第4話

【徳永 秀一】(秀康の父 東都工業大学原子核物理学教授)

 何から話せばいいのか...

 はい。秀康は特殊な子でしたよ。極めてね。


 晩婚だった私たちにやっと授かった子でして、それはもうかわいがったものです、1歳くらいまではね。

 初めての子どもだったので、世間の子との違いがよく分からなかったのは事実ですが、普通の子は1歳になる少し前位に歩きだすと思うんです。というかそう聞いてました。でも秀康は3ヶ月くらいで既に歩いていましたし、6ヶ月になる頃にはすごい速さで走り回っていましたよ。オリンピックに0歳児の年齢別競技があったら、総ナメできたんじゃないでしょうか。


 運動神経だけでなく、頭脳の方もすごいことになっていましてね。

 3ヶ月くらいからテレビを観るようになったんです。ま、観るだけならすごくはないんでしょうけど、観る番組がね、ニュースからドキュメンタリー、ネイチャー関連といった、子どもなら毛嫌いしそうな番組を食い入るように観てまして、特に地球の自然や動物、宇宙に関する番組は大好きなようでした。

 これも6ヶ月くらいになると、どうも言葉の意味が解るようになっていたようで、それも日本語だけではなく、よく自然のドキュメンタリーでイギリスの放送局が制作したものとかあるじゃないですか、そこで話されている英語なども解ってるようでした。


 この頃までは、随分すごい子が生まれちゃったなぁくらいにしか思ってなかったんですが、秀康の成長は止まることを知らなかったんです。


 1歳になる頃には、普通に言葉をしゃべっていました。普通にですよ。赤ちゃん言葉とかじゃないんです。声は高めの声ですが、発音やしゃべる内容は大人と変わりませんでした。ハッキリ言って怖いですよ、赤ちゃんが「地球をキレイにするのが僕の使命なんです」なんて話すのは。あ、その頃秀康が口癖のように話していたんです、地球をキレイにって。


 その頃私は大学の准教授から教授になろうとしていまして、ある研究に没頭していました。というのは口実で、秀康のいる家にあまりいたくないという思いがあったのも事実です。

 なので、秀康の面倒はほとんど家内に任せていたんですが、秀康が2歳になろうとしていた頃です、家内が精神的に参ってしまいましてね。詳しいことはよく分からないんですが、どうも秀康に説教されてしまったらしいんです。親がいつかは息子と対等に話ができることを望んでるとは言え、2歳に満たない子に言い負けてしまうなんて、彼女の常識では耐えられなかったんでしょう。もちろんそんなことがあれば自分も耐えられそうにありません。


 それから家内は精神科に入院することになったんですが、秀康の面倒をどうしようかと悩みました。普通の保育園に預けても、数日で放り出される気がして。

 そんな悩みを大学の研究室の学生にポロッと打ち明けてしまったんです。

 そしたら、「研究室の皆で面倒をみましょうよ」という話になりましてね。

 いや、学生の柔軟性には恐れ入りましたよ、大人のように話す2歳児を目の前にして、普通に相対せるんですから。


 それから秀康は、我々の研究対象である原子核物理学に興味を持ち、学生たちと対等に議論をするようになりました。3歳になる頃には、論文などの専門書類や実験装置にも精通し、実験用のプログラムなどを自作するようになりました。もちろんワープロや表計算などお手の物です。

 既に学科生の誰よりも素粒子の性質を理解していたように思います。


 その頃私の研究室には学科生が8名、院生が3名おりまして、春には入れ替えで学科生の内3名が院に進み、院生が合計5名となり、学科生が新たに7名入ってきました。

 その中に葉月玲奈という女子学生がおりまして、優秀かつ容姿端麗というか、まあとてもかわいい娘でした。

 彼女が初めて研究室に来た時、秀康を見るなり、「かわいい!」と抱き上げようとしたところ、秀康に

「やめろ!」と怒鳴られ、一瞬ビックリしたようでしたが、すぐに「おお?君カッコいいネ!!」と叫んで抱き上げましてね。秀康はまた「やめろ!」と言ったんですが、拒否しきれず、実はまんざらでもなかったようでした。


