第一章 一



 遠い東の国からようやく祖国へ戻ったアラストル・マングスタは溜息を吐く。この国は相変わらず雨だ。晴れている日のほうが少ないのは女神がいつも泣いてばかりいるせいだという伝承があるほどだ。

 アラストル自身、神など信じてはいないが一定数信仰を持った人間が存在し、それが立派な大聖堂を作り上げるほどだと言うことも知っている。共感こそは出来ないが最低限は尊重しているつもりだ。

 しとしとと、まとわりつくような憂いを含んだ雨。

 この国の雨は他国の雨とはなにかが違う。一滴が重く、そして物悲しさを感じさせる。

 夕刻のこの時間、この道は人通りは多いというのにまるで誰も居ないような錯覚に陥る寂しささえ含んでいる。

 そして彼は今、ひとりだった。


「うおおっ……べたつくっ! いっそ切るか?」

 アラストルが、国境を越えたのは三日前だ。そして長い道のりを荷馬車に乗ったり歩いたり、ようやく朽ち果てそうな我が家のある王都にたどり着いた。

 しかし、ここで本当に十数年伸ばしっぱなしにしてきた長い銀の髪が邪魔になってきた。

 水を含むと随分重い。彼は髪を絞りながら叫んだ。

 特に伸ばしている理由はない。ただ、切るのが面倒で伸ばし続けた髪は妙に栄養状態もよく、すれ違う女性が羨むような見事な髪となったが、当の本人はそんなことを気にする様子もなく、適当に手櫛で引っ込めましたと言わんばかりの括り方で済ませていた。今のところ長く伸びた髪は彼の目立つ特徴以上の意味はない。ここまで伸ばしたのならせめて高く買い取って貰える時に切るべきだろうかなどと考えまた更に伸ばし続けることになりそうだ。

