失恋王女、噂される(2)
シャルロッテの朝は意外と早い。ふわわ、とあくびを噛み殺しながら、彼女はのそのそと寝台から這い出した。
幾重にも紗のかかった寝台は、淡い青と紫とでまとめられていて、年齢の割には大人びた空気を漂わせている。シャルロッテのお気に入りの空間だ。
起こしに来た侍女に熱い紅茶を淹れてもらい、寝惚けた頭をしゃっきりとさせる。薄いレースのカーテン越しに見る朝の光は、寝起きの目には少しだけ眩しい。目を細めて、ほうと息をついたシャルロッテは大きく伸びをした。
「さ、姫さま……こちらが今日のご衣裳です」
「……あの、クラーラ?」
にこやかな侍女に、シャルロッテは恐る恐る問いかけた。クラーラは、長くシャルロッテに仕えてくれている腹心の侍女である。
目の前に差し出されたのは、どうも着るのに時間がかかるから、と衣裳部屋に仕舞いっぱなしになっていた後ろボタンのドレスだ。それも、ボタンの数が格段に多いやつ。
面倒ですね、と言ったのは彼女のはずだったが、どうしたのだろう。
「さ、お支度を」
有無を言わせぬ笑顔のクラーラが、シャルロッテを立たせて着替えを手伝い始める。どうやら、口を割る気がないらしい彼女の言うがままに、寝間着を脱いでドレスに袖を通す。
きっちりとボタンが閉まったかどうかを確認した侍女が、ほっと溜息を洩らした。
「姫さまの名に傷などつけさせませんからね」
「は、はあ……?」
クラーラは手際よくシャルロッテの髪を梳き、ハーフアップに整える。少しウエーブがかった赤みのある金の髪を少し編み込んで、毛先をお団子にまとめる形が最近の彼女のお気に入りらしい。そうして、仕上がり具合を四方八方から確認したクラーラは、きりりとした顔で力強く断言した。
どうも最近、身の回りに理解できない言動をする人間が増えていないか。胡乱な目つきのシャルロッテにかまわず、忠実な侍女は満足げに頷いて、王女を寝室から追い立てた。
「おはようございます、殿下」
「おはよう、スヴェン」
居室に待機していた茶髪の護衛騎士と挨拶を交わして、シャルロッテは朝食室へと足を向けた。侍女に見送られ、スヴェンを従えて朝の廊下を歩いていく。
朝食会は、王家の習慣の一つだ。基本的に忙しい彼らではあるが、王宮を離れていないときは必ず全員が集まって朝の食卓を囲む。それは、国王である父の発案で、もう何年も続けられていた。
「わ、すっごいボタン。こりゃまた、クラーラは随分……」
背後に立ったことで、シャルロッテのドレスの後ろ姿に気が付いたスヴェンが、ぼそりとそう呟く。耳ざとくそれを聞きつけて、シャルロッテは後ろを振り返った。
「え、なに? 何か知っているの?」
若草色の瞳がきらりと光る。こうなったら引かないことを良く知っているスヴェンは、押し問答が始まる前にあっさりと白状した。そもそも、隠すつもりがあったかどうかもあやしい。それくらいスムーズに、スヴェンは口を割った。
「実はですね、先日の舞踏会からこちら、社交界では殿下の噂でもちきりでして」
「……エーミールにいさまのやつ? それなら知っているけど……」
歩調を少しだけ緩めて歩きながら、シャルロッテが問いかける。それと、ドレスと何の関係があるのだろう。気になるが、朝食会に遅れるわけにはいかない。
「失恋王女、とはなかなかのネーミングですよね」
「……ひどいネーミングの間違いでしょ」
ぎろり、と睨んでやると、スヴェンはからからと笑った。
「ま、そちらはともかく……うーん、面倒だな。ズバリ結論から話しましょう」
「おっさすがスヴェン、気前がいい」
片手を挙げて、シャルロッテからの意味の分からない賛辞を受け取ると、スヴェンはさっくりと口にした。
「王女殿下と、護衛騎士ランベルトの恋の噂です」
「へえ」
