転生令嬢と数奇な人生を【6巻+短編集と続編発売中】

194、晴嵐前の静けさ

　この日は朝から奇妙だった。

　トラブルに見舞われる日だとでも言うのだろうか。第一の異常はウェイトリーさんの寝坊スタートである。

　たかが寝坊、されど寝坊だ。休養中とはいえ決まった時間に起きるのが日課のウェイトリーさん、普段より大分遅い時間に起きたが使用人仲間が起こしに来なかったのは、偶然にも各々が朝の買い出しに出ていたためのようである。ウェイトリーさんを起こせる面々は出払っており、残っていた人たちは「たまには寝坊もいいだろう」とあえて起こさなかったようだ。主人である私やウェンデルが起こさなかったのはそれぞれ惰眠を貪っていたのでウェイトリーさんを責める権利や、そのつもりはないけれど朝からしゅんと沈んでいるウェイトリーさんは珍しい姿である。今日はまだ姿を見せないけれど、お向かいのクロードさんがこのことを知ったらここぞとばかりに揶揄っていただろう。コンラート家家令の名誉のため伏せておくつもりでいると、すっかり顔なじみになったクロードさんが頭を掻きながら登場したのである。

「おはよう諸君。いや、参った参った。今日はとんでもない日かもしれんぞ」

　お向かいに越してきてすっかり馴染んだクロードさん。お向かいだけでは飽き足らず、助手や秘書を呼び出すのも面倒だからと近所のアパルトメントを一棟まるまる所有権を購入したので着々と囲いを作り始めているようだ。なお、コンラート関係者も独身者に格安で貸してくれるので、早くも引っ越しを検討している人がいるようだ。此方の経営は趣味のようだが、趣味で不動産収入を確実にしていくのも凄い話である。

　クロードさんは入室するなりウェイトリーさんの顔を見て口をへの字に曲げた。

「なんだウェイトリー、いつになくご機嫌斜めみたいだがもしや寝坊でもしたか」

「……馬鹿を言わないでもらいたい」

「はん、図星だな？　寝坊がどうした、二度寝は気持ちいいもんだぞ。年を取ればいやでも早起きしてしまうからな。若造の頃を思い出せば悪いものではない」

「違うと言っているだろうに」

　ウェイトリーさんの心の機微を見抜けるのはこの人くらいのものである。クロードさんは否定するウェイトリーさんなど気にも留めないようで、悠々と着席するとパンにここぞとばかりにバターとジャムを乗せるのだ。これ以上ウェイトリーさんに話題を向かせてはならないと、ヴェンデルが声を張り上げた。

「それよりクロード、朝からなにかあったみたいだけどどうしたの」

「ん？　ああ、いや、今日は久しぶりに愛犬の散歩に出たのだがね」

　ご本人の要望により、ヴェンデルはクロードさんを呼び捨てである。ヴェンデルははじめ難色を示したが、将来的なことを考えたら慣れておくべきだと説得されたのである。

　クロードさんは大型犬を三匹飼っている。お散歩は基本的に使用人任せだが、運動も兼ねてお出かけした先でトラブルに見舞われたようだ。

「困っていたご婦人を助けたら通りかかった馬車に泥水をかけられてね」

「あ、夜中がどしゃぶりだったもんね」

「幸いにご婦人は濡れずにすんだが、私と愛犬はびしょ濡れさ。それだけならご婦人の身を守れた名誉として鼻も高いのだが」

　家に帰ろうとした矢先で靴紐が切れ、その上どこかに財布を落としたらしい。クロードさんほどの人になればお財布は付添に持たせそうだが、本人は気ままに一人で動くのが好きなのでそんなものはいない。「仕事なら仕方がないが、朝から四六時中付添が必要だなんてぞっとするね。財布？　手元にないとなにかあったとき対応できんだろう」といった人なので今回のような目に遭ったらしい。

　おまけに帰宅したら、普段欠かしたことないはずのお気に入りの茶葉が切れていたようだ。

「いつもの茶がないと調子が出んな。今日はなにかあるかもしれんぞ」

「クロードさんが言うと洒落にならないです。今日は宮廷に上がるのですから、おどかさないでください」

「気をつけるに越した話はないさ。私はついていってあげられないが気をつけたまえよ」

「そちらこそお気をつけください。今日はトゥーナ公の元へ行かれるのでしょう？」

「なに、愉快な人物だと聞いているから、どちらかといえば楽しみでならないさ」

　私は午前中にヴィルヘルミナ皇女に面会予約が取れたので会いに行くつもりだ。クロードさんは件の土地拝領について詳細を詰めるためメインであたってもらっている。もうしばらくしたらゾフィーさんも顔を出すはずなので、彼女にも行ってもらう予定だった。

「マルティナにもよろしく伝えてください」

「伝えておこう。エミールの出発までには全員揃うといいのだがね」

　いまここにいないエミールはとっくに朝食を済ませ、庭でチェルシーやジルと一緒に遊んでいる最中である。最近ヴェンデルが夜更かししているのもエミールと過ごす時間を惜しんでいるためだ。もう数日したらキルステンに身を移すので、本人も家の者とふれ合う機会を大事にしているようである。

　特にジルは一緒に連れて行ってしまうからチェルシーが寂しがるかもしれないが、クロードさんの飼い犬に甘えさせてもらうつもりだ。

「年寄りの独り身だから、若い衆と遊べるのはうちの犬にもいい刺激になるだろう」

　お互いの利害が一致したのである。

　飼い犬三頭のうち二頭はたいへん人間好きらしく、また面倒見も良くて優しいからコンラートの人々と遊ぶのも歓迎だろうとの話だ。クロードさんのペットはどの子も元捨て犬で、どの子も大型。今朝の散歩にしても飼い主であるクロードさんを気遣って無茶をしない性格の子達である。躾もしてあるようだから頼もしい護衛が増えるのではないだろうか。

