失恋王女と護衛騎士
綾瀬ありる
失恋王女
「すまないが、僕のことは忘れてほしい」
突然そう頭を下げられて、シャルロッテは目を瞬かせた。一体何の話をされているのか、全く理解できなかったからだ。
「あの、エーミールにいさま、なにを……?」
「わかっている、きみに酷な話をしていることは」
若草色の瞳に疑問の色を浮かべたシャルロッテの言葉に、頭を上げた目の前の青年、エーミールは大げさに頭を振った。そして、二人の間にあるローテーブルに身を乗り出して、シャルロッテの手をぎゅっと握る。
その目に涙を浮かべて彼女をじっと見つめる姿は、大変な美形であることも相まって、まるで舞台の一場面のようだ。思わず身体が引けるが、握られた手がそれを邪魔する。
――この人は、何を言っているのだ。
突然の出来事に、若干混乱気味のシャルロッテは、まったく理解が追い付いていない。そんな彼女を置き去りに、エーミールはさらに芝居がかった動作とともに言葉を継いだ。
「すまない、シャル。僕は……運命の女性と出会ってしまったんだ」
「は、はあ……それは、よかったですね……?」
やっぱり理解できない。
シャルロッテは、思わず部屋の隅に控えた黒髪の護衛騎士を振り返った。さほど広い部屋でもないのだ、この会話は聞こえているだろう。しかし、彼はこちらを注視しているものの、動くそぶりは見せない。
まあ、それもそうか、とシャルロッテは内心ため息をついた。視線を戻した先には、若草色の瞳にプラチナブロンドの青年。どこか彼女と似通った面影を持つこの人物は、シャルロッテにとって従兄に当たる。
一国の王女と、その従兄であり、公爵家の嫡男であるエーミールとの会話に割り込める人間は、そういるものではない。
どうやら、助け舟はなさそうだ。若干の諦めの気持ちと共に、シャルロッテは従兄の言葉の続きを大人しく待つことにした。
「きみが、僕のことを憎からず思ってくれていることは、知っているけれど……」
待て。
シャルロッテは目をむいた。一体、何年前の話をしているのだ。というか、気が付かれていたのか。それはちょっと恥ずかしい……ではなくて。
ここ二、三年は公務以外では顔も合わせていなかったというのに、まだそんな風に思われていたのか。
思わずちらりと護衛騎士の様子を伺う。間違いなく全部聞こえているだろうと思うと、顔から火が出そうなほど恥ずかしい。
しかし、黒髪の護衛騎士は、シャルロッテの視線に気が付きはしたが、かすかに眉を上げた程度の反応しか示さなかった。そのことに、なんとなくしょんぼりしてしまう。
そんなシャルロッテの様子に構わず、エーミールは一人ますます盛り上がっていた。
「だけど、僕は――愛する女性と、コルネリアと出会ってしまったんだ」
これは、完全に自分の世界に入ってしまっている。シャルロッテはため息をついた。今度は、周囲から見て完全にわかるくらいに、大きなやつを。
確かに、エーミールはシャルロッテにとって初恋の相手である。それも、十にも満たない幼い頃の。
当時のエーミールは、それはもう童話に出てくる王子さまみたいな子どもだった。今よりもう少しキリリとしていて、利発そうな顔をしていたし、優しかった。それが今はこれか、と思うと、幼い頃の淡い初恋の思い出がガラガラと音を立てて崩れていく。
「そう、ですか。それは……おめでとうございます。ええ、心からお祝いいたしますわ」
きっと、相当に美化した思い出だったのだ。シャルロッテは、遠い過去の自分に張り手を食らわせながら、なんとかそう言葉を絞り出した。
彼女の中で、初恋の思い出が黒歴史に変わった瞬間である。
しかし、そんなことはお構いなしに、エーミールはその言葉を聞くとますます大げさに嘆く。ひとしきり、それに付き合わされたシャルロッテの精神はごりごりと削られた。
この茶番、いつ終わるのだろう。いっそこちらが泣きたいくらいなんだけど。