「止みそうにねぇな……」

 見上げればどこまでも濁った空。どっしりと厚い雨雲の先で本当に誰かが泣いているのではないかというほど、不気味な憂いを感じた。

 少し肌寒い。

 仕方なく通りにあるパン屋に足を踏み入れる。雨宿りをしよう。

 暫く見ない間に、この町もだいぶかわった。

 昔は中年のかみさんひとりで頑張っていたこの店もいつの間にか栗毛の若い娘が働くようになっていた。

 ぼんやりと店員を眺めながら大きめのサンドウィッチを三つ買う。栗毛の娘は少し気怠そうに硬貨を数えにこりともせずに紙袋に品物を詰める。

 まだ、雨は止みそうにない。大人しく帰ろうとパン屋を出た。

 雨が強くなる。

 歩くたびに水が跳ねる。服も髪もずぶ濡れだがなんとかメシだけは守ろうと、紙袋を上着の内側に抱え込んだ。

 そうして暫く歩いた頃だった。

 雨の音に紛れて、ほんの僅かに特徴的な音がする。

 わざわざ気配を消していることを相手に教えるような足音だった。

 兵士特有の足音でも言うのだろうか。新入りと言うよりは、相手に逃げて欲しいと思っている、臆病な兵士の足音に思えた。

 剣に手をかけ、振り向こうとした瞬間、喉元にひやりと冷たい感覚があった。

「アラストル・マングスタね? その命、頂戴」

 透き通る少女の声だった。

 甘いとか、綺麗だとか、愛らしいとか、そう言うものじゃない。感情も何も感じない、硝子のように透き通り響く音だった。

「悪いが、簡単にはやれねぇな……」

 とても慣れた様子だが所詮は女だ。

 腕を捻り、武器を奪えば簡単に押さえられた。

「名は?」

 訊ねれば赤い瞳に見つめられる。目が合ったはずなのに、なにも見えていないように感じられ背筋がぞくりとする。

「玻璃」

 何の感情も感じられない不気味なほど透き通る声で彼女は答えた。

 黒い長髪と、少し黄味のかかった白い肌は恐らくは東の果ての生まれだろう。

 見れば僅かに震えているようだった。それは寒さのせいだけじゃない。

 任務失敗。それでも反撃をしないアラストルに怯えているようだった。

「ほら、これでも着てろ。かなり濡れているかもしれねぇがないよりマシだろ……」

 少女の怯えに気付かない不利をして、着ていた上着を掛けてやれば、彼女は驚いたようで、硝子玉のように透き通る瞳を見開いた。

「どうして……」

 僅かに声が震えている。

「ああ?」

「殺さない……の?」

 信じられないと彼女は固まっている。それは殺されなかったことに絶望しているようにも聞こえる響きだった。

「女を殺す趣味はねぇよ……」

 本当に、今日はついていない。

 ようやく自宅に戻れると思ったらとんだおまけを拾ってしまった。

 まさか、こんなにも土砂降りの路上に放って置くわけにもいかない。少し強引に腕を引いて、彼女を自宅の今にも崩れそうな狭い借家に連れ帰った。

 アラストルの家は、王都で一番古いのではないかというほど年季の入った集合住宅アパートメントで、雨漏りも隙間風も凄いが、家賃はとにかく安かった。そのせいで、収入がそれほど少なくはなくなった現在でも引っ越すのが面倒で住み続けている。

 何事も慣れているものの方がいい。

「汚ねぇけど適当に座れや」

 そう言うと、玻璃は何の迷いもなく長椅子に腰掛ける。この椅子も随分とくたびれていて、今の職に就いて初めての給与で買ったのだったと思い出した。

 インスタントコーヒーを淹れてカップを渡せば、玻璃はいかにも嫌そうに僅かながらも顔をしかめた。

 苦いものは苦手なのだろうと思う。

「餓鬼だな」

「……みんなそう言う」

 彼女は不満そうに言う。拗ねた子供がするような仕種だ。

「歳は、いくつだ?」

「二十三」

 女性に訊くものではないと怒るかと思えば、彼女は驚くほど素直に答えた。

 見た目より、随分と年上だったようだ。

「やっぱりガキじゃねぇか」

 正直なところ、老けてて十七、八くらいだと思っていたアラストルはそれを悟られないように、わざとそう言う。

「三十路に言われたくない」

「ゴルァ! 誰が三十路だぁ! 気にしてること言うんじゃねぇ! どうせ俺は独身だ!」

 ついでに恋人いない暦年齢だ。絶賛嫁さん募集中だ。

「そこまで言ってない」

 玻璃は少し呆れた目を向ける。表情自体の変化は少ないが、一応感情はあるらしい。

「三十路って言うな」

「三十二だよね」

 透き通る声からはやはり感情を読み取れない。気持ちはまだ二十代だなどと言えばもっと呆れを見せるのだろうかなどと好奇心を刺激されたがそれを行動に移せるほど図太くはない。

「何故知っている?」

 そういえば、初対面なのに名前も知っていた。

「マスターの資料。ねぇ、殺さないの?」

 玻璃は不思議そうに問う。彼女にとっては任務失敗はそのまま死を意味するのだろう。

「だから、女を殺す趣味はねぇっての」

 なんとなく、彼女の頭をぽんと叩く。

 どこか、懐かしい感覚がした。

「なに?」

 不思議そうな目に見つめられる。

「いや、ガキだなぁと思って」

「そう」

 奇妙な女だと思う。大袈裟なわけではないのに、妙に子供らしい。とても二十を超えているとは思えなかった。むしろ五、六歳の精神と言われても信じてしまうほどだ。そのくせに、見た目は女。いや、小さい娘が母親の真似をしてきっちりと化粧をしているように幼い印象の顔つきにはやや不釣り合いな化粧をしている。それに既にずぶ濡れになっているが、長い髪は相当きっちり編み込んでいるのかあの激しい雨の割には乱れてはいなかった。

「お前、帰るところはあるのか?」

 訊ねると、玻璃は感情の読めない声で答える。

「ついさっきなくなった」

 しかし、内心は平穏ではないだろう。

「あなたが殺してくれないから、マスターに殺されるのを待たないといけないわ」

 まるでそれが当然と言う様子だった。確かに組織によっては任務に失敗すれば味方に消されるようなところもある。しかし、アラストルの感覚からすればそれは愚かな行為だ。新入りが育たない。それに玻璃の態度も気に入らない。なぜ、自分から殺されようとするのだろうか。

