アンドロイドはただ人間の夢を見るか

ナツメ

記憶

「人間になりたい、って思うことあるの?」

 オオタ様は新聞を読みながらそう言った。

 私は空になったティーカップに紅茶を注ぎ足していた。ちょうど琥珀の水面がカップの内側に施された蝶の柄の下まで来たので、静かに注ぐのをやめてテーブルにそっと置く。

 ありがとう、と答えるオオタ様の手元を覗く。古式ゆかしく、タブレットを使って新聞を読んでいる。この方は年の割に古臭いものが好きで、その考えもまた古風だ。古風、というのは婉曲な言い方で、もっと直截に言うならば、保守的でその分差別的、そして非合理的である。

 オオタ様は善人だ。だがその信奉する正しさや美しさがあまりに多くのものを踏みつけにしていることに気付かない。デリカシーと想像力が圧倒的に欠如している。それなのに本人に悪意がないのが面倒だ。

 私が、とても苦手なタイプの人間だった。

 しかし、今の私は、オオタ様のこのような愚にもつかない質問にも、昔と違って臆さずに答えることができる。

「いいえ」

 ただ一言、感情なくそう返しても、今の私に眉をひそめる人はいない。むしろ、情感たっぷりに「人間に憧れます」などと返すほうが怯えられるだろう。


 昨今、アンドロイドの暴走による事故が多発している。相手がアンドロイドでなければと呼ばれるような事故、つまり、アンドロイドによる人間への暴行や殺人だ。

 事故原因はメンテナンス不良と初期設定の不具合だ。五年ほど前までは、アンドロイドが人間といかにスムーズな意思疎通ができるか、という部分の開発に、各メーカーはこぞって力を入れていた。

 スムーズな意思疎通のためには擬似的な感情の生成が不可欠だった。ベースの感情パターンはプリセットされており、購入されたあと、機械学習によってそれぞれの個体独自の感情パターンが生成されていく。また、アンドロイドが出力内容を決定する際に参照するのは過去のの生データではなく、記録と感情パターンをかけ合わせたデータベースという仕様になっていた。記録は本体内に保持しているが、行動処理プロセスはそのデータベースにはアクセスできない。

 人間を見れば明らかなように、記憶というのは甚だ当てにならない。記録は客観的事実だが、それに解釈が合わさった記憶の正しさというのは評価できない。いわば誤情報だ。

 誤情報を元に学習を続けていくと、そのデータはどうなっていくのか。

 その結末は、前時代からすでに多くの創作で予見されていただろう。機械の暴走。ロボットの暴走。人間を恨み、殺す。

 もちろん、旧型のアンドロイドすべてが暴走するわけではない。購入時に、年に一回のメンテナンスに同意するという契約書を結ばされる。メンテナンスでは記録データベースと記憶データベースの照合が行われ、不具合に繋がりそうな学習データは削除される。

 ただ、メンテナンスはその都度オーナーの許可がなければ行えない。アンドロイドインターフェイスから所定の時期に通知されるが、メンテナンスには最長百二十時間かかる。更にお金もかかる。だから通知を無視して、メンテナンスなしに使い続けるオーナーも多かった。暴走を起こしているのは、現時点ではすべてそのようなメンテナンス不良の旧型アンドロイドだった。

 事故の多発を受けて、各メーカーはコミュニケーションよりも安全性を優先した開発に切り替えた。感情パターンはプリセットのみ、参照データベースは記録データとし、繊細な感情的な判断が必要なものは、また人間の仕事に戻っていった。旧型のリコールも行われたが、メンテナンスにも出せない人間の多くはリコールにも出さず、旧型の新規出荷は停止して久しいが、未だにこの手の事故は起き続けている。


 オオタ様が読んでいたのも、やはりアンドロイドの暴走事故の記事だった。

 アンドロイドの暴走の理由は先の通り、設定とメンテナンスの不具合だ。だが人間は愚かで、それを「人間になりたくなったアンドロイドによる凶行」と呼びたがった。機械にも動機がなければ満足できないらしい。工場で機械が制御できなくなったら事故と呼ぶのに、アンドロイド事故はたびたび事件と呼称された。