沈黙の妖精が、二人の間を軽やかに通り抜けていく。
「は、え、ええ……っ⁉」
数歩そのまま進んだシャルロッテが、その言葉の意味を理解して叫び声と共に立ち止まった。おっと、と華麗にそれを避けて、スヴェンは笑った顔を彼女に向ける。
「ご存じありませんでしたか」
「知らないし……え、待って。それと、このドレスに何の関係があるのよ」
「そこまで、この朝の空気の中で申し上げろと?」
もう、足は完全に止まっていた。にやにや笑いのスヴェンの言葉をじっくりと考えて、シャルロッテが顔を真っ赤にする。
「え、ま、まさか……まさかでしょ? そんな、まさかでしょ!」
「ま、そちらはクラーラが深読みしすぎではないかと思いますがね」
さすがにそこまで表立って言うものはありませんが、とスヴェンは続けた。十六歳ともなれば、艶聞くらいは耐性があるかと思ったが、意外と初心でいらっしゃるようだ、と心の中でひっそりと付け足しておく。
――ボタンの数は、貞淑さを表す。今では、スヴェンの祖父母の代でも笑うような話だが、姫さま第一のクラーラにとって、それくらいしか噂への対抗手段はなかったのだろう。
可愛い事である。
「さ、殿下……この続きはまた後程。時間に遅れます」
「うっ、ちょっと待って……一つ、一つだけ聞かせて」
真っ赤な顔を上げて、シャルロッテは小さな声で懇願した。潤んだ瞳で、頭一つ高い場所にあるスヴェンの顔を見上げる。
「この話、父さまや母さま……あの、まさか兄さまも、知っていたりする……?」
「……さあ、そこまでは」
ひええ、と情けない悲鳴を上げたシャルロッテを、有無を言わさず朝食室まで連行したスヴェンは、開いた扉の前で小さく呟いた。
「知らないわけないじゃないですか」
無情にも閉まった扉の向こう、シャルロッテの耳にはその言葉はついぞ届かなかったのである。
ああ、なんだか針の筵に座っている気分だ。
よく磨かれて、木目が美しい大きなダイニングテーブル。その決まった位置に座って、シャルロッテはひっそりとため息をついた。朝の光を存分に取り入れられるように作られた朝食室には、爽やかな陽射しが降り注いでいる。
今の時期ならば、窓からは花のつぼみに朝露が付いているのを見ることができるだろう。しかし、今の彼女はそれどころではなかった。
シャルロッテは、顔を上げることもできずに朝食を口に運んでいる。いつもと変わらぬなごやかな会話の中に、彼女の噂に関するものは出てきていない。出てきては、いないのだが。
自意識過剰かもしれないが、どうにもちくちくと視線が刺さるような気がする。兄の爽やかな笑顔が逆に怖い。
いや、エーミールの噂の時だって、彼らは何も言わなかった。だけど、おそらく知っていたはずだ。ということは。
シャルロッテが恐る恐る顔を上げると、正面に座ったリヒャルトと視線が合った。シャルロッテと同じ若草色の瞳に、少し癖のある金の髪がまばゆい。
「どうしたの、シャル。今日は随分小食じゃないか」
「あ、いえ……そ、そうで……しょうか……?」
歯切れの悪いシャルロッテの目の前に置かれた皿は、確かにその中身をあまり減らしていない。ひくり、と口の端を引きつらせて、王女は慌てて口の中へと料理を押し込む。
そうしながら、ちらりと父と母の顔を伺うが、そちらも素知らぬ顔である。
何とも判別しがたい。しかし、こちらから口にするのは、藪をつついて蛇を出すようなものである。
聞くんじゃなかった、と思ってみても後の祭りだ。はあ、とため息をつきかけて、それを慌てて飲み込む。
なごやかな朝食の席にあって、シャルロッテはその日、まったく料理の味を感じられなかった。
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