「ああ、シャル……きみはなんて素敵な女性なのだ。きっとこの先、きみにも良い
「そう、願っていますわ」
シャルロッテの適当極まる返事を聞いた護衛騎士が、堪えきれずゴホゴホと咳払いをした。ちら、と見た彼の口元が妙な形に歪んでいるのに気が付いて、シャルロッテは肩をすくめる。これは、笑いだすのを誤魔化したに違いない。軽く睨んでやると、黒髪の騎士は慌てて真面目な表情を取り繕った。
エーミールはまだ何事か話していたが、もうすっかり呆れてしまったシャルロッテは全て聞き流してしまった。言葉の途切れた瞬間を狙って、いささか強引に二人の幸福を願う言葉を贈る。涙を流し、感極まった表情でそれを受け取った従兄を残して、シャルロッテはやっとの思いでその場を離れることに成功した。
「ランベルト、笑いたかったら笑ってもいいのよ」
「そんな、滅相もない」
ランベルト、と呼ばれた黒髪の護衛騎士は口元を変な形に歪ませながらも、なんとか真面目そうな表情を取り繕ってシャルロッテの背後を歩いている。そんな彼を振り返り、じっとりとした視線を送ると、彼は一瞬目を逸らした後、そう返答した。
よりによって、なぜ今日の護衛騎士がランベルトの当番だったのだろう。シャルロッテは、彼の顔を見つめながら内心嘆いた。
せめて、スヴェンだったら良かったのに。もう一人の茶色い髪をした護衛騎士を思い浮かべて、シャルロッテは首を振った。いやいや危ない、そっちはそっちで駄目だ。絶対にからかわれる。
王女シャルロッテ付きの護衛騎士、ランベルトとスヴェンもまた、シャルロッテにとって幼い頃から知っている人間だ。彼女の兄たちの遊び相手として昔から王宮に出入りしていた彼らは、もちろんエーミールの事も知っている。
そして、恐らく――二人とも、幼いシャルロッテの初恋の相手がエーミールだったことも知っているだろう。少なくとも、ランベルトの反応はそうに違いないと思われた。
そんなにわかりやすい子どもだったろうか、とシャルロッテは過去の自分を思う。
「……笑ってくれた方が、気が楽だわ」
「いやはや、ご愁傷様で……」
最後まで言い終えられず、とうとう吹き出したランベルトに、シャルロッテの冷たい視線が突き刺さる。笑ってくれた方が気楽だと言ったのは自分だが、実際笑われると腹が立つのは仕方がない。
基本的に真面目なランベルトではあるが、幼馴染の気安さゆえか、時たまこうして砕けた態度を取ってくれること自体は、まあ嬉しいのだけれども。
「言っておきますけどね、別にわたしはエーミールにいさまのこと、今は何とも思ってないわよ」
「はいはい」
それでも、誤解だけは解いておかなければならない。彼は今でも彼女の兄、リヒャルトと親交がある。ないとは信じているが、変なことを兄に教えられてはかなわない。強い口調で主張すると、ランベルトは肩をすくめて返答した。
その軽い返事に、シャルロッテの胸がちくりと痛む。
――だって、今わたしの好きな人は、目の前にいるもの。
その言葉を、心の中だけで呟く。だが、この気持ちを打ち明けることも、ましてやそれが叶うこともないだろう。
今だって、エーミールの勘違いに何の反応も示さなかったことが良い証拠だ。
黙り込んだシャルロッテに、ランベルトが蒼い瞳を向ける。その瞳に映る自分の顔が、少しだけ泣きそうな顔をしていることに気が付いて、彼女は慌てて身体を反転させた。
王族専用区画へと向かう渡り廊下には、春の匂いがたちこめている。新芽の時期が過ぎて、もうじき花の咲く時期だ。木々の緑が目に眩しい。
こんな気分でなかったら、大いに楽しめただろうに。
陰鬱な気持ちを抱えて、シャルロッテは歩き出した。彼女の赤みのある金髪を、そよ風がそっと揺らす。
その背中をじっと見つめながら、ランベルトもまた彼女の後を追って歩を進める。
二人とも、その後は無言のままだった。
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