セックスした帰り道に、君と会う
詩一
第1話 浮気する紳士がどこに居るのかな。
部長とセックスしたラブホテルからの帰り道。お腹が空いた私はチェーンの牛丼屋に入って大盛りを頼んだ。
店内の時計を見るとちょうど5時を過ぎたところ。部長は無事に始発で家に帰れたのだろうか。奥さんに見つからないで家に入れればいいんだけど。まあでも、そんなことはどうでもいい。どうでもいいのだ。彼が怒られようと殺されようと。そんなことは知ったことじゃあない。ただ私がやらかしちゃった仕事でのデカいミスをどうにかこうにかなかったことにしてさえくれれば、他のことはどうでもいいのだ。部長の生き死になんて、
パヤッとした肉と玉ねぎが湯気を立てて鼻孔をくすぐる。メガネが曇る。気にせず目の前の茶色を箸でロックオンする。チェーン店の牛丼は、そこまでジューシーではない、どっちかって言うとパサッとした触感だけど、ちょっとくらいのツヤはある。だから、パヤッとしていると私は思う。
そのパヤッパヤの牛丼をどかどかと掻き込む。セックス明けの
途中、肉の方が少なくなってきたので紅ショウガをドサリとのっけて食べ
会計を済ませて自動ドアを抜けると、朝の湿り気を帯びた空気が包んだ。それは
世界はこんなに色付いているのにな。
私の心は夜に置いてきぼりだ。明けない夜はない? そうかもね。世界はそうかも。でも世界と一緒に回らない私は、ずっとこの色付いた朝を迎えられないでいる。
メガネを外して胸ポケットにしまった。
このボケた世界なら多少はマシに歩いて行けるように思う。
コンビニの前を通り過ぎたとき、キキッと急停車の音を聞いた。
「どうしたんすか? 早いっすね?」
聞き慣れた声だった。振り返ると、白のパーカーをタルッと被った青年が立っていた。どうやらさっきの音は錆付いたブレーキものだったようだ。
彼には昔小説の書き方を教えた。と言うか、元々は家庭教師として雇われていたのに、なんだかわからないうちに小説の話になり、流れで自分語りをしてしまって、挙句小説の書き方を教えるという無茶苦茶なことをやったのだ。テストも近いと言うのに。今考えても無茶苦茶だ。
それにしてもあれからもう4年かぁ。高校に入学しても卒業しても、彼はずっと変わらないままだ。普通少年から青年に成ったら著しい変化がありそうなものなのに。いや、でも彼が変わってないのは私のせいというところがある。中学のときに無理矢理変えてしまったから、そのときに変わるべきところはすべて変わってしまって、だから変化後の彼は変わらないままに今を生きていると言うのが正しい。
彼は人に話をさせる才能があるように思えた。私が家庭教師になったのは彼がまだ中学3年生の頃だったと言うのに、謎の包容力のせいで、私は愚痴を吐露していることしばしばだった。
当時は私もまだ会社に勤め始めたばかりで、給料は安いのにこき使われて毎日毎日ストレスが溜まっていた。せめて副業でお金を稼ごうと頑張ったのだけれど、それがいけなかった。ストレスの上にストレスを上乗せするような行為なんだから。もちろん彼はとってもいい子だったので、彼がストレスになっていたわけではない。時間に遅れないようにする、他人の家で気を遣う、帰る時間が遅くなる、夕ご飯のタイミングが早すぎるか遅すぎるかしてしまう。そういう、家庭教師をやるにあたって当然起こり得るだろうストレスが当時の私には思いのほか重く溜まりやすく、そして発散し難いものだったのだ。
だから——と言うのはとても申し訳のない言い方だけれど、私は彼に八つ当たりをした。「もっと詳しく教えてほしいっす」と、生徒として当たり前のことを言っただけなのに、「バカじゃないの?」とガチトーンで言ってしまったのだ。
言ってから自分がとんでもないことを口走ったことに気付いたが、吐いた言葉を戻すことは出来ない。
多分私は物凄く
「大変なんっすね。大人って」
と、不安げに寄せた眉をそのまま巻き添えにして笑顔を作ったのだ。
就職してから、一度も労われたことがなかった。ミスしたら怒られて、出来たら当然と言われて。理解も共感もないままに、ジュクジュクとした毎日を繰り返していた。だから彼に受け入れられて、涙が止まらなくなった。
「
上ずった声が出ただけで、謝罪の言葉は涙に押し戻されてしまう。すると彼はボックスティッシュを目の前に置いて、「トイレっす」と言って立ち去った。私は、彼が扉を閉めてから声を押し殺して泣いた。多分会社で流すべき涙を、すべてそこで流し尽くした。
それからだ。私が彼の前で会社での愚痴を言うようになったのは。彼の優しさに甘えて、受験生で大変なのは彼の方なのに、私は私の大変さをわかってもらおうと必死だった。
それでも彼は、ずっと私の愚痴を聞いてくれた。彼の「大変っすね」と言う言葉だけで、私の一日は報われた。
ある日彼の部屋に入ったとき、買ってきた本に興味を示された。好きな作家が久しぶりに新作を書いたので、駅の本屋が閉まる前に買ってから来たのだ。
「小説、好きなんっすか?」
「そうね。とても」
「俺も書いたりしたんっすけど」
「本当に!? 見せて!」
「あ、いや、全然上手くできなくて。途中で話が散らかっちゃうんすよね」
「そういうときはね」
実は私は昔小説家を目指していた。大学に入ったのもそれが理由だ。まあそうは言っても文系じゃなくて就職のことを考えた理系に入ったんだけど。この辺、覚悟が薄いよねって自分でも思う。それでも大学の四年間で小説の知識を培った私は、作法はそれなりに心得ていた。彼の頭の中に在る世界を、最後まで描かせてあげたい。その思いで、彼には小説の書き方も教えた。それと、本をいくつか渡した。
「いいんすか?」
「もう読まないから」
一応「受験が終わってからにしなさいよ」と釘は刺しておいた。
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