第3話 成れずの者たち
甲賀の里では、中流の上の暮らしぶりを思わせるたたずまいの民家だ。板敷き屋根の母屋と作業小屋とささやかな前庭がある。
昼飯時なので、その母屋の中ではうまそうな山芋の雑炊の匂いが漂っていた。
だが善吉は浮かない顔だ。部屋の隅のほうで小さく背を丸めている。
頭に巻いているサラシの包帯の上から傷口にそっと触れ、
「てっ……!」
と痛みに顔を歪ませる。
足元においてあるのは天秤ばかりで、片方に鉄片のおもりを一つずつ足していき、もう片方にのせている幾枚かの銀貨の重さを計っている。
「また大河原のとこの
この家の主は、山賊の親玉のようないかつい
「まったくしょうもねえ。一銭にもならんどころか、頭に塗った
「………」
善吉は無言で聞き流す。そっぽをむいて辰之助と目を合わせないようにしている。
「甲賀の売薬は
その甲賀の中でも、代々薬作りを家業としている磯尾家の売薬は一流のブランドとして知られていた。
「今日も朝から燻製作りをしとったのに。二人より三人で作るほうが、それだけようけ稼げるのはわかろうが。少しはおのれの兄貴を見習ったらどうじゃ」
「かような説教は聞き飽きたわい」
とうとう我慢できずに善吉は口答えする。ただし、自分にしか聞こえないような小声で。
「親父殿、もう少しで煮あがるようでございます」
磯尾家の長男で、善吉の二つ上の兄である
(兄者、またかすめ盗ったな)
と善吉は眉をひそめる。
清太郎は鍋棒を回しながら、ときおりクセのように小袖の懐のあたりに指先をふれさせている。
あれをやるのは、たいてい父親からくすねた銭を隠し持っているときなのだ。世間的には従順な息子の清太郎だが、実際は善吉以上におのれの父親のことを敬っていなかった。
「あの癇癪親父め」
と陰ではそう呼んで
辰之助の妻、善吉の母親が流行病で亡くなったのは十年も前のこと。それ以来、磯尾家は男三人だけの息苦しい生活を続けていた。
「うちが貧乏百姓でないことをありがたいと思え。薬師なら一生喰うに困ることもないんだぞ」
辰之助の言い分は正しい。薬師なら、たとえ次男坊でも独立して家族を持つことさえできるだろう。
「いったい何が不満なんじゃ、おまえは!」
──何が不満なのか?
薄暗い作業小屋に閉じこもってゴリゴリとひたすら薬研で薬材を引き潰す、その地味で陰気なイメージ?
いや、善吉は派手好みではなく、地道な作業は苦ではない。薬草摘みや薬学習いも同様である。薬作りの作業自体が嫌いなわけではないのだ。
ではいったい何が不満かというと、
(カッコ良くないものな、下柘植の佐助みたいに)
というわけだ。それがすべてであった。単純明快。八つの頃と少しも変わっていない。
「忍びなぞ、
金儲けが好きで、長寿を願い、また少なからず自分の生業に誇りを持っているこの男にとっては、好き好んで忍びになんぞになろうという善吉の心のあり方は、どうかしているとしか思えないのだ。
辰之助はさっきまでとはちがう静かな口ぶりで、
「善吉、〝約束〟は覚えとるだろうな? 夏はもう終わりかけとるぞ」
「う、うん……」
善吉はしょんぼりと返事する。
「ありがたい。これでわしも愚弟のことで笑われんですむようになるわい」
清太郎は冷笑する。
いつもながら彼の態度には、血を分けた弟に対する愛情が一片も感じられない。まるで、道端に転がるちょっと変な形の石コロの話でもしているようだ。
「ふう……」
善吉は陰鬱なため息をつく。
* * *
「よいか! 忍び入りにおいて、鳴きまね術は生死を分かつものじゃぞ!」
指南役である
伴家の御屋敷の前庭では、今日も忍術稽古が行われていた。
「ネコ! はじめい!」
右端の子弟から順に、
「ニャー!」
「フニャー!」
と猫の鳴きまねを披露していく。みな、大真面目だ。
