第十一章
散々玻璃に泣かれた翌朝、どういうわけか泣き腫らした様子すら見せない彼女にある頼み事をした。少し不満な顔を見せたが、納得はしてくれたようだ。
そして、車に乗せ、本部へ向かう。
「いいか? もう一度確認するぞ?」
本当にこいつの頭で理解できているのかと不安になりながら念を押す。
「本部に着いたらお前はまず一番奥の部屋に居るリリムのところに行くんだ」
「うん」
玻璃は真面目なふりをする子供の様に頷く。
「リリムは藍色の髪の着物という日ノ本の衣装を着ている女だ」
「うん」
「そいつにどうしても力を借りたいって頼め」
「うん」
本当に理解しているのだろうか。
「断られても何度でも頼み込め」
他にアラストルの命が無事で済みそうな手段が思い浮かばない。
「うん。で? その人になにを頼めばいいの?」
子供特有の純粋な疑問を口にするような雰囲気に、どうやら流れ自体は理解したのだと安心する。
「内容は話さなくていい。話したところでリリムは一晩で忘れちまう」
あの女は憐れな女だ。それでも、そのことに気付かずにいつも幸せそうに微笑んでいる。
「どうして?」
「リリムは目覚める度に記憶が消えるんだよ。十三年前までしか記憶がないんだ」
この十三年、彼女は毎朝、日々の生活がすっぽりと抜け落ちてしまう。
「それ、本当?」
本気で驚いたという顔でアラストルを見る玻璃に、お前がそこまで驚く方に驚いたという言葉は飲み込む。
「ああ、とりあえずハデスの幹部と夫のことは壁に貼ってある写真なんかで思い出せるようになってる。リリムさえ協力してくれればハデスの戦力は総動員できる。だからお前はただリリムに力を貸してくれと頼むだけでいいんだ。わかったか?」
「うん」
玻璃があまりにも力強く頷いたのでアラストルは少し不安になってしまった。
リリムという女は魔性の女だ。本人は清純そうな見た目をしている。だが、男を惑わす女だとアラストルは思う。なにせ尊敬するボスさんを一瞬で惑わしてしまった女だ。
たぶん、そこそこいいところのお嬢さんだったのだろう。それが誘拐されたのかなんなのか、この国に現れた。とんでもない魔術師の弟子らしく、時々「先生」と口にしたり、そいつのところに手土産を持って訪問したりしている。
いつも、周りに蝶が飛んでいるのは、彼女の強大すぎる魔力を発散するためだ。そして、その蝶が、彼女の記憶を奪っている。
彼女は毎日ルシファーに恋をして、眠りに落ちると同時にその心を忘れてしまう。記憶を維持しようと、ルシファーは様々な手段を試しては居るが、今のところなにひとつ成功していない。
ただ、眠らなければその時間は記憶が持続する。
そう、リリムの記憶は朝陽が奪うのではなく彼女の眠りが奪ってしまうのだ。
記憶を失うようになったのは弟を亡くしたせいた。あまりにも無残なその姿を彼女はその目で見てしまった。ルシファーが駆けつけたときにはもう、彼女の魔力は彼女を守る為に記憶を消してしまった後だった。
いつも帰らない弟の帰りを待ち、まだ恋も知らないまま交際を始めたばかりの恋人と過ごす。時々、師の元へ訪れ、何度読んでも初めての物語を開く。それが毎日繰り返す彼女の行動だ。
日によって、周囲の人間の動きで変化がつくことはある。けれども、眠りから覚めればまた同じ日を繰り返す。
年上の強引な恋人に求婚された日の記憶も、結婚式も、両親を失った日の記憶も、なにも残らない。
ただ、毎日、同じことの繰り返し。
憐れだと思う。けれども、彼女は毎日幸せそうに微笑んでいる。
あの強引な恋人が夫となっても、少し歳を取っても、彼女はなにひとつ変わらない。そして、ルシファーもそれを受け入れている。
本部に到着すると、アラストルは真っ先に玻璃をリリムの部屋へ向かう通路まで引っ張り、見つからないように奥の部屋に入れと指示を出す。まるで家守のように天井に張り付いて動き出したときは流石に驚いたが、待ち伏せが得意な殺し屋だ。身体能力は極めて高い。万が一の時は自力で脱出出来るだろう。
玻璃が行ったことを確認し、何事もないようにルシファーの部屋へ向かう。
珍しく、真面目に書類に目を通している様子だった。
「おい、ルシファー」
声を掛ければ不機嫌そうに睨まれる。今朝は嫁に振られたのか、怯えられたのか……頬が僅かに腫れているように見える。
「ディアーナの情報をありったけくれ」
そう告げれば一層眉間の皺が深く刻まれる。この男がセシリオ・アゲロを憎んでいることは誰よりも知っているつもりだが、その分情報も握っているはずだ。
「んなモンどうする?」
「近いうちに一戦交えるかもしれねぇ」
かも、どころかほぼ確実だろう。
「……おもしれぇ。その戦、おれも混ぜろや」
