第三章





「アラストル」



 暗闇の中、後ろから呼ばれた気がした。

 叩きつけるような激しい雨の音が響く。

 闇の中だと言うのに、アスファルトを流れ排水溝へと向かう雨水に混ざる赤だけは鮮烈に認識出来てしまう。


「アラストル」


 再び声がする。縋るような声の主ははっきりと記憶の底に存在している。


「どうして助けてくれなかったの?」


 鮮血に染まるリリアンが傷口から更に命の雫を溢れ出させながらアラストルの腕を掴み、蝋のような赤い涙を流した。




 嫌な夢を見た。夢だとはわかっているが全身から噴き出した汗を吸い込んだ寝衣が体に張り付く感触に嫌悪を抱くまで、それが現実であったような奇妙な感覚。

 予定よりも大分早く目が覚めてしまったが、二度寝する気にもなれない。

 そうか。今日だったか。嫌な夢を見るわけだ。

 髪を掻き上げる。

 まずはシャワーだ。

 玻璃を起こさないようにできるだけ物音を立てないよう気をつけ浴室へ向かう。

 排水溝が詰まりやすい。この建物が相当古いことも理由の一つではあるが、アラストルの無駄に長い髪が主な原因だ。しかし、妙に早い気がする。そう思い確認すれば自分とは違う色の髪が詰まっている。

 思わず笑ってしまう。あんなに嫌な夢を見た後だというのに、ただ排水溝に玻璃の髪が詰まっていたと言うだけであの嫌な気分が軽減されてしまうのだから、なんだか子育てに戻ったような気分になってしまう。

 いつまで居座る気なのかわからない。けれども、不思議と邪魔だとは思わない。その事実を認識し、僅かに驚いた。


「ねぇ」

「ん?」

 いつも通りの貧しい朝食の最中、珍しく玻璃が口を開いた。おかわりを強請られるかと少し身構えたが違ったようだ。

「今日、出かけたい所があるんだけど……」

「ん? 今日? 明日じゃダメか?」

 今日は都合が悪い。アラストルにも用事がある。こればかりは日を改める訳にはいかない。

「うん。今日じゃないとダメ」

 珍しいと思う。

 普段の玻璃ならば水のように流れに身を任せ、言われるまま従う。たまに暴言を吐くが、あれは周囲の大人がそんなことを言うから面白がって真似をする子供のそれだとこの数日で理解している。

「アラストル、あのね、教会の前の噴水のある広場、わかる?」

「おう、俺もそこに用がある」

 まさか、と考える。


 リリアンと玻璃にはなにか繋がりがあるはずだ。


「凄い偶然。嬉しくないけど」

 相変わらず感情の色が乗らない声。けれども僅かに揺れる瞳が寂しさの色を映した気がする。

「なんでだよ」

 知りたい。その僅かな感情の揺れを。そう重い訊ねた。

「今日は私の人生最大の厄日だから」

 じっと見つめる瞳は、人形の硝子で出来た瞳のように何処を見ているのかわからない。

「は?」

「大切な人の命日」

 色のない透き通る声が答える。この瞳は、アラストルを見ているようで別の誰かを見ているのかもしれない。

 ぴったりと重なった。

 これは偶然なのか?

 アラストル自身、玻璃の中に別人を見ていないと言えば嘘になってしまうのだから。


 朝食を終え、玻璃と二人で街に出る。まずは花屋だ。この辺りにはこの店しかなく、他の地方に比べてかなり高い気がするが仕方がない。値引き交渉は基本だ。なにせ王都だ。なんでも高いに決まっている。

 以前は気難しそうな男が店主だった気がするが、今日は金髪の若い男が黒いエプロンをして立っている。まさか息子と言うことはないだろう。あの店主とはなにもかもが違いすぎる。

 若い店員に二人分買うから値引きしろと交渉し、なんとか半額を勝ち取る。この国では値下げせずに買うやつはカモだ。値下げしないのは外国人観光客か計算の出来ない馬鹿しかいない。出来ればもう少し下げたかったが玻璃がこの店でなくても高価だろう花を選んでいたので妥協した。

 アラストルは白い小さな花束を、玻璃は紫の、両手で抱えるのがやっとなほど大きな花束を抱えて店を出る。

「アラストル、白いのばっか」

 玻璃は不思議そうに見る。表情自体はあまり変わらないはずなのに、大分その変化を見抜けるようになった気がした。

「ん? こんなもんだろ? そう言うお前は……紫の薔薇って……」

 薔薇の名産地、ローザでも珍しい品で貴族でも相当特別な時にしか使わない高価な薔薇だ。特に、玻璃が選んだ紫は滅多に出回らない、庶民の手に届くのが奇跡とも言える品だろう。たぶん貴族の予約品の余りだろうが、それにしても随分と思い切って仕入れた物だ。たぶん他の人間には売れない

「シルバが好きだったの。いつか百万本の薔薇を贈るって約束したけど……できなかった」

 そう言う玻璃の表情は微かに陰った。そう、見えただけかもしれない。ただ、今までよりもずっと寂しさの色が濃く表れたような気がする。

「そうか。……なぁシルバってどんなやつだった?」

 なんとなくそう訊ねた。玻璃の感情を揺さぶれるのだから相当特別な存在だったのだろう。

「アラストルに似てた」

 彼女はそうとだけ答える。アラストルに似ているというのは外見か性格か。もしくは両方かもしれない。なんとなく、玻璃が任務を放棄した理由が見えた気がする。大切な人に似た存在なら玻璃でなくても躊躇ってしまうだろう。

