198話 皇女として

 宮廷にあがったばかりなのにもう疲労困憊だ。皇女に向けて意気込んでいた気持ちはどこかへ行ってしまって、魂が抜けたみたいに成り果てた私を待っていたジェフは困惑状態だ。どうやら執政館の入り口付近で待っていてくれたので、すぐさま寄ってきたのである。


「中で待っててくれてよかったのに」

「護衛が主を差し置き座っていてなんになります。それよりもリューベック殿となにがありましたか」

「うん……。それは、帰ってからね……」


 ここはヴィルヘルミナ皇女の陣地だから、あの話をするのは控えたい。なによりリューベックさんとの対峙を改めて口にするには多大な労力を必要としていたのである。

 再び内部を訪ねると、すでに待機していた書記官が待合室へと案内してくれた。彼らにしても客人を待たせるのは本意ではないらしく、お茶のみならず軽食まで用意してくれたのである。皇女はいつ戻るかわからないようで、しばらく待ってみて帰ってこないようなら後日優先的に日程を調節してくれるそうだ。

 手持ち無沙汰だったので書記官に話を聞いてみたのだが、この人は皇女の執政館付きの文官なのだそう。兄さんと同い年か少し下くらいだが、兄さんには好意的な感情を抱いているようで、にこやかに対応してくれたのである。


「キルステン卿には私たちのような世代や若い方が助けられています。皇女殿下はもちろん、皆さまから好かれていらっしゃいますよ」

「ありがとうございます。最近あまり顔を合わせていないのですが、無理はしておりませんか」

「私共にはわからない気苦労がおありとは存じますが、殿下はもちろんバイヤール伯がいらっしゃいますから心配には及ばないのではないでしょうか」


 そこでちょっと雑談に入ったのだが、やはり第二秘書のバイヤール伯は近しい人にも人気のようだ。対して右腕として知られるヘルムート候の話題になると、書記官はそれとない世辞で話を濁すばかりである。

 ライナルトの所もモーリッツさんの心証は良くない噂が多いからなんとも言えないのだけど、やはり片腕的存在と呼ばれる人物は一癖も二癖もあるのだろう。

 詳しい情報は得られなかったので、あとはお茶を飲んで心を落ち着けて三十分は待っただろうか。後日調整してもらう方向で進めようとした最中で皇女が戻ってきたのである。

 それからさらにもうしばらく待っただろうか。男装の麗人が入室してくると、挨拶するより早く片手を振った。


「堅苦しい挨拶は不要だ。待たせてすまなかったね」

「いいえ、陛下のお呼び立てとあらば仕方がないでしょう。ところで兄の姿が見えませんが、いまはどこに?」

「急用が入って向かってもらったんだ。本当は同席させたかったのだけれど、他に空いている人間がいなくてね。アルノーがいた方がよかったかな」

「いいえ、お話をお伺いしたかったのは皇女殿下ですから、兄がおらずとも問題はございません。……久しぶりに顔を見ておきたかったという思いはありますけれども、会える機会はいくらでもございます」

「だとしたら悪いことをしたね。……いずれ従者ともども話ができる機会があるだろうさ。ああ、ところでこれがバーレご当主のお勧め?」

「はい、お気に召していただけるかはわかりませんが」

「妙な味だが奥ゆかしさはある。悪くはないが、アルノーは好きではなさそうだ」

「おわかりになるのですね」

「君ほどではないだろうが、いくらか好みは覚えたのでね」

「いいえ、いまではきっと殿下の方が詳しいでしょう」


 流石に今日は手ぶらではない。土産に持参したのはバーレ家のイェルハルド老が愛飲の茶葉である。以前ご馳走すると言ったので持っていったのであった。

 さて、このとき皇女の表情はほんの一瞬だけ、わずかながらに陰りが生じていた。いつになく深刻な面差しはどこかライナルトと似通っており、彼女が思いを馳せる理由が気になったけれども、すぐに態度を取り繕っていたから聞くだけ無駄そうだ。しばらくは兄さんの話を中心に雑談を興じていたが、ふと思い出したように訊いてきた。