列の一番左端に並んでいるのは、太郎太と善吉である。
この二人だけが一目瞭然、背丈が頭一つも二つも飛び抜けている。それもそのはずで、ほかの子弟たちが七つから一二歳であるのに、かれらだけがすでに十五にもなっているのだから。
「ニャー……」
善吉は自信なさそうに鳴きまねをする。さすがに他の子たちより少しは上手いようだ。
最後は太郎太の番。
「ムニャーる! ムニャーろ! ミジャーるばぁ!」
ふざけてはいない。熱演のつもりである。
「太郎太、わしはネコをまねろともうしたのじゃぞ! なんじゃその糞詰まりのガマガエルみたいなのは!」
怒鳴られるというより呆れられている。
「そんなんじゃ、おっかねえ侍にとっ捕まっちまうぞ! ネコっつうのはかようにして化けるのじゃ。ウンニャー!」
ネコ(化け猫?)になりきった
「よし、あとはおのおので稽古を続けろ」
子弟たちは庭のあちこちに散らばり、指示どおりにイヌ・ネコ・ニワトリ等の動物鳴きまねの自主稽古をはじめる。みな、熱心である。
そんな中、太郎太と善吉の二人だけは、庭のすみのほうで立ち話をしている。
「まったくつまんねえ稽古だよな。鉄砲くらい撃たせろっつうんだ」
太郎太は不満たらたら。
「しようがないよ。子弟組なんだから」
「それより善吉、知っとるか? 噂によると次のお務めでは、子弟組からも幾人か選抜されるらしいぞ!」
太郎太は興奮で目を輝かせる。
「ああ、そうらしいな……」
対照的に善吉は陰鬱な顔つきだ。
「ついにわしらにも〝
武士の場合、初陣のことを〝
「どうかな? いつもそうやって騒いでは選から漏れるからな。これまで年下の者に幾人抜かれた?」
団体戦が基本の武士とはちがい、忍びは少数精鋭で任務を遂行する。そのため一人愚鈍な者がいるだけで作戦すべてがおじゃんになりかねない。 だから年下の者に抜かれるような子弟は、通常すぐに忍び修業をやめることとなる。面子の問題もあり、ほとんどの者が自主的にだ。しぶとく稽古場に居座り続ける太郎太と善吉は例外的なのだ。そこで付けられた仇名が〝
「惣領の見る目がもっと確かなら、わしらはとうの昔に選ばれておるはずだったんじゃ」
太郎太が愚痴る。
とくに惣領の伴左京介からは、二人は露骨に煙たがられ、厄介者扱いされていた。
「いくらなんでも次はわしらじゃろう」
「だけど
と前庭の中央のほうに目をむける。
久吉と九兵衛の二人だけが、
太郎太は
「あやつらがなんじゃ。まだ青臭い
ちなみに他のいたいけな子弟たちは、この二人の年長の同級生にたいして賢明にもなるべく関わらないように務めていた。体だけは大きいので単純に怖いのもあるが、それ以上にその存在が気持ち悪かったのだ。
「……なあ、太郎太」
善吉は深刻な口ぶりで切り出す。
「なんじゃ?」
「わし、こたびも外されたら忍び修業をやめねばならん」
「なに!?」
「前にも話したろ。一五の秋までに忍びになれんかったら、家業に専念せねばならんと」
「……そういえばそうじゃったな。忘れとった」
これが、父、辰之助と善吉が交わした〝約束〟だった。あと半年、十五の秋までに〝忍者初め〟を飾れなければ志を捨てると。約束というより、むしろ最後通牒であるが。
「どうしてもやめんといかんのか? 今でも家業はじゅうぶんに手伝っておるだろうに」
「まだ足りんらしい。それに太郎太の家とちがって、うちは忍びの家系ではないから……」
(太郎太の家がうらやましい)
と善吉はいつも思う。
大河原家の豪奢な屋敷には何度も遊びに行っているが、大勢の家族がみな、和気あいあいと仲が良いのだ。中でも太郎太は年の離れた末っ子であるせいか、ずいぶんと可愛がられていた。それになにより、大河原家は甲賀きっての忍びの名門家系である。忍びを志すのを疎まれるどころか推奨されるのだ。善吉からしたら夢のような話である。