「逃げないのか?」

 自分ならたとえ勝ち目がなくても殺されかければ抵抗くらいはする。もしくは国外に逃げる。しかし、玻璃はそんなことを思いつきもしないという様子だ。

「マスターに要らないって言われたら存在理由がないから」

 どこか虚ろな声は相変わらず透き通っている。

 無垢な子供のようで、もしも天人が存在するならきっと彼女のような声をしているのだろうと感じるほど、浮世離れした響きに思える。

 今、この場所に居ないその相手を浮かべる彼女は、思考を切り離してどこかへ置いてきてしまった様にさえ思えた。

「マスターってのは、依頼主か?」

 虚ろな瞳でカップを見つめる彼女に問えば、静かに首を横に振る。

「えっと……なんていうんだっけ……『おとうさん』? そんな感じ。私達を拾ってくれたの」

 おとうさんと言う言葉を発する時、ほんのわずかに彼女の表情が翳る。それは家族を呼ぶものとは違う様に感じられた。

「依頼主は誰だ?」

 放っておくと、次の殺し屋が来るかもしれない。

「言えない。守秘義務があるから」

 そう口にする様子は、まるで小さな言葉が意味を知りもしない大人の言葉を真似して使っているように感じられる。大人がそう言っていたから同じ言葉を口にしているだけ。その言葉に玻璃の意思は感じられない。

「吐け!」

 肩を強く掴めば、大きく目を見開かれる。怯えているのかと思えば、じっと見つめられただけだ。

「どうせ死ぬの。私も、あなたも……マスターからは逃れられないわ」

 血のような赤い瞳に引き込まれるかと思った。底のない、不気味な瞳だ。

「死なせねぇ、俺も死なねぇ……だから、吐け!」

 どこか朧を纏った女だと感じた。

 そして、儚い。

 目の前からすぐに消えてしまいそうな不思議な雰囲気を纏っている。

 自分の命を狙ってきた相手だというのに、目の前の女を放っておけない。どういうわけか、護ってやりたいなど馬鹿馬鹿しい考えが浮かんだ。

 じっと見つめれば、観念したのか口を開く。

「依頼主は知らない……私は聞かないから。与えられた任務をこなすだけ。マスターが引き受けて、それからみんなに回すの」

 そう答えながら、彼女は勝手にサンドウィッチにかぶりつく。ついさっきまで怯えていた様子が演技だったのではないかと言うほど、唐突に無遠慮な行動だ。

 相当腹が減っていたのだろう。あっという間に、一つ消える。

「その、マスターってのは?」

 もう少し買っておけばよかったと後悔しながら訊ねる。

 このままだと今夜の晩飯はない。

「セシリオ。セシリオ・アゲロっていうの。朔夜さくやと結婚してからは朔夜に弱いんだけど……」

 そう言って、彼女は勝手に買い物袋から取り出したミルクをぐびぐび飲んだ。

「……お前、遠慮ってものがないのかよ……んで? 朔夜ってのは何者だ?」

 凄い食欲に呆れる。しかし、それ以上に彼女の発した言葉に耳を疑った。

「姉」

 つまり義兄が育ての親。そいつに殺されかけているってことだろうか。

「朔夜はサーカスのオーナーなの。来週、この町に戻ってくるよ」

 そう言って、次のサンドイッチに手を伸ばす。

「お前のマスターがお前の姉に弱いんだったら姉のところに居れば安全なんじゃねぇのか?」

 思ったままに問えば、玻璃は首を振った。

「ううん。掟は絶対だから。捕まったら公開処刑なの。本当はもうちょっと綺麗に死にたいけど、仕方ないわ。失敗しちゃったんだもの」

 仕方がない。やはり感情の起伏が読めない音で言う。

 ああ、こいつは人生を諦めている。むしろ、わざと任務失敗に持ち込みたかったのではないだろうか。

 そう思うと、少し胸が痛む。

 どうも、この女は似ている。そのせいだろうか。妙な保護欲が湧く。

 仕方が無い。拾った責任だ。

 最後まで面倒をみよう。

 そう決意はしたが深い溜息が出てしまった。












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