「書記から聞いたが、リューベックが居合わせたそうだね。あれに付き合わされたようだが、大事なかっただろうか」

「い、いいえ。特になにかされたというわけでは……」


 ここで判明したのは、ヴィルヘルミナ皇女がリューベックさんに対し強い嫌悪感を抱いていたことだろう。存在が疎ましいとでも言いたげに、明らかに私の身を案じていた。

 

「そうか? ……あの男にしては随分悠長に構えていると思っているのだがね」

「……その様子ではなにかご存知なのですか」


 私の態度で気付いたのだろう。木の実を一口摘まむと溜息交じりに告げたのである。


「君が知っている以上のものはないと思うが、リューベックがコンラートに本格的に婚姻を申し入れるというくらいかな。その様子では図星だったみたいだけれど」

「……そうですね、その話をされました」

「人間としてはおすすめできないが、帝国でそれなりの地位を築きたければ選択肢のひとつにはなり得るだろう。……よく考えることだね」


 リューベックさんに関しては答えは決まっているのだけど、皇女は私が悩んでいると思っているようだ。ただ、と続ける彼女は意味深に見つめていった。


「私としてはリューベックは当然として、ライナルトだってお勧めできる男ではないよ」

「こふっ」


 飲みかけのお茶でむせた。

 この時のヴィルヘルミナ皇女は公人としてより一人の女性として向かい合っていたのではないかと思う。長い足を組むと、背もたれに肘を乗せて意地悪く笑っていた。


「血の繋がった者としていわせてもらうと、あいつだって相当な男だよ。私だったら血縁でなくたってまず選びたくない対象なのだけれど、選択肢がなかったとはいえ付き合いをやめる気はないのかな」

「な、なな……」

「あれはまともではないし、もっといえば悪い男だよ。人並みの幸せを望むのなら、まず選ぶべきではない人間だ。あいつの周りは否定するけれど、気がおかしい点においては皇帝と似通っている。恋人関係もまともに継続できるようなやつでは……」


 その時のヴィルヘルミナ皇女の表情はなんとも説明し難い。苦笑交じりのいままで私が知っている「ヴィルヘルミナ皇女」とはまるでかけ離れた姿であり、おかしなことに私の身を案じている様子でもあった。

 た、ただ彼女の心配は一つ的外れなところがあって……!


「あ。あのヴィルヘルミナ皇女殿下っ」

「ああ、すまないね。他人様の関係に口を出すのも野暮だとはわかっている。こんなことを言われては逆効果かもしれないが……」

「そうではなくて、あの、私とライナルト様はご心配されているような関係ではございません」


 きょとん、と目を丸めた皇女の姿はそれこそ見物だったかもしれない。私に余裕があれば楽しく鑑賞できたのだろうが、生憎このときは変な汗がどばどばと流れ、他人からみた私たちの関係がなんとも奇妙なことになっていると実感せざるを得なかったのである。

 ヴィルヘルミナ皇女は安易に否定したりしなかった。私の表情で悟ってくれたのか、疑問顔で天井を仰いだのである。


「……勘違い失敬した。ライナルトは君と親しいようだし、ついそういった関係かと」

「い、いいえ……。よくしていただいていますから、そういった誤解もあるのではないかと……はい」


 なにがはいなのかは自分でもわからないが、とにかく否定はした。実際皇女が考えるような関係ではないからね。


「しかしライナルトがコンラート……君を格別に重用しているのは確かだ。そういった目で見られていてもおかしな話ではないから、誤解だというのなら気をつけた方がいい。いまはうまく守っているようだけど、あれで皇太子の隣を望む人間は多いから」

「ご忠告感謝します。……皇女殿下は私の身を案じてくださるのですね」

「……アルノーの妹だからね。私とて恋人の身内が不幸になって喜ぶ人間ではないさ」


 ご本人の口から恋人なんて台詞が出ると、事実を目の当たりにさせられた気分だ。


「殿下は兄がお好きでいらっしゃる」

「ああ、最初は侍従のように小煩い男だと思ってたんだが、あれで芯が強い」

「……はじまりの形はあまりよろしくはなかったようですが」


 試す物言いになったが、皇女は肩をすくめるだけだった。


「そう言われるのは覚悟していたさ。確かに出会いは仕組んだ。彼はファルクラムの次期総督の叔父にあたる。もう一人の妹も、辺境に嫁いだ末の妹君とは仲が拗れたようだからね」

