの連中は間違いなく皆殺しだ。俺も、お前も……」
そうだ。
しかし、そうはさせない。
僕が絶対にそんなことさせない。
絶対に彼のことを守り抜く。
そう決意を強く握りしめる。
「魔女なんか大嫌いだ。全員残らずくたばっちまえばいいのによ……」
怨嗟の混じるその言葉を聞いて、僕の思考も呼吸も一時的に止まる。
やはり、僕が魔女だと気づいたらご主人様は僕を捨てるに違いない。そう確信すると胸が締め付けられるように痛んだ。しかし、その気持ちも痛いほど僕には解る。僕だって魔女は大嫌いだ。
「僕も、魔女は嫌いです」
魔女である自分のことが大嫌いだ。
自分が魔女ではなかったら、ご主人様と同じ人間だったらと何度も何度も考えた。けれど、ご主人様を守るためには僕は魔女でなければならない。
でも、もし本当に魔女がきたときに、僕は自分が魔女だと知られても彼を守れるだろうか。守れたとしても、彼の傍にはいられなくなってしまう。
「ふぅん」
ご主人様は僕の首の鎖を引っ張って、引き寄せて僕を抱きしめた。
そのまましばらく抱きしめられていた。
僕が魔女だと解ったら、もうこんな風に抱きしめてくれることもなくなるだろう。今までずっと隠していたことも糾弾されるに違いない。あるいは、二度と目も合わせてくれなくなってしまうかもしれない。
「今日は俺が料理してやるよ」
その言葉に僕は暗い気持ちがかき消され、嬉しい気持ちが先立った。しかし、病み上がりのご主人様に無理をさせるわけにはいかない。
「そんなっ、だってまだお身体が……僕が作りますから」
「ばーか」
コツンと僕の額を小突く。
「お前の下手な料理じゃ薬がますます進まないだろうが」
「……ごめんなさい」
「本当だぞ、もっと上手くなれ」
上手くなったら、あなたは僕のこと少しは見てくれますか……――――
そう口に出すことができたら、どんなに良かっただろうと僕は内心思っていた。
口には出せなかった。
◆◆◆
ご主人様の容態は良くなったり、悪くなったりする。
でも……倒れる程だなんて僕は思っていなかったから焦っていた。勿論この生活が永遠に続くわけがないのは解っているのに、でもそれが実際に終わってしまうと感じると僕は心臓を握りつぶされるのではないかとすら感じる。
それは恐怖と等しい感情だった。
元々ご主人様の身体は弱いと聞いていたが、それにしてもこんなに体調を崩すのは何が原因なのか僕は解らなった。僕は勉強不足だと一生懸命勉強して、仕事をしてなるべくご主人様の身体の負担が少なくなるようにと努めた。
「今日は薬草を採りに山に行ってきますね」
「あぁ、遅くなるなよ」
「解りました」
僕はご主人様の方をじっと見つめた。
――帰ってきてまた倒れていたらどうしよう……
「どうした?」
「あ……いえ……」
少し気まずく、僕は目を逸らす。
「どうせ、帰ってきて倒れていたらどうしようとか考えているんだろ? 大丈夫だ。その為にお前のクソまずい薬飲んでいるんだろ?」
気丈にご主人様はそう言う。
根本的にご主人様の身体のどこがどのように悪いのか、弱いのか僕には解らなかった。薬を飲んでいるからと言って、倒れないとは限らない。
「正直に申し上げますと、不安です」
この不安がなくなる日は絶対に来ない。
「それだけ……あなたが大切なんです」
「だろうな。俺がいないと生きていけないもんな?」
さも当然のように彼はそう言った。
その自信家なところが僕は好きだ。僕は自信がない。
生きていることに対して自信がない。彼の傍にいていいのかすら、自分の居場所というものに対して自信がない。僕にはなにもない。
彼を除いては。
今の僕にはご主人様が生きる意味そのものなのだから。
「ばーか。余計なこと考えてないでさっさと行ってこい」
僕は手に持っていた薬草を摘んで入れる為の籠の持ち手をギュッと強く握った。
どうしてこんなにも脆いのだろう。その危うさが僕をこんなにも不安にさせる。何か策があるならそれを見つける為に捜しに行きたい。
でも、離れたくない。離れている間にあなたは僕の手の届かないところへ行ってしまいそうで。
「はい、早めに帰ってきますね」
僕は泣きそうになった。しかしそんな顔見せるわけにはいかなかったから、早々とご主人様の家を出た。
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