163話 及ぶ変化

 これは夢だ。

 正確には夢、という感覚がある。身体の感覚はなくて、頭もふわふわしている。視界はモノクロ画像でうちの裏庭の椅子の一つに腰掛けていた。風は吹いて木々は揺れているのに音はない、肌を撫でる感触もない。

 普段裏庭で休むときは決まって誰かがお茶を淹れてくれる。そんなことを考えた次の瞬間には目の前に茶器と、白い陶器に注がれたお茶が置かれていた。

 ただ妙なのは、お茶が置かれた箇所以外、机は本に埋め尽くされている事か。

 そして席に着いているのは私一人ではない。


「エル、なにしているの?」


 エルが目の前に座っていた。髪を下ろし緩いくせっ毛を流した彼女は、普段なら決して纏わないようなレースのドレスを身に纏っている。動きにくくない? なんて尋ねるのが野暮なくらい可愛らしい装いだ。

 目の前の彼女は問いかけに対して見向きもしない。声など聞こえていない様子で目の前に広げた分厚い本を読み耽っており、その面差しに違和感を抱いた。

 

「エル……よね?」


 姿形は似ているのに、違う『何か』に対峙しているような気分だ。彼女の目はひたすら本の文字を追っており、いつまでたってもこちらを向こうとしない。

 名前を呼んで立ち上がった拍子に、手の当たり所が悪くて茶器を揺らした。そこでようやく彼女が驚愕の表情を見せ、目を見張りながら顔を上げる仕草で無視ではなく、私の存在に気付いていなかったのだと理解できた。

 真正面から対峙して、私の知るエルの面差しの違いに戸惑った。同じようで別人だ、そんな印象を抱かせる程度には雰囲気が異なっている。

 彼女が何か喋ろうとしていた。


『$B5.J}$,%@%&%s%m!<%I@h!)(B』


 言葉が聞き取れない。

 そもそも彼女から発音されてなければ言語を成しているのかさえわからない。

 返答できずにいると、彼女は怪訝そうに眉を顰める。言葉が理解できないと伝えるも、そもそもお互い意思疎通が図れているかすら怪しい。


『縺セ縺ゅ>縺?o縲りイエ譁ケ縺ァ邯咏カ壹☆繧九°繧峨』

 

 彼女は溜息をつくと、視線を再び本に落とした。以降は一度もこちらを見ようとせず、私も席について大人しく座るだけの時間を過ごすのである。

 どのくらいこの時間が続くのだろう。ふとそんなことを考えた時、倦怠感と共に目を覚ました。




 身体は酷く重かった。

 こんな目覚めは一体何度目か。熱を持った身体を伝う汗に気持ち悪さがつきまとい、ろくに纏まらない思考は天井を眺めている。

 気怠いけれど、体調からして熱のピークは冷めた頃だろうか。どうして私の身体はこうも弱いのか、嫌気と同時に違和感に目を閉じる。

 どうにもやたらと身体が重いのだ。体力を消耗していたって、いくらなんでも指一本動かすのが疲れるなんて経験は少ない。

 再び目を開ければ、周りはいつも通りの自室だ。部屋に人はいないが、寝台の端で寝ていたらしいシャロと目が合った。くあ、と大口開けて欠伸をすると前足を出して体を伸ばしている。頭をごつんとぶつけて鼻先を擦りつけてくる姿が愛おしい。

 喉の渇きを訴える身体に応えて腕を伸ばそうとした。


「……ん」


 髪が肩をなでた。結んでいないからそれ自体は当然として、はっきりとした異常が目に映り身を固めた。

 目の錯覚でも起きたか何度か確かめるも、視力に変化はない。仕方なしに立ち上がって、生まれたての子鹿……よりはましだけれど、おぼつかない足取りで鏡台の前へ向かう。いまならシャロ・クロに飛びかかられても負けるだろう。


「なに、これ」


 鏡の前に白髪の女が立っている。

 姿形といった造形はいくらでも見覚えがあるのに、私を構成する色だけがバグを起こしたみたいになっているのだ。試しに髪を掴んで持ち上げても、やはり色は変わらない。黒に近い濃い茶髪がすっかり白に変じている。