珍しく、ルシファーは乗り気だ。
単に虫の居所が悪いから暴れたいだけなのか、あのセシリオ・アゲロの首を取る好機だとでも考えているのか。
「俺が仕入れられたのは幹部四人の名くらいだ。そのうち一人は十年前に死んでいる」
「アルジェントか」
詳細を語らなくてもルシファーはしっかり把握していた。それどころかアラストルが集めた情報以上のものを握っているようだ。
「他にヴェント、レオーネ、そしてドーリー。ドーリーは玻璃のことだな。それと、レオーネがセシリオ・アゲロの妻らしい」
手に入った情報はそれだけだと告げればルシファーは嫁の写真に手を伸ばしながら「その二人とは接触したか?」と訊ねる。
やはり今朝は嫁となにかがあったのだろう。
「ああ、ヴェントかレオーネのどちらかはわからねぇが大聖堂で二回、女に会った」
あの朔夜とかいう女の顔を思い出しながら告げれば、あっさりと答えを示される。
「そいつがレオーネだ」
「なに? あの女が?」
一瞬、最初に見た一瞬は聖女に見えたあの女が恐怖の代名詞とまで言われるセシリオ・アゲロの妻とは信じられない。
あの、必死に玻璃を探しているような様子は、純粋にその身を案じているようにしか見えなかった。
「レオーネは大聖堂付近で目撃されることが多いからな。
「……あの女が……レオーネ……」
暗殺どころか虫一匹殺せなさそうな女に見えた。
「ドーリーはレオーネのお気に入りだと情報屋が言っていたな」
「そうか……敵の拠点がわかればそこを包囲して攻め込めば早ぇが……あの女はそこまでは使えねぇだろ」
一応拠点と噂されている店はあるが、まさかそんな堂々と目立つ営業をしているはずがない。罠の可能性が高いなんて子供でもわかる。だからルシファーも相手をしていなかった。
あの女、彼が口にしたときそれが誰を示すのか、アラストルは一瞬考える。
「玻璃のことかぁ?」
まさか利用価値があると判断されていたのだろうかと驚く。
「他に誰がいる」
当然だろうと睨まれてしまう。
「あいつは今回はこれ以上関わらせねぇ。今はあいつも追われている身だ」
危険は極力避けてやりたい。そんな願いを読まれてしまったのだろうか。ルシファーは妖しく笑う。
「おい、まさか女一人の為に戦争おっぱじめる気じゃねぇだろうなぁ?」
一瞬不機嫌な目に戻ったと思った。
「……それは……」
「敵の頭の首を取ってしめぇじゃねーんだよ。残党まで潰してようやく終わるのが俺らのやり方だろう?」
強大な渦巻く魔力。
昔に戻ったようだ。
敵は一族の末裔まで残さず徹底的に潰す。
それが本来のハデス流だった。
「ルシファー様、いらっしゃいますか?」
急にルシファーの魔力が大人しくなったと思えば、甘ったるい女の声が響いた。夢見る少女の様な甘い声の主は何年も同じ日を繰り返し続けているリリムのものだ。
「ああ」
ルシファーが静かに返事をすれば着物姿の女がゆっくりと中に入る。
「なにかあったか?」
先程まですぐにでも戦争を始める準備は出来ていると言わんばかりの様子を見せていた気配を微塵も感じさせず、少し案ずるような視線を向ける。
「こちらのお嬢ちゃんが力を貸して欲しいんですって。よろしいでしょう? こんなにかわいいこの頼みを断るわけにはいかないもの。ねぇ? リリアン」
どうやらリリムは完全に玻璃をリリアンだと認識しているらしい。
「……違う、玻璃」
リリムに手を引かれ、一緒に部屋に入ってきた玻璃は随分と複雑そうな表情に見える。
「……丸め込まれたか」
一瞬、呆れを見せたが、すぐにリリムを愛おしそうに見つめる姿は痛ましくも見えてしまう。
「あら、たまにはいいでしょう? ルシファー様」
たまには。
そう、口にする彼女には十三年分の記憶がない。ただ、毎朝写真を確認し、人間関係を確認し、同じ一日を繰り返す。
季節が変わっても、彼女はもう不思議に思うことさえない。
「ああ」
ルシファーは妻に手を伸ばし、それから優しく抱きしめる。
「で? どうしたい? ドーリー」
話は聞いてやるよと大切そうに妻に触れながら言う。この状況なら、極端に機嫌を損なわなければ問題ない。
けれども玻璃が言いつけ通りに動けるか不安になる。
「アラストルに力を貸して」
玻璃はそれだけ言って黙り込む。
上出来だ。
少しばかり親に仕込まれた挨拶をしてみせる子供感が出てしまったのは仕方がないが、玻璃にしては上出来だった。
「なるほど……てめぇにしては考えたじゃねぇか」
どこか面白そうに笑うルシファーに安堵する。
その腕の中でリリムはただ微笑んでいた。
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