第2話 勝ち組女子の困惑



 翌朝は、床の振動で目が覚めた。

 誰かが襖で区切られた向こうの廊下を乱暴に歩いている。

 そんなことをぼんやりと考えて、玄関の扉の閉まる音で飛び起きた。


「ふすま!?」


 遥が叫んだのは、家に襖なんて存在しないと思い出したからだった。


 洋室のみの、二階建て。

 採光をよく考えられた家はどこも太陽の柔らかな光が行き届く。

 綺麗好きな専業主婦の母と、通いのお手伝いさんの尽力により、いつだって家の中は清潔に保たれていた。


 遥の部屋は日当たりもいい。朝は爽やかな光がカーテンから差し込んで、自然に目が覚めるからアラームの必要性をあまり感じたことがない程だ。


 ――こんなかび臭い匂いとも、薄暗さとも無縁だった。

 枕元においてあった古臭いデジタル時計の緑の表示を見ればすでにいつもの登校時間を過ぎている。


「うそでしょ!?」


 こんな寝坊は初めてだ。

 むしろなぜ朝なのに暗いのか。目が覚めなかったのは十中八九そのせいだ。

 ――正解は日が差し込まない立地だからである。


 遥は慌てて身を起こそうとして、いつもと違う感覚、――つまり体の重さに驚いた。

 はっと自分の手を視界に入れて、脂肪でむちむちのソレに息を飲む。


 夢のはずではなかったのか!

 ……という驚愕の前に、現実問題に思わず悪態をついた。


「起き上がるのが一苦労とか、どうなってるのよ!」


 生活に難があり過ぎる。

 どうやってこの体で日常生活を送ってきたのか、遥は心底疑問に思った。


「いや、待て待て」


 つい文句を言ってから、はっとして自分を窘める。

 この不可思議な現象が昨日の出来事から続いている事象だとするなら、これは自分ではない『誰かの体』かもしれない。安易な人の悪口はいけないことだ。


 文句を自主撤回した遥は昨日の記憶をたどってどすどすと洗面所に向かった。

 普通に歩いているつもりだったが、残念ながら体重は経験に勝る。新たな所作を身につけるべきだった。


 幸いなことに一晩あれば『冷静さ』も家出から帰ってきたようで、玄関先で恐る恐る家をのぞき込んでいる気配がする。我が物顔で居座ってくれて全然構わないのだけど、さすがにそこまで望むのは酷というもの。


 ごくりと喉を鳴らして遥は洗面台の鏡を見た。

 まじまじと見て、やっぱり見つめ直す。

 仕切り直しとばかりに何度か。……何度も。

 目を瞬いても、擦っても、頬を叩いても、鏡に呪文を唱えても、結局望んだものは最後まで鏡に映ることはなかった。


 現実に向き合うときが来たらしい。

 遥は深呼吸を繰り返す。


 開いた目を、今度は逸らさず、まっすぐに。


 やはり昨日見たままの姿がでんと鏡に居座っている。


 端的に言えば、べとついた長い黒髪と手入れのされていない眉毛が目立つ、目つきの悪いニキビ面のデブ女がそこにいた。


 目はそこそこ大きいようだったが、目尻は上向き。本来は少々きつめの顔立ちなのだろう。それすらよく見なければわからないのは、顔の肉に押しやられて目がほとんど糸だからだ。