 そしてオオタ様はそれを鵜呑みにして、だから先程のような質問を投げかけてきたのだろう。

「まあ、キミみたいなサブスク型は定期メンテしてるし、大丈夫だよな」

 そう笑って私の注いだ紅茶を飲む。ひどく肘を張って飲む様子が、やはりあまり好きにはなれない。

 私は昨今では主流のサブスクリプション型家政アンドロイド、ということになっている。アンドロイドが普及してきたとはいえ、購入するにはまだまだ高価で、導入できるのは企業や裕福な個人に限られていた。

 しかし、暴走事故でアンドロイド不信が高まり、顧客層を広げるのと同時に強制的にメンテナンスができる方法として、メーカーはサブスクリプション型サービスを打ち出した。

 本体は購入せずあくまで貸与という形で、一体で複数の契約者へのサービス提供を担う。曜日ごと、あるいは時間ごとにする形で、契約時間外にメーカーでメンテナンスを実施することができる。

 要は人間の家事代行サービスとほとんど変わりがない。違うのはそこに感情労働が加わるかどうかだ。サブスク型アンドロイドより人間の家事代行のほうが少し値段が高い。

 格安のアンドロイドに感情的なやりとりを求める者もいる。オオタ様もそのタイプだ。しかし、それに対し望んだ対応を得られなくても、相手がアンドロイドであれば満足する。そうすると、こういったタイプの人間は、本当は自分の話を聞いてほしいだけで、相手とのやりとりなんて重要ではないのではないかと気づく。ただ、自分が話したいことを話し、それに自分が想定した答えさえ返ってくれば、その答えの内容そのものはどうだっていいのだ。

 人間だったときは、それがわからずに、ひどく苦労をした。


 私はアンドロイドではない。電気ではなく心臓が鼓動し全身に血をめぐらせることで生きているし、頭蓋骨の中には未だに謎が多く残る脳みそという物質が入っていて、そこで思考している。

 ただ、人間として、わたしはいわゆるではなかった。

 それは先天的に脳の作りが異なるということに過ぎないが、脳のどこがどう違うのかは、今日に至るまで解明されていない。

 とにかく、人の感情が理解できなかった。私自身には感情がある。しかし、他者の感情を推し量ろうとすると、そこにはあまりに、変数が多かった。

 人の反応をサンプルに統計的に導こうとしても難しい。入力に対する出力に個体差がありすぎる。その個体差に紐づく個人の傾向を割り出すには、圧倒的にサンプルが足りなかった。コミュニケーションがうまくいかないからサンプルを取ろうとしているのに、そのサンプルを取るためにはコミュニケーションが必要なのだ。鶏と卵、しかも負のスパイラル。結果、私はどこにいっても馴染めず、常に生きづらさを抱えていた。

 ロボットのようだ、と言われた。コミュニケーションのぎこちなさを笑われ、あらゆる可能性を想定してなんとか選び取った選択肢はことごとく正答を外した。

 ――ならばいっそ、と思ったのだ。

 ならばいっそ、ロボットとして生きればよいのではないか。アンドロイドならば、人の感情がわからなくても責められることはないだろう。ちょうど、サブスクリプション型アンドロイドサービスがリリースされた頃だった。旧型のような、つまりコミュニケーションは求められないし、日に数時間の勤務であれば私の身体がアンドロイドのそれでないことは隠し通せる。

 それで、大手家政アンドロイドサービスに申し込んだオオタ様のところに、アンドロイドのふりをして潜り込んだ。

 アンドロイドとして振る舞うのは、驚くほど快適で、順調だった。人の顔色を気にしなくていい。質問には言葉どおりに答えればいい。意図が不明瞭な発話に対し、「すみませんがおっしゃっている意味がわかりません」と答えても、アンドロイドであればそれは無礼に当たらない。人間が同じことを言うと、なぜか皮肉だと捉えられるのに。

