131話 噂の出所
反射的に口をついていた。こんな風に反応するのはそれこそ肯定しているようなものだけど、でも、無理だった。
「違う。私、別に怯えてなんかいない」
「じゃあなんて言い換えるべき? 自分はこうあらなきゃっていう思い込み、それとも強迫観念とでもいえばいい?」
「違うって、そんなんじゃ……」
「ちゃんと認めない分、あんたの方が質悪いわ」
背中から回された腕に力がこもり、背中付近に額が押しつけられる。
薄ぼんやりとした暗がりの中、二人並んだ寝台の上で小さな攻防は続いていた。
「わたしの記憶じゃコンラートに行く前はまだ違ったように思えるのよ。少なくとも学生の頃はああしたいこうしたいって口にしてた。貴族なんて止めて自由に生きたいってね」
「状況は変わるし、望みなんて変わっていくものでしょう。違う? 恩を返そうとしてなにがいけないの」
「誰も悪いなんて言ってないでしょ。落ち着きなさいよ、わたしは……」
「エル」
人を分析するのは嫌いじゃないけど、される側になるのは真っ平御免だ。
堪らず強くなってしまった語気にエルは深い息を吐き、身じろぎして力を緩める。
「わかった。今日はここまでにしとこ」
「二度としないで」
「いやよ。あんたがわたしを心配するように、わたしだってあんたを気にかけてるんだから。それにね、世界中探したってこんなこと追求できるのはわたしくらいのもんよ」
「余計なお世話」
「知ってる。けどそれってあんたもよね」
こんな不意打ち永遠にやめてもらいたいけれど、きっと聞いてくれはしないのだろう。ただ、いまの私にとっては彼女の言葉から逃れられたことだけに酷く安堵していた。
「泣かないでよ」
「……泣いてない」
柔らかくなった友人の声音はいつになく優しい。もしかしてこの間の仕返しだろうかと一瞬頭を過ったけれど、さすがにうがち過ぎだろうか。
「カレン、あんたもわたし以外に隣を歩ける人を見つけなさいよ。それに少しくらい、もっと自分のやりたいことを言いなさい」
「別にそんなのないし、ちゃんと言ってるし」
「……強情ねぇ」
うるさい。エルには言われたくない。ばれないように目元を拭うと、そこでようやく動悸が収まったことに気付いた。汗をかいたせいで夜着が湿ってしまっているけれど、エルは気持ち悪くないのか。心配をよそに、彼女は抱きついたまま離れようとしない。
「口にするくらいいいじゃないの。それにどんな無茶だとしても、わたしが助けてあげるからさ」
彼女の言葉に、なんと返せば良かったのだろうか。できたのは「考えとく」なんてぶっきらぼうな返事だけで、これ以上の思考を放棄するように意識を闇へ落とし込んでいくけれど、こういうときに限って簡単に眠るのは難しい。
本当にもう、勘弁してほしい。彼女の指摘はこの世界でどうこう言ったところで……エルの復讐相手がいないのと一緒でどうしようもない話だ。
彼女ほど救われないストーリーがあったわけでも、大層な悲劇に見舞われて生まれ変わったわけでもないのだから、声にするにも値しない。
私は、私が情けなくて仕方がない。
本当に、ただそれだけの話なのである。
朝になるとエルの姿は消えていた。明け方までいたのは確かなようで、しかも体が固定された状態で眠り込んだものだから、体が痛くって仕方がない。朝、ばっきばきになった体をどうにかほぐそうと頑張ったけれど、ほぼ無駄足である。微妙に疲れが抜けない体のまま支度を済ませて馬車に乗り込んだのだが、あくびはどうしても堪えきれなかった。兜の奥でジェフが心配そうにしているのが雰囲気で伝わってくる。
「眠れなかったのですか」
「緊張とは別の理由だから大丈夫。緊張といえば、エミールの方ががちがちに固まってたわねえ」
「キルステン家との関係も知った上で無理に明るく振る舞われていたようですから」
「……あの子、私が遠くに行くとでも思ってるのかしら。いまさら実父なんかに興味はないのだけれど」
「エミール様なりに思うところがあるのでしょう。戻られたら安心させてあげてください」
そういう意味ではヴェンデルの方が強いのかもしれない。出発前も猫を膝に乗せて、前足を掴んだシャロと一緒に「いってらっしゃい」だ。シャロものんびり屋さんなのか前足を振られるまま可愛い腹毛を晒していた次第である。
なお、モーリッツさんとはバーレ家で直接合流する形になっている。バーレ家ほどの大家、さぞ立派な場所に家を構えているだろうと考えるだろうが、これが大間違い。立派な、というのはある意味間違っていないのだけれど、問題は場所だ。
なんとバーレ本家は帝都正門をくぐり、馬車に揺られ三十分ほど走らせた林の中に位置する館である。背後には大きな山が控えており、脇にはずらりと厩舎が立ち並んでいた。近隣には農村があったから、もはや一つの領地だろう。
バーレ家に近づくにつれ物見小屋や、私兵と思われる兵士の駐在所もあちらこちらに見受けられた。帝都とはまったく別の意味で緊張させられる道中である。
