Stars will drive us away.

天上 杏

第1話 Anywhere but Home

 裸足で逃げているイメージ。

 本当はちゃんと靴を履いているし、走ってもいない。


 イメージの私は少女漫画のヒロインみたいに、凜と背筋を伸ばし、夜を駆け抜けていく。

 でも本当の私は、猫背の背中を更に丸め、とぼとぼと歩いている。

 熱く痛む足を引きずりながら。


 白いスニーカーは、夜に漂う粒子を吸着し、淡く発光して見える。

 テンポ悪く前に出る爪先。それでも私を運んでいる。


 温くて涼しい夜風が吹き抜けていく。

 イメージとリアルの間。



 行き先は決めていない。

 逃げるということが重要だった。


 身体がある以上は居場所が必要で、幽霊のように浮遊することもできないのだから、私はどこかへ行かなくてはいけなかった。

 家以外の場所へ。


 橋を渡り終えたところで、来た道を振り返る。

 川向こうの一帯に、ビルの明かりが煌々こうこうと輝いていた。

 光の海というよりは、無造作に重なったブロックのように見える。

 私の家も、あそこに埋もれている。


 頭が痛かった。

 ずっと、ただ重いのだと思っていた。

 けど、重さの芯には確かに痛みがあった。しくしくと収縮、膨張を繰り返す。

 一度認識すると頭皮まで脈打っているように感じられ、痛みの範囲は更に広がった。


 耳鳴りもしている。

 断続的に通過する車の音より、脳にこだますわめき声の方が強かった。

 記憶が蘇る時、私は音を二重に聞いている。

 母と私の声が混ざり合う。


 最初は冷静なのだ。

 いかに理性的に振る舞えるか、互いを試しているとすら言える。

 けど、その両方向からの無理が、緊張の糸を張り詰めさせる。


 どうして、という言葉を母はよく使う。

 どうしてこんなところで間違えたのか。どうして何度も確認しなかったのか。

 私は母を刺激しないよう言葉を選び、それでいて隙が無いよう説明する。

 でも、どんなに妥当な回答を提示しても、母は決して納得しない。

 むしろ加速度的に苛立ちを募らせていく。


 そして、よりによって。

 この言葉が出たら、来る。ぐっと歯を食いしばる。

 よりによって、最後の詰めで。よりによって、こんな大事なテストで。


 真剣にやってればこんなミスはしないんだ、と叫んで母は97点の答案をぐしゃりと掴み、その拳骨で私の頬を殴った。

 ゴリ、という鈍い音が顔の内部でした。

 私は床に倒れ込んだ。

 にらみ付けてはいけないのは分かっていた。母の目を見てはいけない。

 けど、反射的に向いてしまった。


 その目付きにお前の心の醜さが表れてるんだよ。

 ……最後の方は何を言っているのか分からない。

 うるるるぁ、と獣のような声を絞り出し、私の髪の毛をつかみ、身体ごと床に引き倒した。

 こういう時、私はいつも受身を取ってしまう。

 やられると分かった途端、はね除けるなりかわすなりすればいいものを。

 もう私の体格は母と変わらないのだから、取っ組み合いだってできるはず。

 なのに、幼い頃からの刷り込みで、今でも母の体は影が膨れ上がったように大きく見える。


 ごめんなさい、もう間違えないから、痛いよお母さんお願いやめて、とわめきながら、私は限界まで引っ張られた頭皮の痛みに耐えきれず、母の足首を掴んだ。

 もはや完全な獣になってしまった母は、全ての抵抗に怒り狂う。

 私は腕を蹴り飛ばされ、痛みのあまりうめき声を上げた。

 思わず手を離した瞬間、上からやばい空気の動きを感じた。

 見上げると、鬼のように引きつった顔の、目だけが冷徹に光っていた。

 両目の焦点は私の下腹部に結んでいる。

 破裂のイメージがスパークし、私はダンゴムシのように身体を丸めた。

 渾身こんしんのキックは右膝に炸裂さくれつした。

 骨から突き上げられるような声が出た。

 しばらく動けなかった。


 出て行け。今すぐに。お前のせいで私の人生は台無しだ。こうなると分かってたら、お前なんか産まなかった。


 ……いつもの言葉だった。

 今更傷付きもしない。母のお得意の決め台詞。


 なのに、なぜか今日はぷつりと糸が切れた。

 本当に体内で音がした。

 私はふらりと玄関へ向かった。

 爛々らんらんと光る怒りの原石みたいな母の目に、一筋の動揺が走るのが見えた。

 何も持って行くな、という怒鳴り声を背中で無視し、ショルダーバッグだけ掴んで私は家を出た。


 家を出たのは初めてだった。

 いつもなら土下座し、泣きながら念仏のように謝罪を繰り返している。

 それでもなお蹴り倒され、日付を超えた頃帰ってきた父に「もう遅いんだからいい加減にしろ」と吐き捨てられて、ようやく暴力は打ち切られる。

 耐えればいいだけの話だった。

 別に殺されるわけじゃない。母に私は殺せない。


 欄干らんかんに手をつく。

 川の黒い流れに向かって、自嘲じちょう気味に微笑んでみせた。

 誰もいないのに。

 多分私は私に、大丈夫、と言いたいんだと思う。


 父を待つことに耐えられなかったのかもしれない。

 私を守ってくれない、ただ鬱陶うっとうしい争いをひたすら嫌う父を、待つということ。

 あの、うとましさで満たされた冷たい眼差し。

 

 橋の向こうに目線を上げる。

 猥雑わいざつに積み重なったコンクリートが放つ光の輪。

 薄めてようやく闇と溶け合う外輪上に、星が見えた。

 一つ焦点が合うと、もう一つ、また一つ星は増えていく。


 細く長く息を吐いた。

 寒くもないのに震えている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る