第七十一話 登ってくる子供

 馬淵さんが大学生の時に借りた1LDKのアパートは駅から近く都心へのアクセスも簡単なのに月二万というとんでもない安さだった。どうやらいわくつきの物件らしく、出るという話で、ほとんどの人が入って二週間もしないうちに出て行ってしまうのだそうだ。

 馬淵さんは幽霊というものをまるで信じていない人だったから、安くて便利でもうけものだと喜んだ。

 ところが、引っ越して一日目の夜。

 夜中の一時頃、片付けもおおむね終わり、引っ越し祝いも兼ねて近所のコンビニで酒とつまみを買ってきて、ペットのレオパ(ヒョウモントカゲモドキ)を相手に晩酌をしていた時だった。

 カツン。カツン。

 外から音が聞こえてきた。

 階段を誰かが踏み鳴らした、そんな音だった。

 馬淵さんの部屋は二階の端、階段のすぐそばにあるから誰かが登ってくればよく聞こえるのだが、音は二つだけ。誰も上がってくる気配はない。

 気のせいだろうか。そう思っていると、

「私足が欲しい」

「僕手が欲しい」

 声が聞こえてきた。小さい女の子と男の子のはしゃぐような声がはっきりと聞こえた。

 こんな時間に子供が外にいるはずはない。幽霊を信じていない馬淵さんは、飲み過ぎたのかとそのまま布団に潜り込んだそうだ。

 ところが、次の日。また夜中の一時頃、布団で寝ていると、

 カツン。カツン。カツン。カツン。

 階段を踏み鳴らす音が今度は四つ。

 きた。怖いながらも耳を澄ませていると、

「私足が欲しい」

「僕手が欲しい」

 また男女の子供の声が聞こえてくる。

 その夜は酔ってもいなかったから聞き間違いではない。

 二日連続とあっては、馬淵さんも何かある、と考えずにはいられなかったそうだ。

 階段を登る音と声は毎夜聞こえるようになった。子供の声は同じなのだが、日ごとに足音の数が増えている。

 二人分の足音だとするなら、一日目は一段目、二日目は二段目、三日目は三段目まで、つまり一段ずつ登っているのである。

 二階まで上がる階段は全部で十三段。

 あの足音と声の主たちが登りきると、どうなるのだろう。

 以前の住人が二週間以内に引っ越している、というのはつまり問題が起こる前に逃げ出したということだろう。

 馬淵さんは幽霊が怖くて引っ越した、というのが情けなく思え、行動に移すことができなかった。

 十二日目もやはり階段を登る音が聞こえてきた。

 カツン、カツン。という足音が、部屋のすぐそばまでやってくる。

「私足が欲しい」

「僕手が欲しい」

 その声が、薄い扉のすぐ前で聞こえたように思えた。

 流石の馬淵さんもそれ以上は我慢できなかった。

 十三日目の夜、同じ大学の友達に無理を言って、家に泊めてもらった。

 夜が明けて、その友達について来てもらって部屋に戻ると閉めたはずの鍵が開いている。

 恐る恐る部屋の中に入るが、荒らされた様子はない。

 しかし、ペットのレオパが入っているケースを見た瞬間、

「うわあああっ」

 思わず叫び声が出た。

 大事に育てて可愛がっていたレオパが死んでいた。

 手と足が身体から離れていた。切断したのではなく、人の手で毟られたように。

 男の子と女の子の言葉の意味が、その時ようやく分かった。

 馬淵さんは友達の手を借り、その日に家を引き払ったという。

「もし、あの夜家にいたら、きっと手足を取られてたの俺だったんでしょうね」

 レオパには可哀想なことをした、あんな怖い部屋、さっさと引っ越すべきだったと馬淵さんは今でも悔やんでいるという。

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