　開け放しの扉からチェルシーが笑い、エミールの「とってこい」と弾む声が聞こえてくる。きっとフリスビーみたく投げた棒をジルが尻尾を振って取りに走っているのだろう。その姿を庭師のベン老人やハンフリーも見守っているはずで、彼らに妹を任せたジェフはひっそりと端の椅子に身を寄せている。私が宮廷に赴くから護衛モードとして心を引き締めている最中なのだろう。こういうときはチェルシーがジェフの変化を敏感に感じ取るから、他の人が彼女の相手をしてくれているのが助かる。

　そして話に出てきたマルティナだが、彼女とは長い間会っていない気がするけれど、とうとう本人から連絡が入った。

「もう帝都に戻ってきているのですよね。お見舞いもいいと言っていたし、大丈夫かしら」

「本人が不要だと言ったのなら問題ないだろうさ。事情があるようだし、彼女の件は私に任せてくれたらいいさ」

「ウェイトリーさんも心配していますから、早く元気になって顔を出してくださいと伝えてください」

　帝都外で出ていたマルティナは、数日前に帝都へ戻ってきたようだ。ただどういうわけか怪我を負っていたらしいとクロードさんの事務所経由で知る所になった。本人は隠しておきたかったようだが、連絡を入れたところ事実であると認めたようだ。コンラートに顔を見せる前にクロードさんにご指名が入ったので、本日所用が終わったあとにマルティナに会ってもらうようお願いした次第である。

「……今日のスープは変な味がするな」

「ふふふ、おわかりになりますか」

　スープを一口啜ったクロードさんが感想を漏らした。すかさず今朝の献立について説明したのだが、クロードさんの反応はいまいちである。

「ほぉ、バーレ家ご当主の好物を……。特異な御仁だから味覚もまた特殊なのかもしれないな。我々には理解できない味覚をお持ちになっている」

　不味いとは言わないが、この様子ではあまりお気に召してはいただけなかったようだ。珍しく近くに控えていたリオさんは、この反応を予想していたのか少量しか盛っていなかった皿をすかさず取り替えた。新しい皿にはいつものスープが注がれていたので、クロードさんはなにも言わずこちらを食べ始めたのである。

　……駄目かなぁ味噌スープ。味噌はかなり少量にしてもらったし、リオさんと私では最高の出来なのでは！？　とはしゃいだのだけれど、お気に召してはもらえなかったらしい。まぁこれを予想して少ししか作らなかったから二人で消費できるのだけど……。

　ヴェンデルに至っては堂々と、

「不味くない？」

「ヴェンデル様、大人には堂々と趣味趣向を口に出来ない時がございます」

　こうなので推して知るべしである。

　日本食の普及はいまだ趣味の世界なので、こうして広げることで仕入れを増やしてもらいたいのだけど、道のりはまだまだ遠そうである。

　さて、私の隣には実はもう一席設けてある。特別に用意された椅子は脚が長めの特別製で、身長が足りない子供のための椅子だ。空席だったそこにはいつの間にか豪奢なドレス姿の女の子が座っており、焼きたてのパンを指さしていた。

「マスター、そこのパンをとってくださいな」

「ルカ嬢、こちらのジャムも美味だが如何かね」

「いただくわ。ねえクロード、ワタシそこのハムとチーズを挟んだのも食べたいの。作ってくださらない？」

「仰せのままに用意しよう」

　突然のルカの出現も皆は慌てず騒がず対応していた。ウェイトリーさんはお茶を淹れ、クロードさんに至っては手ずからハムを多めに挟んだサンドイッチを作ってくれるのである。彼女のことはエルの残した遺産としか話してないのだけど、皆深く聞いてこないのが流石であった。皆で生活を共にしている以上口外の心配がないとは言わないけれど、ルカが仕込みをしているようでバレる心配もないらしく、こうして堂々と姿を現している次第である。

　魔法といえば大体の不思議現象が通るのもこの世界の特徴ではないだろうか。本来魔法生物であるルカに食事の必要性はない。こういった彼女の行為は無駄にも感じられるが、曰く食べ物にも多少の魔力は存在しているようなので意味のない行動ではないようだ。だがヴェンデルにしてみればあれやこれやと食を楽しむルカは趣味に没頭していると映るようで、今朝も呆れながらぼやいたのである。

「ルカはカレンに似て食いしん坊だよね」

「私は食いしん坊じゃありませんー」

「マスターと一緒にしないでちょうだい。ワタシは様々なことを知りたいの。探究心が強いといってくださらないかしら」

「どっちでもいいよ。ところで学校の近くに安いけど美味しいお菓子屋があるんだけど、帰りに買ってこようか？」

「まあ！　所謂駄菓子ってものかしら、興味あるからお願いするわ」

　なお、ヴェンデルは薬草についてルカに教わる事も多いようだ。出没時間は少ないが、ルカなりに家人との交流を深めている。

　私がやっていたからと皆の前でシャロの背中に顔を埋めたときは、ちょっと困ったけど……。

　ルカを交えると雑談に花が咲き、出発する頃にはちょっとしたトラブルなんてすっかり存在が希薄になっていたのだけれど、彼を思い出したのは宮廷に到着してからの話である。

「御髪が変わってしまわれたが、相変わらず美しいようで嬉しく思います」

　最近会っていないから今回も遭遇はしないだろうと思っていたのに、どうやら予測は外れたらしい。久方ぶりに会うヴァルター・クルト・リューベック氏は一見穏やかな微笑を湛え私の手を取っていたのである。