 鏡によって眉に触れてみたが、やはりこれも白だ。

 根元から真っ白でまるでお年寄りだけれど、髪の艶や張りには変わりがない。色素だけが抜けてしまった色合いである。

 驚いて鏡台の前で立ちすくんでいたが、すぐに疲れが追いついてきた。立っているのも億劫で、そういえば水が飲みたいのだと思い出したけれど、寝台に顔から倒れ込むのが精一杯である。

 疲れた。とにかく疲れたのだ。


「だれか……みず……」


 その前に寝てしまうかもしれない。目を閉じて再び眠りにつこうとしていると、誰かが話しながら扉を開け入ってくる。


「本当にすみません。使用人さん達はお使いで外に出ちゃってるから」

「構いませんよう。お隣さん同士、困ったときはお互い様です」


 ヴェンデルと……この声はエレナさん?

 会話していた二人だが、部屋に入るなり会話がぴたっと止まったようである。遅れて顔を動かすと、驚いた二人と目が合った。


「……おはよぉ」


 思ったより舌っ足らずな挨拶になった。エレナさんにはみっともない姿を晒しているが、それよりも水を取ってくれないだろうか。お願いしようとした矢先、途端血の気が失せたヴェンデルが駆け寄り、手首を掴むと親指の脈を測りはじめる。エレナさんもいつになく真面目な形相で、冗談でも言ったら叱られそうだ。


「えっと、ヴェン……」

「黙って」


 はい。

 脈を測り終えるとエレナさんが体を持ち上げ、再び寝台に寝かしつけてくる。前も思ったけれど、女性にしてはとても力持ちだよね。羨ましい限りである。


「ヴェンデルくん、私、執事さんを呼んできますからカレンちゃんを看ておいてもらえますか」

「飲み物を作りたいので、僕が呼んできます。少し時間がかかるので、エレナさんはカレンを着替えさせてもらえませんか」

「わっかりました。お姉さんにお任せください」


 そう言うとヴェンデルは出ていくが、離れ際に目の端が涙で滲んでいたのは見逃さなかった。扉が閉まるとエレナさんはテキパキと換えの寝衣を用意し、桶に水を注いでタオルを浸しはじめるのだが、いまだ状況がよく掴めない。


「まずはおはようございます。気分はどうですか」

「あ、おはようございます。気分は普通ですけど、体がだるいですね」

「でしょうねえ。回復したと思ったら今度は熱を出しましたから……。殿下とお話しした日は覚えてます?」

「はい。たぶん、記憶は全部……」

「それから五日ほど経ってます」


 それは……新記録更新したかな?

 なんて感想を抱いたが、呑気にしていられたのははじめだけである。


「カレンちゃん、あなた死にかけたの覚えてますか」

「へ?」

「一度体内の魔力が尽きかけたようで、それで息が止まりかけたみたいなんですよ。それで皆さん、それはもう大慌てで、かくいう私も肝が冷えました」

「それは、すみませんでした……?」

「無事ならいいんです。でも、髪の色は戻らなかったみたいですね」

「あ、これどういうことでしょうか」

「うーん。どう説明したらいいんでしょうね。……腕上げてください、脱がしちゃいまーす」


 言われたとおり腕を上げると、エレナさんが寝衣に手をかけながら教えてくれる。


「とっても簡単に説明すると、カレンちゃん、エルの遺品に侵食されたっていうのが私たち……というよりシスの見解です」


 今日はもうこれ以上の驚きはないと思っていたが、さらにそれを上回る出来事が発生した。寝衣を脱いで自分の腕を見たのだが、左の肘の上から肩に向けて刺青が如く黒い紋様が入っている。そのうえ肌を這うように動き回っているのだが、決まった範囲から紋様が漏れることはないようだ。


「それ、なにか違和感はありますか」

「いいえ、なにも。私もいま気付いたくらいで……」

「なら殿下と一緒ですね」

「え?」


 ライナルトと一緒とはどういうことか。尋ねると、ライナルトにも同じような紋様が入ったようだ。ただしあちらは私と違い、背中のほんの一部分だけの範囲のようだ。軽い倦怠感と右の視力の低下を訴えたが、倒れるまでには至っていない。やはりあちらも魔力を喪失しているといった見立てらしい。