「……過ぎた話に怒っているわけではございません。兄はとっくに納得済みのようですし、どちらも成人した大人です。それこそお二人の中にとやかくいっても無駄なこと。……恋心とはままならぬようですから」

「理解してもらえる……とは言えないのだろうが、そう言ってもらえるのなら嬉しいね。正直、あれに惚れた自分がよくわからないが、いまじゃいてくれないと困る存在だ」


 ヴィルヘルミナ皇女は気付いているのだろうか。兄さんの話になると彼女の頬と目元は自然と柔らかくなる。

 雑談もここらが潮時なのだろう。こういった場は慣れたつもりでも毎度緊張が隠せない。まして相手はライナルトが現れるまで皇位継承を確実とされていた皇女なのだ。

 私の緊張は相手にも伝わってくれたようで、皇女もまた薄く笑んで待ち構えている。


「どうぞ、せっかく赴いてくれたのだから質問には答えよう」

「では遠慮なく。……ヴィルヘルミナ皇女殿下。殿下は何故、皇位を望まれるのですか」

「おや、私は兄に継承権を譲った身だよ。皇位を望んでるなんて、そんな不遜な」

「誤魔化しは不要です。お二方が水面下にて皇位を争っているのはすでに聞き及んでおります。そのために帝都内に派閥が生まれていることもです」


 ライナルトとヴィルヘルミナ皇女は同じ環境で育ったとは聞いていないけれど、所々、そこはかとない仕草がライナルトと似ていると言っては失礼だろうか。


「君、カールに謁見しただろう。あれをどう思った」


 どう、とは彼女はどこまで知りたいのだろ。皇帝カールに対しては思うところはそれこそ無限大にある。だが娘である皇女の前で本音を口にするのは自殺行為に等しい。


「隠さなくていいさ。君とクワイックが親しい関係だったのは聞いているし、コンラートを壊せと命を下したのはあの男だ。好いていると言われた方が驚くぞ?」

「……それを口にしたとて、なんになりましょう」

「なるさ、なにせ私が皇帝を好ましく思っていない。全体的な治世については……暗君と言われない程度にはよくやっているが、それでも人としては最悪な部類だろう。正直さっさと死んでくれと思っているが、なかなか死んでくれんのが現状だ」


 大胆すぎる本音だった。皇女がそんなことを言っていいのか、私の方が焦ってしまったけれど、相手は平然としている。


「なに、今更だ。子供らに好かれていないことなどあれはとっくに知っている。私は一度あれを刺しているし、次がないのはライナルトと変わらんのだが。……知らなかったのか」

「ぞ……んじ上げません」

「そうか。まぁ、外聞のいい話ではないから」


 殺意の理由を、ヴィルヘルミナ皇女は「子供の戯れ」とだけ口にした。そっけない態度だったが、腕を膝の上に組み直したとき、彼女の目はただしく、私や、そして多くの人々が知るであろう皇女としての貌を作っていたのである。


「皇位を望む理由を聞いたな。カールの暴挙が許せんからだ。なによりオルレンドルを愛しているからでもある。それ故にライナルトが皇位をいただくのだけは認められん」


 ふう、と長い息を吐く皇女は皇太子の名を出すと、苦悩を形作った。


「盲目に信仰しているだけかと思ったが、君は先ほどあいつをまともではないと言った私の言葉を否定しなかったな」

「……皇女殿下と私の知るライナルト様がどういった点をまともではないとおっしゃるのかは計りかねますが、少しだけなら理解はいたします」

「ならば言わせてもらおう。あいつは平穏とは共存できない人間だ。視界の先に見知らぬ土地と人々がいるのならば、それらを侵略せずにはいられない戦好きだ。家族の愛や恋人の情愛には応えられない壊れた人間だよ」


 わかるか? と視線だけで問いかける皇女に、真っ向から否定する言葉を私は持たなかったのである。

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