八話

 翌日、また夜中の駅前で藍原は歌っていた。けっこうな頻度で路上ライブを行っているようだ、やはり何か事情でもあるのだろうか。


「これ、さんきゅ」

「ん」


 演奏を終えた藍原に借りていたCDを返す。


「学校で渡してくれればよかったのに」

「ああ。それでよかったのか」


 俺の言葉に、藍原は首を捻った。教室の中で会話するのは恥ずかしいのだろうかと忖度などしてみたが、どうやら無意味だったらしい。


「結論から言わせてもらうと」

「うん」

「けっこう、よかった」

「……そっか」


 藍原はふっと頬を緩めた。安心して気が抜けたというような、そんな笑みだった。


「よくよく考えてみれば、歌番組とかドラマの主題歌とか、そういうの以外で曲を真面目に聴いたのって初めてかもしれないな」

「ほんと?」

「あとはスーパーのBGMぐらいだな」

「なにそれ」


 ふふっ、と藍原が笑う。


「なんだか、ほんとうに仲良しみたい」

「るせぇ」


 茶化してきたプリシアを小声で黙らせ、藍原に向き直る。


「もう一つ、礼を言わないといけないことがある」

「ん、なに」


 俺は藍原に、部屋でフルクルの曲を流していたら妹が乱入してきて押しつけるがごとくアルバムを渡されたことを話した。


「無言のまま突きつけられたから意味はよくわからんかったが、妹と罵倒される以外のやりとりをしたのはずいぶんと久しぶりな気がする」

「罵倒、される」

「そうだ。一方的に俺が罵倒される」


 本当に、中学に上がってからの梨子は変わってしまった。小学生の頃はもっとベタベタと甘えてくれていたのに。


「昔は耳かきをしてやったりもしたんだがな。本当に、嫌われたもんだ」


 俺が兄の手によって耳かき音声の沼に引きずり落とされた頃などは、梨子に耳かきをしてやったものだ。より耳かき音声の世界を知るためには耳かきを知るべきだという発想は、あのときから俺の中にあったものである。


「美泉くん、しつこいから、嫌われたんじゃ?」

「おい、どういう意味だ」


 強めの語調で問いただすと、藍原は怯えるでもなく小さく笑みをこぼした。この短期間でずいぶんと馴れてしまったものである。俺の目的からすれば順調なことこの上ないが、どうにもこそばゆい感じがあるのは否めない。


「私、そろそろ、帰るね」

「ん、ああ。しかし連日ご苦労なことだな。毎日のように路上ライブなんぞして、親とかは心配しないのか」


 それは何気ない質問だった。というより、当然の疑問だったように思う。

 いくら高校生とはいえ、年端も行かぬ娘が夜な夜な出かけるというのを親が許すものなのか。


「…………………………」


 藍原の返答は、ただただ沈黙だった。伏し目がちに足下を見て、ケースにギターをしまおうとしていた手も止まっている。

 その態度だけで、コミュニケーションの経験値に乏しい俺でさえ察することができる。これは地雷を踏んだ、というやつだ。


 こういう時の選択肢は、態度の変化に気づかなかったフリをして話題を変える、気づいた上で深入りしていくの二パターンぐらいだろう。普段の俺であれば前者を選ぶところだ。なぜなら、基本的に他人の境遇に興味がない。