「あ、ここで言う魔力っていうのは普通の人でも生まれながら当たり前に備えているものですよ。でもこれがなくなったら死んじゃいます」

「はい、そこはなんとなくわかるつもりです。魔法使いは普通の人より魔力の量が多くて、それを扱う才能があるんですよね」


 で、なぜこうなったかと言えば、先も述べられたとおりエルの遺品。あの珠もといインクの塊のような何かである。

 まずエルの遺した珠が発動して私に九割、ライナルトに一割くらいで侵食した。本体のインク玉は既に消滅したが、現在も私たちの体内で何らかの形で発動中らしい。結構根深く『絡んでいる』ようだけど、シスでもなければ感知できないので問題ないとは言われたようだ。ただし関係者以外に侵食部分を見せるのは絶対だめとの厳命付きである。


「……なんで魔法使いでもない私の前で発動したんでしょう」

「うーん、そこはシスも不思議がってました。彼女が遺したといったら箱関連ですし、自分に渡してくれたらすぐ逃げ出せたかもしれないのに! って叫んでましたね」

 

 原因は不明のままである。

 さて、侵食後だが私はやはり意識を失って倒れた。すぐさま医者の元に運ばれたものの呼吸が浅くなり心臓停止まで至ったが、どういうわけかすぐさま息を吹き返し、周囲を大いに混乱させたようだ。そしてこの時まで身体に異常は無かった。不思議な話だが、翌朝になるといつの間にか色素が抜け、腕に紋様が入っていたそうである。医者とシス両方に再度検診させたところ、熱はあるが命に別状はなしとの判断で家に帰されたのであった。

 そしてエレナさんは旦那様と一緒に休暇兼隣家のお守り役を仰せつかったらしい。これに関し、本人は「暇になっちゃったからチェルシーちゃんと遊んでます」と呑気である。ヘリングさんはエミールに体術を教えているようだ。


「お休み中にお兄さんや皇女殿下もお見舞いに来られてましたよ」

「兄さん……はともかく、ヴィルヘルミナ皇女まで?」

「国のために貢献された方を皇女が見舞うのは、そうおかしな話じゃありません。カレンちゃんは伏せっていると殿下が伝えたおかげで先延ばしになっていますけど、巷では陛下から勲章と報奨が授与されるともっぱらの噂です。起きたからには近日中に報せが来るんじゃないでしょうか」


 何に対する勲章か、あえてエレナさんは語ろうとしなかった。けれど声音はほんのり寂しそうでもある。


「エレナさん……エルは……」

「大体は聞いてます。だからといって、きっと全部を知ってるわけじゃないですけど……。でもどんな形だろうとエルはカレンちゃんが大好きでした。それだけは知ってます」


 死がエルの本望だったとは言わない。けれど最悪の結果にはならなかった、とエレナさんは語る。新しい濡れタオルで髪を拭いてくれる手つきは優しく、反対に声音はほんのり寂しそうでもある。


「思うところがないといえば嘘になります。だけど私は彼女と友達にはなれなかったし、止めなかった以上は……。そう思って、やってます。勝手ですけどね。……ご飯食べられそうですか?」

「お腹は空いてます」

「よかった。じゃあヴェンデルくんのお茶を飲んだらご飯にしましょう。バーレのご当主からも見舞い品が届いたようですから、料理人さん張り切ってましたよ。海の向こうの国で主食の穀物で、水たっぷりめで火を通すと消化にいいとかなんとか」

「……まさかそれって」


 もしかして、と顔を上げたときだった。近くで座っていたシャロが尻尾を膨らませたかと思うと、素早い動きで寝台の下に潜り込んでいく。下でドタバタ暴れ回ったかと思うと、うにゃうにゃ鳴きながら何かを咥えて出てきたのである。


「シャ、シャロちゃん? それはいったい……?」


 思わずちゃん付けになったのは、咥えられた物体があまりに奇妙だったからだ。多分、いやきっとおそらく小鳥の類だと思うのだが、曖昧な表現になってしまうのは、それが黒一色だったからである。黒といっても陰影すら存在せず、ただの漆黒で光の反射すら存在しない、ただ目に該当する部分がわずかに白いだけだ。以前隣家で見かけた幽霊――のような闇を彷彿とさせるけれど、形が可愛らしいおかげで大分ましである。

 グッタリとしたそれをシャロが持って行こうとしたところで、エレナさんが寸前で捕まえ無事阻止した。猫から解放され小鳥もどきは心なしか力なく立ち上がったものの、再びぼてっと転がったのだった。

 

「カレンちゃん?」

「知りません知りません、誤解ですよぉ……」

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