アメジストセージ

 美味しい朝食の匂いで目が覚める。隣に立つ姉さんが、その隣に立つ母さんから食器を受け取り、ぼくに回してくれる。

「おはよう」の輪唱が、さざなみのように響き渡る。家はその声に呼応して揺れ、ぼくらの身体ごとふらふらした。

「こら、しっかり立ちなさい」と、母さんの隣に立った父さんが言う。ぼくは慌てて背筋を伸ばして、受け取った食器を片足で作った支えの上に置く。もう一方の足はどうにか家の敷地内に収めて、ほっと一息つく。下手すると家から落ちて、それきりになってしまう。ぼくは、その先に待ち受ける死よりも、家族から離れることの方が怖い。何せ生まれた時からこの家にいて、この場所から動いたことが無いのだ。姉さんも母さんも父さんもそうだ。ぼくらは同じ家に順に生まれ、力尽きる時まで同じ場所に立ったまま生きていく家族なのだ。

 食べ終えた食器を姉さんに渡し、姉さんはその隣の母さんに、母さんは一番端にいる父さんに渡した。父さんがその後、食器をどこに仕舞っているのだかは分からない。

 そもそも、ぼくは父さんの姿を見たことが無い。敷地はぼくらの足幅にぴったり合った幅しかないので、ぼくからは母さんの鼻筋しか見えない。可能な限り身を乗り出し、限界まで後ろに背を反らしても、父さんの二の腕がちらりと見えるきりだ。

 考えだすと止まらない。ぼくは父さんの声しか知らない。顔は、髪型は、背丈は? こんなに仲の良い家族なのに、顔を見たことすら無いなんて滑稽だ。

 とうとう我慢できず、ぼくは姉さんの足の間に、右足を踏み出した。

「ちょっと何する気」「馬鹿な真似はよしなさい」「止まりなさい」と皆が口々に言うけれど、動き出したら止まれない。バランスを保つため、むしろ動いていないと危ないのだ。

 姉さんの身体に殆どしがみつくように移動したぼくは、そのまま母さんの方に歩を進めた。歩いたのも初めてなら、母さんに触れたのも初めてだ。このまま父さんの顔を……と思った時、突風がぼくの身体をまともに突いた。

 よろけたぼくは母さんにぶつかった。母さんは父さんと姉さんの腕を掴んで持ちこたえようとしたけれど間に合わず、そのまま三人は揃って家から落ちてしまった。一瞬のことで、父さんの顔を見ることは出来なかった。

 ぼくは一人、遥か下を見下ろしたまま、いつまでも動けなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る