第15話 トリガーを引く

 ソファに座ったまま辺りを見渡す。見渡すというよりもただぼうっとしていた。遠くに母の姿が見えた。先生と話し終わったのか待合室の辺りで僕を探している。声をかけようとしたがやめた。身体が動かせなかった。そのまま座り続ける僕に気付いたのか、こちらに寄ってきた。

「ここにいたのね。こんなところにいて、もう体調は大丈夫そう?」細い腕が僕の背中を支える。

そのまま母の肩を借りて立ち上がる。先生方にお礼を言って病院を後にした。あまり無理をしないでね。帰りがけにそう言われた。その言葉に反応することなく、タクシーに乗り込む。気づけば僕は自分の部屋の中にいた。外が橙に染まる。僕の心は梨奈さんの言葉に支配されていた。


 あれから何日経ったのだろうか。ただただ時は進む。それを淡々と過ごしていた。気付けば僕は家に一人。父は仕事に、母は用事があるとどこかに行ってしまった。ダイニングには小さなメモとラップの掛かったお皿が並べられている。お腹が空いたら温めて食べてね。手書きで書かれた文字。それだけで空っぽだった心にほんの少しの温かさが生まれた。お腹に手を当てる。いつ食べたのか、朝ごはんがまだ胃に残っている。まだお腹は空いていない。

 ダイニングを抜けて、廊下を進む。僕はいま扉の前に立つ。あの日以来、立ち入ることのなかったピアノの部屋に。僕はこの扉を開けなくてはならない。そう思った。

扉に両手を掛ける。扉の奥で何かに押し返される。それでも力を込め、重い重い扉を慎重に開けた。開かれた途端、ぶわっと風が僕を包み込む。そこに足を踏み入れた。

ピアノに右手を着き、部屋を見渡す。棚の横にある窓から庭が目に入る。木や花で彩られた庭。細部まで手入れがされたこの庭。レンガ道のアーチの一箇所だけ色が違う。土が一度掘り返されたようだ。その上には薔薇の花が舞い落ちていた。


 僕がやるべきこと。窓の外に影が見えた。あの物置の影だ。部屋を出て、リビングに向かう。窓を開けて開けて裸足のまま外に出た。日差しが照り返し、地面が熱くなっている。そんなものを気にすることなく、物置に駆け寄る。そこだけ空気が淀んでいるようだ。扉に手を掛け、思いっ切り引く。

酷い臭いが一気に溢れ出す。暑さと混じり合い余計に酷さが増す。思わず顔を背ける。

「うぇっ」

朝食べたパンが胃から出てくる。それでも僕の中から溢れ出たものは止まることがない。遂には胃が空っぽになったのか、胃酸のようなものまで飛び出す。もう何も出てこない。それでもこの気持ち悪い感じが治らない。中を全て吐き切った。咽せながらもゆっくり深呼吸をする。酸っぱさが口いっぱいに広がるが、それでもさっきよりはマシだ。

 

大分落ち着き、倉庫の中を見る。まるで誰かが生活していたようだ。床にはボロボロのタオルが敷かれていた。奥には段ボールが机のように置かれている。その上に数冊の本やノート、ペンも置かれていた。横には数えられる程度の洋服がしっかりと畳んで置かれている。少し大きなスーパーの袋にはペットボトルや紙くずが入っている。ゴミ箱の代わりだろうか。全体的に酷く汚れているが細部まで手入れがされており、生活感が漂う。よく見ると机の上にから何枚かの紙が見える。なるべく物に触らないよう、一枚だけ指先でそっと掴む。中が暗くてよくわからない。倉庫から出て、太陽の下でもう一度見る。それは満天の星空の写真だった。

 熱い、熱い。右手が焼けるように熱い。頭もガンガンと鐘のように叩かれる。脳が警報を鳴らしているようだ。あまりの痛さに立つのさえままならなくなってきた。しゃがみ込み頭を押さえる。右手もどんどん熱くなる。この痛みは何だ。


 この先を僕は知ってはいけない。僕の脳が、右手が、血が、全てがそれを阻止しようとする。

母の笑顔が脳裏に浮かんだ。三人で楽しく食卓を囲む姿が。僕を愛おしそうに見つめる瞳が。ほんの僅かな間だったが、幸せだった瞬間が一気に駆け巡る。梨奈さんの言葉を思い出した。僕の記憶のトリガー。このトリガーを引けば、もうあの情景に戻れないかもしれない。瞬間的にそれを悟った。目の前は真っ暗になる。そこから出ようとすると、光が僕の右手を強く後ろに引く。


 それでも僕はこのトリガーを引こう。例え、この世界が変わってしまっても。僕はこの道を歩むんだ。右手を振り切って、大きく足を踏み出す。この暗闇から抜けられるように。そう願って。


 気づけば僕は物置の前でしゃがみ込んだままだった。一枚の写真をぎゅっと握りしめて。暗闇の中を照らすように輝く星空を。星空はぼやけ、滲んでいく。

「真波……」

君はもうこの世界にいないんだね。僕を呼んではくれないんだね。僕に向かって笑い掛けてくれることも。

 

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