第17話 きらきら星狂想曲
目線の先から微かに歌が聞こえる。その歌声に近づく。物音を立てないように、ゆっくり、ゆっくりと確実に進んで行く。少しずつ人影の輪郭が捉えられる距離に来た。くるり。こちらを振り返る。僕に気付いたのか、それはその場を離れようとした。また逃げられてしまう。
「春田さん!」
思っていたより大きな声が出た。それは暗闇に吸収される。顔は見えないけれど、あれは絶対そうだ。もう逃しちゃいけない。状況が理解できないのか、影は動く様子がない。今しかない。僕は走って、その手を掴んだ。
「春田さんですよね?」
顔を上げる。影になってはっきりとはわからないが、少しずつ表情が読み取れる。驚いたようにこちらを見つめていた。
「この前もその歌、ここで歌っていましたよね?」
春田さんの手を掴んだまま、もう片方の手でカバンから写真集を取り出した。急いでページをめくり、彼女の前に差し出す。
きらきら星狂想曲。この歌だ。
「君は確か、雫くんよね?どうしてここにいるの?」
僕の問に答えることなく、首を傾げて尋ねる。お返しとばかりに僕もその質問に答えなかった。諦めたように呟く。
「そうよ。よくわかったわね」
もう一度カバンを漁る。写真集の上に広げて、部屋から持ってきたあの写真を見せる。写真集の写真と同じ場所で撮られたような写真が並べられる。そして薄汚れてしわくちゃになった写真が。それはさっき開いたページと似ているようだった。
「どうしてそれを?」それぞれを見比べ、本当に驚いたようだった。
「僕にもこれが何だかよくわかりません。でもこれが僕に残された道なんです」
真波の正体、涙のわけ、そして僕自身が誰なのか、その鍵はこれしかない。それだけが今の僕がわかっていることだ。彼女は訳がわからないと言った表情を浮かべる。それもそうだ。いきなり声を掛けるなんて。写真集を持つ手が震えてきた。視線を上げられない。
「とりあえず一旦落ち着きましょう」彼女が優しく言った。恐る恐る顔を見ると、微笑み返してくれた。
「よくわかんないけど、その本について少し教えてあげるわ」僕の手から本を受け取った。
「この本を作ったのは私の大事な人だったの」
彼女は本を持って扉の方に歩き出す。表紙を上に向けたまま、扉の近くの電球を付ける。ジジっと音がして、彼女が輝く。それが彼女に影を落とし、悲しく、妖艶に魅せる。
「彼はね、世界中の夜空の写真を撮っていた写真家なのよ。亡くなってこの世を去った人は星になる。そして私達を見守っているんだって。そう信じていたわ。私達が迷わないよう輝き、上を向かせてくれるのよ。でもその人達は自分の輝きを見ることができないから、写真に撮って写すの。それが届くように。私達が上を向いて生きている証のために」
パチン。電気を消す。また緑色の光が浮かびあがる。
「だからElegy」僕の目の前に文字が出された。
「意味は知ってる?」
「ラテン語で哀歌、晩歌。悲しい歌ってことですよね」確か辞書にはそうあった。
「うーん。この場合は鎮魂歌の方が正しいかな」
「鎮魂歌ですか?」
聞いたことはある気がする。ミサとかキリスト教の中で歌われるようなものだよな。魂を鎮めるための歌なのか。
「亡くなった人の安息を願い、彼らに捧げる歌のことよ。この星空を捧げよう。魂の死だけでなく、心の死も全てにおいて。彼らに捧げよう。そしてまた上を向いて歩めるように。一度立ち止まってもいいから。誰かの背を押し、一歩進むキッカケになって欲しい。あなたは一人じゃないんだって。それが彼の願いだったの」また歩き出す。今度は手すりの方に。風が彼女の髪を揺らす。
「まあそれも叶う前に死んだんだけどね」髪を耳にかけて笑う。
「何があったんですか?」
「その写真集を作って、印刷所に出した後また写真を撮りに行ったのよ。今しか撮れないものがあるんだって。それでその帰りの飛行機事故に遭って、彼も星になったわ」
「春田さんはその人と付き合っていたんですか?」
「さあ、今となってはわからないわ。ただ隣に居ただけよ。そんな大事なことを話すことなんてなかったの」僕の手に写真集を載せる。手すりに両手をついて、空を仰ぐ。春田さんにとって大事な人だと言っていた。悲しいことのはずなのに、どうしてこんなにも明るく言うのか。背筋が伸びた後ろ姿がとても綺麗だ。
「悲しくはないんですか?」
「最初はそう思っていたけどね。何度も後を追って死のうかとも思ったわ。それでも出来なかった。まあ今はそうでもなくなったけど。死にたくないとかじゃなくて、ただ無なのよ。あっちに行きたいけど、行く術がないの。だからそのキッカケを探している。看護師になったのもそれが理由よ。死の近くにいたら何か変わるかもしれない。ここなら星に一番近いから」両手を空に伸ばす。一つの輝きを両手で包み込む。振り返り一歩。僕の目の前に立つ。
「さあ、これで私の話は終わり。ここまで話せばもう充分でしょ。君の道を開くことはできたのかしら?次は君の番よ」
あの歌が頭の中に流れた。いや、彼女が歌っているのかもしれない。またもや脳が警鐘を鳴らす。写真集がドサッと音を立てる。両手で頭を抱え込む。右腕を誰かに掴まれた。
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