「まあ、心配には及ばん」
太郎太は自信たっぷりに念を押す。
「次こそは間違いなくわしらが選ばれる番なんじゃから」
「集合じゃ! 惣領より大切なお話がある!」
与五郎の指示が前庭いっぱいに響く。
子弟たちは、すぐさま駆けて母屋の前に寄り集まる。
母屋の縁側に腰かけているのは、
「皆、腰を下ろせ」
与五郎の指示で、子弟たちは地面にあぐらをかく。
「話というのは他でもない」
左京介が、あいかわらず静かでよく響く声で話しはじめる。
「近々、十名ばかり入り用のお務めがあるが、兵を召し集めるにあたって、こたびはここにおる子弟の中からも選抜する」
太郎太と善吉は、その言葉にハッとする。
他の子弟たちも静かにざわめく。
「では〝忍者初め〟を飾ってもらう者の名を告げる」
全員がシーンと静まり返る。
「久吉と九兵衛、おぬしらじゃ」
太郎太と善吉は、二人そろってガーン!とショックの表情。
「はっ!」
久吉と九兵衛がサッと立ち上がる。
「おぬしら両名共々、常よりの忍術精進まことに神妙の至り」
「祝着至極に存じます」
ほかの子弟たちは、羨望の眼差しで凛々しい久吉と九兵衛の姿を見あげている。
善吉は、すっかり諦めがついた顔でため息をつく。
「お待ちください!」
突然、太郎太がバッと立ち上がり、
「承服できませぬ! われら二人のほうが先ではございませぬか!」
善吉は驚きあせって、
「おい、太郎太!」
「常よりの忍術精進ならばわれらも遅れはとりませぬ!」
「太郎太、口を慎め! 分をわきまえんか!」
与五郎は目を吊り上げて叱責する。
だが太郎太はそんなものは無視し、その場にガバッと土下座して、
「後生でございます! どうかわれらもコキ使ってくださいませ! 必ずや古今無双の働きをしてしんぜましょう!」
左京介はうんざりとした様子で、
「兵の数は足りておる」
太郎太はさらに額を地面にこすりつけて、
「どのような下っ端仕事でも
「決定はくつがえらぬ!」
苛立ちのあまり、左京介の言葉には怒気さえこもってくる。
「……おい善吉、火を貸してくれ」
額を地面にすりつけたまま、太郎太が小声でささやく。
「な、なにをする気だ?」
オロオロと動揺しながらも、善吉は言われるままに懐から胴火を取り出す。
太郎太は懐から焙烙玉を取り出し、胴火の火種で点火する。
異変に気づき、周囲は騒然となる。
与五郎も動揺して、
「おい太郎太! 何のマネじゃ!?」
「わしらの覚悟のほどをとくと御覧あれ! 今日、この場にてご任命頂けぬのなら、潔く腹をふっ飛ばして果てるまで!」
導火線が燃えている焙烙玉を、切腹の短刀のごとく自分のでっぱった腹に押しあてる。
子弟たちは、ワッと蜘蛛の子を散らすように逃げ出す。
「太郎太……!」
止めることも逃げることもできず、善吉はその場に呆然と立ち尽くす。
左京介は微動だにせず、太郎太を醒めた目で見つめている。
導火線の火は、あとわずかで火薬部分に到達する。
太郎太は慌てて指で火を揉み消す。
「アチチッ……!」
取り落とした焙烙玉が、コロコロと左京介の足元近くに転がって止まる。
茶番であることがバレて、あたりは白けきった雰囲気に包まれる。
「……この始末、どうやってつけるつもりじゃ?」
左京介に静かな口調で凄まれる。
さすがの太郎太も言い訳が思いつかず、満面の苦笑いを浮かべるだけ。
そのとき、一度は消えたかに見えた導火線の火が、また勢いよく燃えはじめる。
「!」
「!?」
「?!」
「!!」
爆音が轟き、一町先からでも確認できるような巨大な黒煙が前庭に巻きあがる。
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