番外編『ギル=クライン生存録』②

 『日常に残酷が訪れるのは、いつも唐突である』。


 それは一体、誰が最初に考えた言葉であっただろうか。でも、あの一件を経てからは確かにその通りだと思うようになった。平穏で幸せであったはずのギルの人生は前置きもなく、とある日をきっかけに大きく変わってしまったのだ。


 それは、ギルが12歳の年の秋のことであった。ギルはいつものように礼拝を終えると、村の同年代の友人と馬鹿みたいにはしゃぎ回って遊んでいた。


 その頃の流行りは水切りだった。平坦な小石を投げて、水面をどこまで走らせられるかという誰でも出来る難しい遊び。ギルは得意な方であったが、それでも最長記録を叩き出した友人には1度も勝てた試しがなかった為、毎日のように仲の良い奴らと練習を繰り返していたのである。


 しかし練習試合に熱中し、時間は夕方に差し掛かった頃。ふと、村の方から立ち登る煙をギルとその友人達は目にした。


 祭りが行われているわけでもないのに、突然の煙。家1軒のボヤ騒ぎ――なんてレベルじゃない煙の量で、ギルらは不審と違和を感じて試合を取りやめ、村へと急ぎ帰った。


 ――全速力で走るにつれ、村から離れた川辺では見えなかった村の全容が明らかになっていった。


 まず第一に、村全体が灼熱に染まっていた。色で形容するならば朱、といったところだろうか。雪国であり夏でさえひんやりとしているようなアンラヴェルでは、ありえないような暑さであった。


 村の入口で呆然と立っていたギルは、まぶたが熱にじんわりと焼かれるような感覚を得る。村の奥の方からは絶叫が響き、何度も助けを求める声がする。


 耳を澄ませば火がパチパチと火花を散らす音に紛れて、子供が身体中の力を使って泣き声を上げながら恐怖を訴えており、それらが呆然としていたギルの脳を現実へと引き戻した。


「くそっ、なんだこれ……っ!」


 おい、と慌てたように引き留めようとする友人の声を振り切りながら、ギルは燃え盛る村の中へと一目散に飛び込んで、声の聞こえるところへ全力疾走した。


 まず走り寄ったのは、村の入り口のすぐ傍に建っていた、一見なんともない普通の――しかし、全身を業火で炙られた木製の一軒家だった。そこの1階の窓が開いていて、そこから僅かに泣き声が聞こえる。本当に、小さく聞こえた声だった。


 ギルは燃えて朽ちた壁の隙間に身体を捻り込み、無断侵入とも言える行動を衝動に任せて行う。


 家の中へ入れば、熱が全身を炙って焦がし、黒煙が目玉や鼻腔や喉を強襲した。だがギルは何の痛みも苦しみも感じない。すぐ近くで泣き声をあげている子供の、その半分の恐怖心すら感じることはない。


 何故ならば、彼は神様に愛されているから。


「っ、おい! 落ち着けお前!!」


 1階のリビングでただ1人、床にへたり込んで泣きじゃくっていた5、6歳くらいの男児に駆け寄るギル。


 彼を視界に入れた瞬間、子供は明らかにビクッと身体を震わせる。だが近づいてきた人間の正体が、教会での礼拝でよく顔を見知るギルであるとわかると、助けを求めるように手を伸ばしてきた。


 ギルはそれを躊躇なく受け入れて、伸ばされた手の下に手を差し込み、脇を持つようにして抱え上げる。ギルもギルとて12歳という少年の頼りない身体ではあるが、その子供を抱えることくらいは造作もなかった。


「っし、出るぞこっからァ!!」


 ギルは来た時と同じように壁の隙間に身体を捻り込んで、幼児を持ったまま外へと出る。とにかくこれで1人は救出である。


「おいチビ、良いか。すぐそこの門までは自力で行けるな? あの門の外に俺の友達が居る。だから、そいつらと一緒に居ろ。良いな」


 幼児を地面に離して教え込むと、幼児の反応確認もそこそこにギルは更に村の奥へと走り抜けていく。


 どこを見ても火と煙だらけだ。昼にここを発つ時には、普通のどこにでもあるような農村だったはずなのに、今では赤と黒が占拠する地獄が広がっている。


 一体何故だ、何があった? 自分と友人達が川へ遊びに行っている間に、何が起きていたのだ? どこかの家が火事を起こして、それが燃え広がったとかいうレベルではない。それこそテロか戦争でも起きたかのような……。


「――テロ、戦争……」


 もしそんな類のもののせいだとしたら、何が理由でこの村が標的になった? 何故アンラヴェル国都のような栄えた場所ではなく、こんな普通の農村が――?


「……いや、そんなん考えてる暇じゃねえ……!」


 まずは自分の家の心配をしなければ。確か今日は誰も出かける予定はなかったはずで――火災に巻き込まれている可能性が、非常に高い。


 冷静なマルコさえ居ればどうにか逃げられるとは思うが、もし身体を動かせない状態で、誰かの手を必要としているのであれば――自分の存在すらも、藁10本分くらいにはなってすがれるはずだから。


「くっそ、死んでたらゼッテェ許さねえかんな……!!