 不健康そうな体のわりに肌は白くはないから、地黒なのかもしれない。彫りの深さもあって痩せればエキゾチックな魅力が出そうだ。

 清楚系よりはギャル系、パステルカラーよりははっきりとした色合いの服が似合いそうな顔立ち。

 と長所を見つけることに長けた遥は評した。


 その遥でさえ、「……あくまで体形が許容範囲であればの話だけど」と付け加えなければならないところで、現実はお察しだ。


 ――本当に、なにもかも自分とは正反対。


 遥はがっくりと膝を折る。


「夢じゃなかった」


 頭の中が「どうして」と「どうする」で埋め尽くされる。

 が、打ちひしがれているだけではいっかな状況は改善されない。


 ひとまず「どうして」を置いて、「どうする」かを考えなくてはいけないとキリリと顔を引き締める。


 そもそも遥はこの体のことを何一つ把握していないのだ。

 学校なんてどこに行っているかもしらないし、家族構成も、普段どんな生活だったのかもさっぱり。

 こうして家という生活基盤があるならば、それは今まで確かに存在していた「誰か」であるはず。『無』から突如作られた存在、なんてことはないだろう。


「ん? まって、……うそかも」

 自分の結論に思わずそう呟く。

 遥の口にした「嘘」の部分は「この体のことを何一つ把握していない」を指していた。


 すなわち、

「知ってるかもしれない!」


 少なくとも、断片的に遥は思い出した。


「なにか、言ってたような……」


 頭痛を起こしそうな勢いで働く脳内の記憶回路が、昨日は聞き流していた(噛み砕けなかった)言葉を拾い上げて必死に再生をはじめる。


 そう、それはあの子の声。

 自分の。

 遥の予想でいくなら、入れ替わってしまったこの体の本当の持ち主。


「確か、名前は……鈴代すずしろ冬子とうこ?」


 そんなことを言っていたような。

 奥ゆかしい響きと、美しい字面の、とてもいい名前だなと感想を抱いた覚えがある。


 遥と同じ、高校二年。

 学校は電車で通う公立高校。


 私立高校に通っていた遥と知り合うわけもなく、だがその通学路は遥が普段使っている路線と数駅間だが重なっていた。


 あの沿線は学校が多い。他にもいくつかの学校の生徒たちの通学路と混じり、ある程度ばらける帰りと違って、朝は学生でごった返すのが常だった。もしかしたら通学途中にすれ違っていた可能性は大いにある。


 とはいえ、冬子は学校にはあまり行っていなかったようだ。

 その理由を「サボりがち」という一言で片づけていたのを思い出す。

 遥からすれば学校に行かないなんて一大事。考え方の違いにショックを受けたので記憶に鮮明だった。


 家族は母と弟。

 顔を合わせるどころか、話をすることも稀だとか言っていたような気もする。


 なんでいまそんな話を? と、疑問符だらけだった昨日の自分。

 滔々と垂れ流される情報公開は遥が彼女に連れられて、このボロアパートで別れるまで途切れることなく続いた。


 突然見ず知らずの人物のプロフィールを聞かされたら、誰だって「は?」とも「え?」とも言いたくなる。


 とりあえず、いま自分にできることは現状把握だけだと割り切った遥は悪いと思いつつ家の中を物色した。

 が、こういう時に頼りになる日記帳アイテムはセオリーに乗っ取って出てきてくれたりはしなかった。


 肩を落としたところで、プラン変更を心に決める。


「収穫ゼロ。……となると、行くしかないか」


 頼れるのは結局はじめから一つ。


 やっと結論付けて遥は身支度を整え、

 ……整えようとして、――最終的に半日を費やした。


 せめて外に出る前に風呂だけでも入ろうとしたが、全自動ではない風呂の使い方がさっぱりわからず。

 検索しようにも家にパソコンはないし、手元にあったスマホの機種も違う。しかもほぼ初期状態というのも手間取った原因だ。(むしろ使えてよかった。ロックが暗証番号だったら最悪だった)


 さらに、棚という棚をあけて清潔なタオルを探すのにも時間がかかったし、ドライヤーはついぞ見つかりもしなかった。


 腹が減っては戦は出来ぬというが、冷蔵庫の中はなにもない。

 かわりにあるのは山と積まれた出来合い弁当のプラスチックトレーゴミとペットボトル。それから収集が趣味かと問いたくなる空のビール缶の数々。

 一応、大人が住んでいるらしいことは確認できたということで良しとする。


 自分の部屋(らしき場所)にはかろうじて食料品があったが、その明細はインスタント食品とスナック菓子のみという偏りぶりだ。

 もしかして体の主の主食はコレだったりするのだろうか。


 無理だ。遥にはそんな生活は耐えられそうにない。

 視界情報によりそもそもの食欲がごっそりと減退したことで、遥は目前の空腹を幸いにも諦めることができた。


 外出のために探した押し入れの中の服はなぜか黒と紺と灰色と茶色のみで構成されていて、上から下までだぶだぶの大きめサイズ。

 しまわれていない服も部屋の隅で山となっていたが「まさか使用済みでは?」という怖い想像が頭に浮かんで手に取る気にはなれなかった。

 あまりの状況に目眩がしたが、「下着と靴下はなかった」と呪文のように言い聞かせることでなんとか自分を保つ。


 遥は段々と自分の許容範囲とハードルが下がっていくのを感じていた。

 早々に退去しなければ慣れてしまう気がして、自分の適応能力の高さより拒否反応で恐々とした気分になる。


 最終的に万能服である制服があるじゃないかと名案が閃いたが、昨日着ていた分は着替えもせずに寝たせいで着れたものではない。

 昨日一番の失敗だと凹んだが、記憶を振り返ってみれば落とし物の声をかけた時、すでに制服はだいぶアレだったような……?


 発掘された二着目の制服は服の山の中。着る気がなかったのが一目瞭然。

 そして遥も着る気にはなれない。


「もう! ……もー!!!」


 癇癪を起したくなった遥を責められる者はいないだろう。

 それでもどうにかこうにか使えるものをかき集め、出かけた時にはそろそろ夕刻と言って差し支えない時間になっていた。




 慌てて向かったのは、――もちろん自分の家だった。




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