「ここ、もう十年だ……」

 噴水の前で玻璃が呟く。

「なにがだ?」

 その先を聞きたくないはずなのに、訊ねずにはいられなかった。

「ここでね、女の子が殺されたの……」

 自分の中で強く鼓動が響いた気がする。

「シルバと一緒に、あの子は関係無かったの……」

 それ以上はなにも言うな。聞きたくない。そう思うのに、アラストルの思考は玻璃の言葉を遮るよりも先に結論に辿り着いてしまう。


 リリアン


「あの子は……私のかわりに殺されたの……」

 玻璃は俯いた。長い睫が作り出した影が涙の代わりに深い悲しみを表しているようにさえ思う。

 とくん。

 また内側でなにかが蠢く。この先は触れてはいけないと脳内で警告が響くのに、唇は問いかけてしまう。

「その子の名前は?」

 飛び出した声はたぶん、震えていた。頼むから答えないで欲しい。もしくは、想像とは別の音を発して欲しい。そう、強く願った。

 ゆっくりと玻璃の唇が紡ぐ。あの感情を読み取れない透き通った硝子の声で。

「リリアン」

 たった一言。ただ音が存在するだけのように響く。

 予想していた。既にその結論に辿り着いていたというのに感情がそれを否定するように頭がまともに思考をしたがらない。

 体が重く、その場に縛り付けられているようで、目の前が暗くなるとはこのような状況を示すのだろう。

「なぜ……」

 やっとの思いで絞り出した声はただ、問うことしか出来ない。

「なぜ……リリアンは殺された?」

 溢れそうになる感情の波を必死に抑えた。

 玻璃に言っても仕方がないことだ。彼女もまた、ここで大切な存在を失ったのだ。この怒りも悲しみも憎しみも全て玻璃にぶつけるものではない。

「私と間違えたの……。銀の剣士の傍にいる黒い髪の子供。銀の剣士なんてシルバしかいないと思っていたみたいだったけど、依頼主の誤解ね。銀の剣士も黒い髪の子供も二人いたの……」

 シルバと玻璃。

 アラストルとリリアン。

 二組の銀の剣士と黒い髪の子供……。

 どちらも同じ年頃で、偶然その場にいたのだろう。

「なぜ?」

 あの日の光景を呼び覚ましながら問う。

「たまたま……私がサーカスを見たいって言って、シルバが連れて来てくれたの……」

 十年前、丁度この場所にサーカスが来ていた。屋台もたくさん並ぶ一種の祭りのような賑やかさで子供達はみんな道化師の配る風船を欲しがっていた。リリアンも他の子供達と同じように駄々を捏ね、非番だったアラストルは渋々二度寝を諦め付き添った。

「……迷子か……」

 あの人混みを思い出す。年齢の割に背が低かったリリアンはすぐに人混みに飲まれ、はぐれてしまった。その光景を思い出しながら言えば、玻璃は静かに頷く。

 その瞳には、僅かに涙が浮かんでいるように見えた。

 サーカスの人混みに飲まれ二人の黒い髪の少女が、それもよく似た二人の少女が迷子になり、またよく似た二人の銀の剣士に探されていたのだ。

「シルバが、あの子と私を間違えたの……」

 今の玻璃を見れば想像がつく。本当に、保護者でさえ間違えるほどに二人はよく似ていたのだろう。敵が間違えるのも納得してしまう。

 そして凄惨な記憶が蘇る。

 鮮血の飛沫。

 買ったばかりの、かわいいと褒めればいつまでもくるくると回って見せたあの白いワンピースが染まっていく。

 そして……。

 彼女のすぐ近くに、銀の長髪を緩く結った男が、その銀を赤く染めながら倒れていた。

「あいつがシルバ……」

 まるでリリアンを庇うように倒れていた……。伏した姿しか見ていない。しかし、背格好は確かにアラストルと似ていたかもしれない。あの日は休日で、丁度アラストルも邪魔な髪を緩く結っていた。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」

 玻璃が頭を抱えてしゃがみ込む。なにかに怯えるように姿勢を低くするのは殴られるのを覚悟しているようにも見えた。

「お、おい……急にどうした?」

「私が悪いの。全部……ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

 玻璃の目から大粒の涙が零れ落ちた。こいつも泣くことがあったのか。そう、驚きつつ、かつてリリアンにしたように腕で包み込み背を撫でる。

 どうもこの顔に泣かれるのは弱いようだ。




 ようやく玻璃が落ち着いた頃、日は既に傾いていた。

「お前が言ってた【喪服】ってのはシルバのためだったんだな」

 そもそもこの国には喪服の習慣がない。しかし、玻璃は移民だろう。東の果ての国では大切な人を失った喪の期間、黒を身に纏う。

「ううん、シルバじゃない。あの日、死んだのは私なの。今日は年に一度だけただの玻璃に戻る日で、それ以外はただの人形」

 玻璃の声が少しだけ寂しい響きになった気がした。

「もう、今日も終わるわ……」

 玻璃の瞳から光が消えていく。まるで命を吹き込まれた人形の魔法が解けてしまうように。

「もういいだろ?」

 思わず抱き寄せる。

「え?」

 強く抱きしめれば大きく目を見開いた。

「もう、ただの玻璃に戻ってもいいだろ?」

 リリアンは身代わりじゃない。あの子の為に玻璃が人生を捨てようとする必要はない。そう、背を撫でれば、腕の中で微かに震えている。

 玻璃の頬を一筋の涙が伝い落ちた。赤い瞳が大きく揺れている。

「本当に?」

「ああ、十年も苦しんだんだろ?」

 優しく背を叩く。それはアラストル自身に言い聞かせる言葉でもあったのかもしれない。玻璃の存在は過去の呪縛からアラストルを解放してくれる鍵のように思える。

「ありがとう……」

 消えそうな声で彼女が呟いた。

 それは、世界に踏み出す恐怖が混ざっているようにさえ思える響きだった。




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