 ――実家の教会に続く道を走っている途中から、ギルは変な物体を目にするようになった。赤い汁に塗れた、サーモンピンクとでも言うんだろうか。そんな色の物体があちらこちらに落ちていたのだ。


 筋が通っていて、なんだかぶにぶにとしていそうな謎の物体。息をすることすら忘れるほどの嫌な予感がしたので、その物体の圧倒的な存在感を振り切ってギルは疾走を続けた。走って、走って、走って。


 そしてとうとう辿り着いた自分の家――だった場所。


 他の家と同じく当然のように燃え盛っており、外からでも教会の中の悲惨具合は手にとるようにわかった。


「っ……!」


 教会の扉を開け放って中へ飛び込むと、ギルを出迎える強烈な焦げ臭い匂い。思わず目を細めて鼻を腕で覆えば、視界の端にちらりと人間の身体が映り、



「ッ、母さんッ!?」



 声を裏返して叫びを上げ、教会の壁にもたれるようにしていた母親リチルダの元へ駆け寄れば、彼女は薄く目を開いて虚な目でギルを捉える。


「あ、ぁ……ギル、よ……かった……」


「俺のことなんてどーでも良いんだよ、それよりも身体、大丈夫かッ!? 雑でわりぃけど、今引きずって外に出してやらァ、腕を貸っ……」


 と、背負う腕を求めて視線を動かし、目に止まったのは広範囲の火傷と、目も当てられないような状態をして焼けただれた肌。握ることも躊躇ためらわれるその腕に、ギルは動きと言葉を止める。


「もう、無理、ね……意識が、だんだん、なくなって、いくの……」


 掠れた声で呟くリチルダ。ギルの腕の中で横たわる彼女の手が、震えながらもギルの頬へと伸ばされる。


「なにを……何を、言ってんだよ……そんな……」


「だか、ら……私の、話を……聞いて、頂戴。ティナは……外へ逃した、わ……でも、マルコは……どこかに、連れて、いかれた、みたい」


「連れてかれた……!? どういうことだ、誰に連れて行かれたんだッ!?」


 かさついた手に優しく撫でられる頬。全てを焼き尽くすように辺りで橙色を咲かせる炎炎えんえんが、ギルの頬から顎にかけて零れ落ちた雫に歪曲して反射する。


 腕が震える。重さに耐えかねて震える。これは彼女自身の重さではない、彼女の魂の重さである。死を間近にして初めて露わになる魂の重さに、ギルは自分の無力さを思い知らされていた。


「……彼、は……わから、ない」


 眠気に抗いでもするかのように、リチルダの瞼がゆっくりと下ろされてはまた上がり、瞳が何度も何度も姿を隠す。


「かあ、さん、やめてくれよ、そんな、死んだら許さねえ……ッ!! なぁ、喋れよ、喋ってくれよ、黙るんじゃねェッ! 今死んでる場合じゃねェだろッ!」


 そんなギルの強気な呼びかけとは裏腹に、リチルダが我が子を撫でる力は次第に弱くなっていく。そしてついに滑り落ちそうになったその手を、ギルは掴んで自分の頬に押し当てた。


「……ふふ。私……最後に、見るのが、ギルの、怒った、顔なの、やだ……なぁ」


「は……? この状況で笑えってのかよ、馬ッ鹿じゃねェの!?」


「そう、よ……笑っ、て? 私、死ぬなら、笑顔、見たい」


 そんな、嫌いでもない母親が死ぬ前で笑えというのか。それは酷な話ではないだろうか。口角がひくつく。試しに笑ってみようとしても笑えない。悲哀と憎悪と混乱が、混ざって溶けて巡り巡って心を内から蝕んでいるからである。


 表情筋とはこれほどにも、主人の命令を無視するようなものだっただろうか。


「……ごめん、俺、無理だよ……」


 涙が混じってぐちゃぐちゃになりながら、必死に口角を上げるギル。笑顔というよりは口角を上げただけだし、その姿は醜態という他ないだろう。しかし、それを柔らかく見つめると、薄く笑ってリチルダは瞑目した。


「……!」


 目を閉じるな、という叱責の声は出なかった。


「……」


 彼女はもう、その瞳を瞼の奥から覗かせることはない。ただ笑みを浮かべたまま、リチルダは永遠の眠りについていた。


「……」


 ギルは静かに彼女の手を頬から離して、リチルダの胸元へ返す。橙色を映す大粒の涙が、数滴ぼたぼたと溢れた。


「う、あ、あ」


 頭を抱える。目を固く瞑る。炎が憎くて、許せなくて、視界に入れることすらはばかられた。


 何故こんなことになった、何故彼女が、死ななければならなかった? こんな状況を作ったのは誰だ、この村をこんなにしたのは誰だ、どうして、なんの為に、なんで――どうして、自分は死なないんだろうか。


 何故、自分は母親の後を追うことさえ、許されないのだ。何故、自分は母親の亡骸を前にしながら、当たり前のように生きているのだ。


 黒煙に塗れた空間に居ても、灼熱を全身に浴びていても、炎が身を焼いても、痛くも辛くも苦しくもない。リチルダの痛みの半分もわからない。ただ心の内だけが締め付けられるように痛くて。何故、何故、何故――。


 いいや、理由はわかっているのだ。至ってそれは、単純明快な理由である。



「あ、あ、ぅ、ゔぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああッッッ!!」











 ――何故ナラバ彼ハ、神様ニ愛サレテイルカラ。





  その日、ギル=クラインとその友人、そして一部の避難住民15名と行方不明のマルコ=クライン1名を除いた村人――計1058名が死亡した。


 遅れて避難行動をとったティナ=クラインを含める避難陣営37名は村を出た後、何者かによって壊滅され全員死亡。後に救援活動に来た『アンラヴェル聖騎士団』によって事態は収拾された。

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