カキドオシ

 聖人と称される男がいた。幼少の頃から自分のことより他人のことを思いやり、誰かのために自分の大切な何かを犠牲にすることも厭わなかった。成長してからは商才を発揮して財を成したが、その尽くを困っている人のために寄付し、そのための財団も設立した。特定の宗教に熱をあげるなどということもなく、ただひたすら現実的に、人に手を差し伸べる生き方をしていた。

 その生活ぶりも禁欲的で、六十歳を超えても伴侶も浮いた話もなく、服装も質素で、食事も簡単なものしか摂らなかった。家も車も持たず、講演に呼ばれても送迎を断って、徒歩か電車で向かった。暴力などは一切ふるったことがないという話だがスポーツは好きで、今でも週末はテニスをしているという。

 そんな彼と、まったくの偶然に、食事をする機会があった。何のことはない、たまたまレストランで席が隣り合わせになったというだけだ。彼は凄い有名人なのに取り巻きも連れておらず、そして誰も、彼の存在に気がついていないようだった。

「先生と食事をご一緒できるなんて」

 私の感嘆に、彼は小さく笑う。

「そんな、先生なんて呼ばれるような人間じゃありません」

「でも、素晴らしいですよ。人のために自分の身を削ってらっしゃる。とても禁欲的で、まさに聖人ですよ」

 彼は笑みを浮かべたまま、首を振った。

「いいえ、私は本当に、そんなんじゃありませんよ。禁欲的だなんてとんでもない。むしろ、享楽主義者です。私はですね、この生き方が楽しいのです。気持ち良いのです。人のために何かをすることが、食事より睡眠より性交より、快楽なのです。自分が気持ち良いことを、ただひたすらやっているだけなんですよ」

 返す言葉が思いつかなかった。目の前に座るのが本当の意味で聖人であるということを、確信した。

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