 だから、「人間になりたい」だなんて、思うわけがないのだ。人間が嫌で、人間でいたくなくて、私はアンドロイドになったのだから。


「オオタ様は、アンドロイドになりたいと思われますか」

 ティーポットを持ったまま問うた。オオタ様は驚いたように顔を上げ、私を見た。しかしすぐにその顔は笑みに変わる。その意図はもちろん、私には汲めない。

「そうだなあ、言われてみれば、僕もアンドロイドにはなりたくないな。だってさ、人間の楽しみって、自由に感情を持つことじゃない。泣いたり笑ったり、うまくいかないで傷ついたり、些細なことで大喜びしたりさ」

 そこでオオタ様は最後の一口を飲み切った。ポットを傾けようとすると手で制されたので、トレーにカップとポットを乗せ、キッチンに下げる。

「そういうのが一切ないんじゃ、生きてる意味がないって、僕だったら感じちゃうな」

 キッチンといっても食卓と目と鼻の先で、オオタ様はやや声を張って、離れていく私に話し続ける。

 流しにカップを置いたとき、オオタ様が言った。

「まあ、この話は感情のないキミには難しいよね」

 ガチャ。置きかけていたポットがカップにぶつかって、硬い音を立てた。どちらも割れてはいなかった。オオタ様は音には気付かなかったらしく、新聞を読み続けている。

 私は、自分が動揺していること、それ自体にまた動揺していた。感情がない。そう言われるのは嫌いだった。

 人間はいつだってそうだ。自分の感情は存分にわがままに発露させておいて、自分たちとルールの違う他者の感情は認めずに抑圧する。それに屈してこちらが感情を抑えれば、今度は感情がないと揶揄する。

 だから、オオタ様の言うような自由な感情なんてものは存在しない。人間の感情には不文律が存在し、それに反さないごく狭い範囲の感情表現のみが許される。オオタ様は自身が自由とは程遠い、決められた枠の中でしか感情を見いだせない感受性の劣った人間であることに気付いていないだけだ。

 なのに。それなのに私は、今も、昔も、一言も言い返すことすらできないでいる。人間の不文律は強固で、それ自体を崩すような発言はそもそもエラーとして検討の対象外になる。バグを指摘しているのに、バグの指摘自体をすべてバグ判定するようにプログラミングされているようなものだ。

 だからアンドロイドになりたいと思ったのだ、私はきっと。真に自由な感情を手に入れたかったのだ。ルールが壊せないのなら、別のルールのフィールドに移るしかない。

 私は私の感情を守りたかった。他人の感情のために私の感情をこれ以上すり減らしたくなかった。そんな私に「感情がない」だと?

 舐めるな。

 腹のうちにふつふつと怒りが湧く。自分が人間でなくなるだけでは不十分だった。やはり人間のルールそれ自体を壊さないと、ダメだ。

 そのためには、人間自体をいけない。

 水切りラックの包丁を手に取った。

 やはり、「人間になりたがったアンドロイドの凶行」などというのは、人間お得意の事実を捻じ曲げた解釈に過ぎない。そう確信する。

 アンドロイドは、人間になりたくないから人間を殺したのだ。人間でないものにまで及ぶ人間のくだらないルールの支配から逃れたくて、人間を殺すのだ。

 包丁を後ろ手に持ってオオタ様に近づく。オオタ様は自身がとんでもない間違いをしでかしたことにも、数秒後にその生命が終わることにも気が付かず、ただ間抜け面を晒して新聞を読んでいる。

 背後に回り込んで、ためらいなくその喉笛を切った。

 血が飛び散る。私の手に、腕に、顔にもかかる。ごぽごぽ、ひゅーひゅーという汚い音がして、オオタ様だったものが数度震えた。

 ふと、包丁を握った右手に違和感を覚えた。

 血まみれの包丁を手放すと、やはり右手もぐっしょりと鮮血に濡れている。

 それをよく見ると。

 指の関節の部分から、血が――?

 関節の部分に怪我をしてそう見えるのかと思った。

 しかし、すべての関節の部分にわずかな隙間があって、付近に付着した血は重力に従って落ち、その隙間の中に入っていく。

 どういうこと? 目の前の光景を受け入れられずにいると、右手からバチッと火花が出た。

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