六話

 たっぷり十秒ぐらいは頭を下げていただろうか。その間に逃げられていたらどうしよう、虚空に向けて頭を下げるヤバい人になってしまうなどと心配もしたのだが、それは杞憂だった。

 顔を上げると、視線の先では藍原が驚いたように固まっていた。彼女は何度か口をぱくぱくと開け閉めしてから、その涼やかな声で言葉を紡ぐ。


「どう、したの?」

「さすがに下手下手言い過ぎたかな、っていうか。いくら本当に下手だったとしても傷つくかなっていうか」

「私、いま謝られてるんだよね?」


 藍原の目がにわかに暗くなる。それはさながら底の見えない暗黒のごとく。


「そ、そうだ。俺は謝りたいんだ。というより、もしもおまえが勘違いをしているなら訂正したい」

「訂正?」


 藍原が不思議そうに俺の言葉を繰り返す。


「確かにおまえの歌は聴く価値がないと思う。ぶっちゃけ十円たりともおひねりであげたくはない。むしろ俺が十円もらいたいぐらいだ」

「……ねえ」

「でも、おまえのギターはかっこよかった」


 藍原の動きが止まった。たたみかけるように、俺は言葉を続ける。


「俺は音楽のことなんてよくわからないけど、おまえのギターの音はすげぇかっこよかった。めっちゃ練習してんだなって素直に感心する」

「そんな慰めで、騙されない」

「あ? ふざけんなよおまえ」


 無意識のうちに語調が荒くなる。


「一生懸命やってる奴にそんなくだらない嘘吐くなんてバカにするようなマネ、俺は絶対にしない」


 言い切ると、藍原は何度か目をしばたたいてから下を向いてしまう。表情は前髪に隠れてしまって覗くことができなかったが、


「……それ、信じていいの?」

「あん?」

「私のギター、上手って。かっこいいって」

「だから、俺はそういう嘘は吐かねぇよ。下手くそなら下手くそって言うって、もうわかってんだろ」


 数秒して、藍原は顔を上げた。彼女の表情を見て、俺は思わず息を呑んだ。


「……その、ありがとう」


 頬に差した朱色の意味は、きっと昨日とはまるで違う。こちらにまっすぐ視線を合わせようとはせず、斜め下に向けられた顔は照れたような喜んでいるような中途半端な感情をちらつかせている。

 なんというか、人気のない校舎で秘め事を共有しているみたいな、そういうどこか背徳的な快感を催すような、そんな表情だった。


「……こほん」


 小さな咳払いが耳元でして、俺は我に返る。隣でチラチラとこちらを見ているのは、プリシアだ。

 そう、浮ついている場合じゃない。とりあえず、このチャンスに好感度を上げておかないと……。


「さ、さっきの曲ってあれだろ。フルクル? とかいうのの曲だろ」


 妹が好きだったバンドの名前をなんとか思い出して口にしてみる。外していたら最高に恥ずかしいが。


「知ってるの?」


 ビンゴだったようだ。


「妹が好きなんだよ。だから、少しだけな」

「妹さん、いるんだ」

「いるいる。超いる」


 超いるってなんだ、アホなのか。妙に波風立っている心を深呼吸で落ち着かせる。何の話だっけ、そう、妹の話だ。


「……でも、最近はちょっと険悪の仲でさ……」

「そう、なんだ」


 藍原の視線に哀れみが帯びるのを感じる。俺がそんなに落ち込んでいるように見えただろうか。まあ、辛いか辛くないかでいえば辛いのだが。


「元々共通の趣味とかがあるわけでもないからな、めっきり会話もしなくなっちまったよ」

「大変だね」

「ああ。……いや、なんで妹の話してんだ?」


 途端に冷静な俺が帰ってくる。こんな大事な時に家出するのはやめていただきたいぞ、冷静な俺。


「だから、さっきのもテキトーに言ったわけじゃないぜ? 元々の曲を知った上で、かっこいいって言ったんだ」

「だから、もういいって」


 真っ向から褒められるのが恥ずかしいのか、藍原はぱたぱたと顔の前で手を振る。


「まあ、そうは言っても演奏技術とかはわかんねぇけど。楽譜も読めねぇし」

「そう」

「それになにより歌が邪魔だよな。ギターが八十点だとしても歌がマイナス百点だから差し引きでマイナスっていうか」

「……帰る」

「おおおう待って待って今のなし!」


 そうして、なんとか藍原と打ち解ける(?)ことに成功した俺は、駅前で彼女と別れた。家まで送っていくという選択肢もないではなかったがそれは気持ち悪い奴な気がするし、女子との会話というものは俺の記憶に残っていた以上にエネルギーを消費するらしい。座間よ、おまえの気持ちが少しだけわかったぞ。


「ウタと仲良くなれそうでよかったね」


 帰り道、声をかけてきたプリシアはどこか嬉しそうだ。


「とりあえずは、な。しかし、こんな体たらくじゃヒーローの話なんていつできるかわからんぞ……」


 嘆息しつつも、意外と気分は晴れやかだった。見上げれば、夏の夜空にはまばらに星が輝いている。まるで俺の心を表しているかのようだ。

 しかし、しばらくすると流れてきた雲が星を覆い隠してしまった。


 ありがとう、と、そう言われた。

 そんな礼の言葉など、必要はないのだ。俺はただ、自分が納得いくように思ったことをそのまま口にしただけなのだから。


 だからこそ。

 ただもっと、単純に。ギターがかっこいいとか、そういうのじゃなく。


 ――楽しそうに歌っている姿は好きだ、と。


 俺は、どうしてかそれだけは口にできなかったという事実を引きずりながら家へと帰った。

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