 しかし、俺が進むのは後者の道、他人のプライバシーという茨に土足で踏み込む鬼畜の所業だった。


「親となんかあんのか」


 俺は問いかける。それは善意によるものではない。俺はそもそも、藍原唄という少女に「そういう目的」で近づいたのだ。

 彼女の弱みを握る。いま思い詰めていることを探る。そしてそれを解決するのに「ヒーローとしての力」が役に立つのではないかと甘言を弄する。


 俺は、そういう人間だ。


「……親には、言ってない」


 藍原はポツリと語り出した。それはひねりの甘い蛇口から雫がほんの少しずつだけ落ちていくような、静かでいてよく通る声だった。


「二人とも、こういうの、許さないだろうから」

「子供が路上ライブをし出すとか言ったら、たいていの親はいい顔をしないだろうな」


 などと常識的な見解を述べたところ、藍原は首を横に振った。


「お父さんは、医者。お母さんは、弁護士。すごく頭いいの」

「ドラマに出てきそうな設定だな」

「二人とも私にはいい大学に行って、いい企業に入って、そういう幸せを、望んでる」


 藍原は小さく息を吸って、


「だから、私がこういうことをしているのは、言ってない」


 ここまで聞いて、ようやく話の軌道が見えてきた。

 要するに、藍原の両親は娘の幸せを願っている。できるだけ現実的な、勉学に励み努力で社会的地位や金銭を手にするという幸せを。

 そんな両親なら、許さないだろう。

 たとえば、音楽家になろうなんていう夢を持つことは。


「コードを覚える暇があったら英単語でも暗記していなさい、とか言い出しそうだな」

「うん」


 言うのかよ。


「そのギターはどうしたんだ。自分で買ったのか?」

「親戚のおじさんに、もらった。その人が説得してくれて、息抜きぐらいならいいだろうって。その時も、けっこう揉めたんだ」

「そうか」

「だから家では、ほとんど弾けない。図書館とかで勉強してることにして、外で弾いてる」

 なるほど、それで練習を兼ねての路上ライブか。スタジオを借りるというのはお金がかかるし、家ではいつ親が帰ってくるともわからない。そうすると、夕方から夜にかけての時間帯に路上でライブをするというのが効率がいいのかもしれない。


「藍原は、その、歌手とかになりたいのか?」

「……わかんない」


 藍原は首を振る。その姿は道に迷った子供のようにさえ見える。


「私、友達いなくて。運動もできないし、勉強はできたけど好きじゃないし、何やってもあんまり楽しくなくて。お父さんや、お母さんの言うとおり、ただ勉強して、なんとなく幸せになれたらいいのかなって、そう思ってて」


 でも、と彼女は言う。


「フルクルが、教えてくれたの。フルクルの曲が、教えてくれた」


 藍原がフルクルと出会ったのは、高校受験のため塾に通っていた頃のことらしい。塾にいた他の受験生が話題にしていたのを聞いて、家に帰った彼女はネットに上がっていたフルクルのPV動画を見た。

 そして、心惹かれた。


 安物のイヤホンから流れてくる音は、それでいて全身をさらっていく津波のような衝撃を伴っていたのだと、藍原は言う。

 それは平たく言うと、未来を歌った楽曲だった。海にプカプカと浮かんでいる子供がいる。子供はただ浮かぶだけ、波が来ても逃げようとしないし、渦には呆気なく飲み込まれてしまう。そんな子供を助ける大人がいる。それは子供自身の未来の姿だった。

 その時、藍原は海に浮かぶだけの子供ではいられなくなったのだ。


「ああいう歌が、歌えたらいいだろうな、って思う。私、歌、下手だけど」

「睨むなよ。睨まれても訂正しないぞ」

「ひどい」

「酷いのはおまえの歌声だ」


 藍原と、なぜかプリシアにも非難めいた視線を注がれる。事実なんだからしかたないだろう……。


「訂正してほしけりゃ、上手くなればいいだろ。そしたらいくらでも褒めてやる」

「ホント?」

「俺は嘘は吐かない」


 大きく頷くと、プリシアがポンと手を叩いた。


「そっか。じゃあ精霊の力でウタの歌を上手にしてあげればいいんだね!」

「え」


 妙案とばかりのプリシアの言葉に、俺は思わず声に出して反応していた。

 彼女の言うことは、珍しくもっともだった。たとえば藍原の歌が誰が聴いてもプロ並みのレベルだとすれば、両親を説得する材料にもなるだろう。

 そうすればヒーローの頭数も増えて、俺がサボる口実もできる。万々歳だ、誰もが得する大団円だ。


 そうだ。その通りだ。それでいい。今こそ藍原にすべてを打ち明ける時だ。

 その、はずなのに――





 突如、全身に迸る悪寒。


 それは怪人が現れたという、紛れもない直感だった。

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