第4話

 


 杏子の家に帰った山根は不機嫌な顔で、山根の大好物を献立にしていた杏子の手料理を不味まずそうに突っついていた。


「美味しくない?」


 杏子がわざとらしく訊いた。


「……不味かったら不味いって言うよ」


 そう言いながら、豚なすピーマンの味噌炒めを頬張った。


「じゃ、美味しいのね」


「……後で話がある」


「……何?」


 杏子が不安げな顔をした。


「後だ。めしが不味くなる」


 夕刊を捲りながら食事をしている山根は、一度も杏子に顔を向けなかった。



 ――片付けを済ませた杏子は、煙草を吹かしながらテレビを観ている山根の前に正座すると、叱られる時の子供のような表情をした。


「……杏子」


「……」


 山根の呼び掛けに顔を上げた。


「……結婚するか」


 山根がぽつりと言った。


 思いがけない山根の言葉に感極まったのか、杏子は泣きべそをかくと、


「うん」


と返事をして、山根に抱きついた。そして、


「……あなたの子供が欲しい」


 と耳元に囁いた。山根は目を閉じると、無言で承知した。高齢出産のリスクは高いが、杏子に子供を授けてやりたかった。――




「俳句の先生の方はどうですか」


 ハンドルを握った井川が山根の顔を見た。


「……まだ分からんが、シロとは言い切れん」


「まだ、疑ってるんですか? いくら、森崎が寝惚けてたって男と女の区別はつくでしょ?」


「うむ……。だが、数センチの高さの下駄を履いても小柄と言うことはかなりの小柄と言うことになる。女の線は捨てがたい」


 杏子に興味があった山根は、井川には杏子を調べるために近付く、と話していた。


「ミイラ取りがミイラにならないでくださいよ」


 井川がからかった。


「……バカ言え。それより、サッちゃんとはどうなってるんだ?」


 深入りされたくなかった山根は、話をすり替えた。


「え? ……なんか、イマイチなんだよな」


 井川が浮かない顔をした。


「どうして? いい子じゃないか。純朴で可愛くて」


「……俳句の先生ぐらい色っぽかったらな」


 井川が、憧れている杏子を例に挙げた。


「……二十二、三の子に色気を求めるのは無理だよ」


「……でも、なんか、物足りなくて」


「早く結婚しないと、誰かにられるぞ」


「脅かさないでくださいよ」


 井川が慌てた。


「ハッハッハッ……」



 ――「高利貸し強盗事件捜査本部」の指揮を執る山根が、森崎と繋ってしまった杏子に疑いを持ち始めたのは確かだった。だが、仮に杏子が強盗犯だとしても、それを揉み消す方法は幾らでもあった。山根はただ、杏子の賢さの度合を知りたかったのだ。変な言い方だが、ここまで俺達を翻弄し、煙に巻きながら、捕まらずにいる杏子を同志のようにも思えた。


「――森崎氏の供述は二転三転している。就寝中の事件だけに確実性に乏しいのはしょうがないだろ。犯人がなぜ、下駄を履いていたのか。身長を誤魔化すためなのか、それとも、足のサイズを分からないようにするためなのか。いずれにせよ、女の線は捨てがたい。


 そこでだ、松本清張の『天城越え』のように、犯人が少年という可能性もある。先入観を捨て、幅広い捜査を頼む。以上!」


「はいっ!」


 一同が声を揃えた。


 山根は故意に捜査を撹乱かくらんした。森崎との接点が判明すれば、必然的に杏子に疑問符が付く。愛する女を他の奴の手に渡すことは決してさせたくなかった。



 ――山根はマスクの件を思い出すと、独断であることを試してみた。山根が署で待機していると、狙いどおり、森崎から電話がきた。


「へ、変な電話がありました」


 森崎は狼狽うろたえていた。


「なんて?」


「犯人を知りたければ、一千万用意しろ、と」


「男? 女?」


「男です」


 森崎のその返答に、山根はニタッとすると、


「直ぐ行きます」


 と言って、受話器を置いた。



 ――森崎は、訳の分からない顔をしながら、禿頭を摩っていた。


「で、どうするんですか」


 ソファに腰を下ろした山根は悠然と煙草をんだ。


「どうもこうもないですよ。犯人は警察が捕まえてくれればいい。一千万なんてやる道理がない」


「ごもっともです。電話の声は確かに男でしたか?」


「ええ。間違いありません」


 森崎は、「わしの耳は、まだ耄碌もうろくしとらんわい」と言いたげに、自信たっぷりに言い切った。すると突然、山根が咳払いをした。途端、


「犯人を知りたければ、一千万用意しろ!」


 と、襖の向こうから声がした。魂消たまげた森崎がその声に振り返った。


「……この声だ」


 森崎は唖然とした。


「篠原くん、入って」


 山根に呼ばれて襖を開けて現れたのは、マスクをした婦人警官だった。森崎は愕然がくぜんたたずんでいた。


「篠原くん、もう一度頼む」


 篠原は頷くと、


「犯人を知りたければ、一千万用意しろ」


 と殺した声を出した。森崎は自分の耳を疑っている様子だった。


 山根は篠原を帰すと、煙草を一本抜いた。


「いかがですか? あなたが男だと断定したのは紛れもなく女でした。犯人は女だった可能性がある訳です。誰か、心当たりはありませんか」


「……さあ」


「……広田杏子はどうですか」


「えっ?」


 森崎がやじろべえのような動きの目をした。


「あなたは彼女にプロポーズしたんでしょ? 断られたそうですが。そこまでの経緯で、何か弱みを握られて、その報酬として、金を奪われたんでは?」


 山根は当てずっぽうで言ってみた。


「いや、ない」


 森崎は邪念を振り払うかのように言い切った。その行為は却って、何かあったことを教えていた。――つまり、杏子の犯行であることが濃厚になった。


 これ以上訊いても、森崎からは何も得られないと判断した山根は、そこを後にした。

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