 それから二人は毎日のように議論を闘わせるようになりまして、既に論文を書くようになっていた秀康を相手に、葉月も負けじと持論を展開していました。見た目は年の離れた兄弟のケンカみたいでしたが、話している内容は超高度な話でしたよ。この葉月という子がまた、どこでそんな知識を身に着けてきたのか、秀康の言っていることを即座に理解して、新たな理論を展開してくる様は、私でさえも付いて行けない瞬発力で、秀康も楽しくてしょうがないという様子でした。そして、二人の全力の対峙による相乗効果で、今まで不可能だと思われていたことが実現可能なのではという話になってきたんです。


 それが常温核融合反応です。

 常温核融合反応はその名の通り、一億Kを超える超高温で起きる核融合を地球上の常識的な温度、圧力下で行うというものです。それまでは物凄い力で弾きあう原子核同士を、それを封じ込める程の圧力と超高温による大きな運動量でむりやり核融合させることしかできなかったものを、ゆっくりやさしく融合させようというもので、言うは易く行うは難しというものでした。


 二人は理論構築と実験を進め、水素分子から原子核を取り出し、常温で核融合を行う装置を作り上げたんです。ま、核融合と言ってもすぐさま大きなエネルギーが発生するという程のものではなくて、反応した証拠に少しだけガンマ線が放射されるというものでしたが、今まで不可能だと思われていた常温核融合が実際に起きたことは物凄いことでした。


 ただ、この発明が世の中に出ることはありませんでした。

 その直後に事故が起きてしまったんです。

 最初は誰も事故だとは気づかなかったんですが、実験の後に葉月が倒れたんです。

 原因は中枢神経麻痺による脳障害でした。恐らく実験中に発生したガンマ線による被曝ではないかと見られています。ただ、その後の検証実験では実験装置から神経麻痺を起こすほどの線量は観測されませんでした。

 結局葉月は意識不明のまま、今も眠り続けています。


 この事故による秀康のショックは計り知れないものがあり、それから10年近く自閉症になってしまいました。

 ほとんど家から出ずに、自分の部屋でぶつぶつと喋っていたり、PCに向き合って一心不乱にプログラムを走らせたりしていました。それから色々な装置を作っていました。何を作っているのかはよく解りませんでしたが。

 10年が過ぎる頃、正直、もうこの子はダメだとあきらめていました。


 そして、秀康が14歳になった頃、彼の口から懐かしいセリフを聞いたんです。

「地球をキレイにすっことが俺っちの使命だす!」

 なぜかちょっと訛っていましたが...


 それ以来秀康は人が変わったように明るくなりました。

 その頃秀康は高校を受験する歳でしたが、小学校にも中学校にも行っておらず、運動もしていなかったので、異様に痩せていましたから、どうやって世間に戻ればいいのかと悩みました。


 しかし、秀康はものすごい早さで年齢相応への順応を見せ、体力トレーニングも精力的にこなすことで、すぐに同い歳の子どもに見劣りをしない体格になることができました。

 そういう意味では、小さい頃から天才と言っても言い過ぎではない子でしたから。


 できれば高校受験をさせたいと思いましたが、さすがに小学校も中学校も卒業していないようでは受験する資格はないと思っていました。

 しかし、何をどうしたのか分かりませんが、秀康は都立高校の受験票を手に入れてきたのです。

 多分、秀康が裏で手を回したんだと思います。それくらいは秀康には容易いことでしょうから。

 でも私は彼を責める気にはなりませんでした。親としてはちょっとまずいんでしょうけど。

 秀康の目指す場所に最短で向かって欲しいと思ったんです。大げさに聞こえるかもしれませんが、彼の力はきっと人類のために役立つと思うんです。


 ただ、自分の母親と葉月のことをすっかり忘れてしまっているようなのが、残念というか心配なんですがね。

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