『見てるの。』
毒の徒華
第1話 満員電車
俺は35歳、独身。彼女いない歴=年齢。
太り気味、目は厚い一重、アデノイド顔、歯は少し並びが悪い程度。
うだつの上がらないサラリーマン。毎日良いことなんてない、心に穴が開いているような生活をしている。
「はぁ……」
俺がいつも通り会社に行くために歩いていると、何かの演説をする女がいた。身体に襷たすきをかけて、この6月の暑い中懸命に叫ぶように声を張り上げる。
「幸せというものは、自分の手で掴み取らなければならないのです!」
「目の前の小さな幸せを逃したらいけません!」
「例えば目の前の美味しいご飯! 休みの前の睡眠の心地よさ! 今ある家庭は当たり前ではないのです! ほんの些細な事故や災害で今の幸せは引き裂かれ―――――」
――あぁ……朝からうるさいなぁ……
これから満員電車に乗って会社に行って、満員電車でもみくちゃにされながらくたくたで帰ってくるんだ。そんなこと言われたくないよ。
そう心の中で悪態をつきながら、横目でチラッと必死に声を張っている女を見て、俺はいつも通り駅のホームへと向かった。
地下の暗いホームだ。蛍光灯の光だけを頼りに俺は重い足取りでいつも乗っている場所へたどり着いた。
――今日も混んでるんだろうなぁ……俺の周りだけ空いてくれないかなぁ……
そう思いながら電車を待っていると、予定通りにホームに電車が到着する。
いくらか自分の乗っている車両はいつもよりも少しばかり空いているような気がした。
――少しだけ空いてる……? いや、気のせいだ……
俺はその満員電車に乗った。
知らない人間と人間の間に挟まり、汗と汗がまじりあい、気持ちが悪い。
あばらの骨が折れそうになるほど押し込まれる。
――ぐぇええ……勘弁してくれよ……
そう思いながらも目の前にいた女子高生と俺は密着していた。痴漢冤罪などの対策として両手はつり革を掴んでいるが、胴体の部分はぴったりとくっついている。
そのときばかりは自分の腹が出ていてよかったと感じた。
朝演説していた女が「目の前の小さな幸せを逃してはなりません」と言っていた言葉をふと思い出す。
女に縁のない俺が女に密着できる合法空間と思うなら、まぁそれも悪くないと俺は前向きに考えた。
目の前の女子高生の肩甲骨辺りまである黒い髪を俺は何度も見つめてしまった。
女子高生を見る間、電車の中のモニター広告やニュースにふと目をやると、奇怪なニュースをしていた。
「×××区にて部屋中ガムテープが貼ってある状態で男性の遺体が発見されました。事件の可能性もあるとして警察は調べを続けています」
――部屋中にガムテープ? なんだよそれ、気持ちわりいな……
そんな状態で立ったまま10分程度、会社の近くの駅に降り立つと俺は残念な気持ちにもなりながらホッと一息つく。
身動きも取れなかった自分のスーツの上着を脱いで手に持つと、再びため息が漏れる。上着のポケットに目をやると、何か白い紙のようなものが入っている。
――なんだ? これは……
それを指先でつまんで引っ張り出すと、何か書かれていた。
『見てるの』
と書いてあった。女が書きそうな文字だが、やけに崩れていて読みづらい。
なんのことか解らなかったが、俺は心当たりがふと脳裏によぎると俺はその紙を反射的に手を放して落としてしまう。
――さっきの、女子高生を見ていたことが誰かにばれていたのか……?
心臓の鼓動が跳ね上がりながらも、俺は息を落ち着けた。
――いや、違う。そんなにまじまじと見ていたわけじゃないし……っていうか、見てるだけなら痴漢でも何でもねぇし……!!
俺は不気味な紙を落としたまま放置して会社へ向かった。
◆◆◆
【数週間後】
最近、通勤が快適になった。
何故か俺が乗っている車両がやけに人が少なくなった。
通勤が快適になっただけで俺は会社に行くこともそう苦痛ではなくなってくる。不思議なものだ。
朝の通勤の時間に席に座れるなんてまるで夢のようだ。
――なんでだ? 学校は夏休みか……いや、時期的にまだ早いか……女子高生もまだ乗っているし……
隣の車両は何故か満員のようで、息苦しそうに肩を寄せ合って乗っている。
理由は解らないが、俺は目の前の幸せを感じていた。丁度目の前に座っていたOLのような女のスカートの中からもう少しで下着が見えそうだった。
――もう少し脚開けよ……そうすれば見えるのに……
悶々としている内にいつも駅に到着する。
そしていつも通り冷房の効いた車両から降りると外は蒸し暑く、俺は上着を脱ぐ。
すると、白い紙が再びポケットに入っていた。心臓が再び跳ね上がる。
目を見開いたままその紙を恐る恐る引き出して、書かれている文字を見ると
『見てるの。■■を』
と書いてあった。また同じ文字だ。字が崩れていて読めない部分がある。
どう頑張ってもなんと書いてあるのか解らない。
「なんだよこれ……」
俺は再び気味が悪くなり、その紙をその辺に捨てたまま会社へと向かった。
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