敷島荘にて
nyone
ブラッキーだけオス
「あのね、昨日、大変な事に気付いたの」
彼女のもう片方の手には、私が以前貸し与えたゲームボーイカラーがあり、他に誰も居ないコンクリートの剥げた屋上に軽快な8ビット音を響かせていた。
「大変な事?」
「ポケモンリーグの四天王に、カリンさんっているじゃない」
「えーと、あくタイプの使い手の人だったっけ」
「そうそう。彼女のポケモンね、ブラッキーちゃんだけオスで……他の子みんなメスなのよ」
「えー、まじで? それ……まじで? エモぉー」
「でしょでしょ」
その日、伊織川温泉郷は晴れていた。
初夏ならではの強い陽射しが、燦々と川の水面を輝かせていて、上流の岩陰には、幾人かの釣人がいるのが見て取れた。
存外に暑くはなかった。川向こうに広がる竹林が擦れる都度、音はこちら側に涼やかな風を運んでいた。
こういう日、私は寝ぐらの部屋を出て、屋上の物干し場にタープを張り、そこを避暑地とするのが常だった。向かいの魚屋で摘みを買い、駐車場前の自販機でビールを買い、タープの陰で伊織川のせせらぎを聴きながら、本を読んだり書き物の仕事をしたりするのだった。
……そういう事を一ヶ月も続けていたところ、
「
「やらないなぁ……そもそも私、スマホ持ってないしね」
「そんな大人ってアリなの?」
「失礼な。敷島荘に来るまでは持ってたよ。今の仕事で使わないから、手放しただけで」
「変なの。スマホあればどこでもゲーム出来て退屈しないのに」
「それが嫌だから手放したんだよ……この感覚は、らぎちゃんに伝わるかどうか分かんないけど」
そう前置きして、私は、ドリンクホルダーに差し込んでいたサッポロの黒ラベルを一口飲んだ。
最近とみに暑くなり、ビールがすぐ温くなるのが悩みの種だったが、サーモスの保冷缶ホルダーを取り寄せてみたところ、この積年の悩みが一挙に解決した。こんな便利なアイテムをなぜもっと早く教えてくれなかったのか。義務教育の改善を求む。
「何か新しいスマホゲームを始める度にね、いつも考えてしまうんだ。『私はきっと、2~3ヶ月後には、このゲームをしてないんだろうな』って。そして実際、その通りになるんだよ」
「大人になって、ゲームが嫌いになったってこと?」
「そうじゃないよ。らぎちゃんが今やってるポケモンだって、僕は今でも凄く好きだよ。その頃のゲームと、今のスマホゲームとでは全然別だって事」
揺は手元の水筒からお茶を注いで一口飲んだ。また一本、私のルマンドが彼女の口に収まった。
「スマホゲームって、単純で分かりやすいんだよ。ステージがどこまで先に進んでも、脳みその全く同じ箇所を使っているような‥…兎に角、現代人の暇つぶしに特化したような有り様が、なんかすごく嫌だったんだ。特に『ギルド』のシステムは、マジで合わなかったなぁ」
「ギルド?」
「あるんだよ、そういう仕組みが。クエストに成功したらギルドポイントが貰えてね、それで、自分の所属するギルドを強化できるんだ。ギルドは、既にある所に入っても良いし、新しく自分で作っても良い」
「うん」
「有名ギルドは高レベルだから、所属するプレイヤーに与えられるステータスの恩恵も強くなる。でも、月になんぼのポイントを収めろみたいなノルマがあってさ、それをサボってたら、ギルドマスター権限でギルドをクビにされることもある訳。……それってなんか、サラリーマンみたいじゃん」
揺はゲームの手を止めて、首を傾げてこちらを見てきた。
「サラリーマンとゲームのギルドになんの関係があるの」
「私には、両方が同じに見えるよ。生殺与奪の権利は組織のトップにあって、あくまで自分はリソースを収めるだけっていう感じがさ。そんで、思ったわけ。なんで自由気儘な筈のゲームで、そんなリアルの人間社会の秩序を守らなくちゃいかんのか、って。そういうのがなんか煩わしく思っちゃってさ。スマホゲームには本気になれない訳」
「理屈っぽーい」
私のそんな独白を一蹴、揺は今度は、未開封だったポテチの封を勝手に開けた。
「そんな考えを抉らせて、文さんは会社を止めてこんなボロ宿に暮らす事になったのね」
「自分の実家をボロ宿呼ばわりするのは止めなよ」
「あー、オオタチに乗って東京行きたい」
「……遠いなぁ、絶対一日じゃ行けないよ」
「良いよ、夜になったらその辺でオオタチに包まって寝るから」
「あー、それ、良さげだね。辺なおっさんとかに気をつけてね」
そこで丁度ビールがなくなったので、私は駐車場の自販機に向かうべく椅子から立ち上がった。
「あ、文さん自販機行くの? ついでにサイコソーダ買ってきて」
「良い加減現実に戻ってきて、らぎちゃん……コーラで良いの?」
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