柵門を潜ると、一周回るだけでも時間を要する広大な前庭を経由し馬車は停止する。改めて見上げたバーレ家の館は四階建ての横にも広い荘厳な構えであった。
到着するなり、執事とおぼしき壮年の男性が恭しく頭を垂れる。
「コンラート家のカレン様でいらっしゃいますね。お待ち申し上げておりました」
自己紹介は必要ないらしい。予定時刻より少し早めに到着したのだが、すでにモーリッツさんは到着しているようで、私はバーレ家当主が待っているという応接室へ案内されたのである。なお、今回はジェフの同席も認められた。部屋の隅で立っているだけだが、執事さん曰く「お呼び立てしたのはこちらですので」といった理由らしい。
案内される間、当然ながら内部を観察させてもらうのだけど、年季の入った屋敷を大事に手入れし使っている印象だ。調度品ひとつからしていかにも高値の付きそうな絵画がずらりと並んでおり、骨董好きが目の色変えて喜びそうな家模様である。
広い館だから使用人も多くいそうだが、執事さん以外はだれも見かけないし、物音一つしないのが不気味なほどだ。
バーレ家の応接室は、私の知っている応接室とは違い豪奢だった。
客人を楽しませる方向に特化しているのか、まず目に付くのはあちこちに飾られた色とりどりの生け花と、薄いレースを何重にも重ねたカーテンの束。唯一異色だとすれば、壁には年季の入った抜き身の剣と槍だろうか。交差して飾られているが、違和感はないし、むしろ不思議と融合しているから謎である。
男性よりは女性に好まれそうな空間で、老人と目が合った。
想像よりも立派な体躯のご老体である。やや厚着のゆったりとした装いで布張りの広い長椅子に腰掛けているのだが、目元の皺をいっそう深くして笑っていた。
「旦那様、コンラート夫人をお連れいたしました」
「結構。飲み物をお持ちするように。それとアーベライン殿にもお代わりをな」
「かしこまりました」
窓から差し込む柔らかな陽射しに包まれた老人こそが、バーレ家現当主であるご老人だ。向かいにはモーリッツさんが腰掛けているけれど、ライナルトの姿はない。
「ご当主、お心遣いはありがたく存じますが、本日は仲介役として参じたのみ。大事な話でしたら私は席を外した方がよろしいでしょう」
「ふむ? 気になっていたのではないのかね」
「コンラート夫人と貴家の関係に口を挟むつもりはございません。ですがもしご厚意を賜れるのであれば、後ほど我が君とお会いいただきとうございます」
「なるほど。卿の目的はそうだったな。なに、殿下は我が家と夫人の仲介をしてくださったのだ、請われるまでもなく殿下とはお会いさせていただこう」
「ご配慮くださり感謝いたします」
ライナルトは後から来るようだ。モーリッツさんはご当主に一礼し出ていくのだが、すれ違いざまに睨まれた。これは多分「しくじるな」くらいの意気は込められていそうである。心配なら立ち会えばいいのに、ご当主の心証を選んだな。それとも本気で興味なかっただけだろうか。
「貴女はこちらに来なさい。わざわざ呼び立ててすまなかったね」
「いいえ、とんでもありません」
「本来ならばこの爺が訪ねなければならんところだが、最近は思うように足腰が動かんのだ。人に会うにもこうして足を運んでもらわねばならん」
バーレ家当主は、私が想像していたより遙かに年上だった。七十はとっくに超えているはずだが、年齢を感じさせない若々しさがある。私の知る老人の平均寿命を遙かに超えているけれど、いまとなっては驚くほどではない。コンラート伯もそうだったけど、貴族は平民と違って栄養状態が格段に良い。特に帝都は食文化がかなり進んでいるから、ファルクラムに比べてお年を召した人の数が多い。バーレ家ご当主ほどじゃないが、クロードさんが元気いっぱいなのがいい証拠ではないだろうか。
「お会いできて光栄でございます、イェルハルド様。コンラート家の筆頭を務めさせていただいておりますカレンと申します。どうぞカレンとお呼びくださいませ」
「ありがとう、バーレ家の筆頭を務めるイェルハルドだ。まあほとんど隠居の身だからねえ、イェル爺とでも、爺とでも好きによぶといい」
「ではイェルハルド様と」
そっと壁に沿うように立ったジェフを除くと、この場にいるのは私とご当主しかいなかった。肝心のベルトランド・ロレンツィがいると思っていただけに拍子抜けである。
「さあどうぞ、そこにお座りなさい。若い人に最近流行だという菓子も取り寄せたのだよ、貴女の口に合うといいのだがね」
「失礼します」
肝心のご当主は好々爺といった印象。柔和な面差しや喋り方に気を許してしまいそうだが、この館の主だというのは忘れてはならない。まして耳にしたバーレ家の話通りならば、この人自身が選りすぐられた特異な人物だ。
「ところで動物は大丈夫かね。我が家は犬猫を飼っていてねえ、息子や娘があちこちから拾ってくるものだから、勝手に入ってきてしまうかもしれない」
「あら、それでしたら我が家でも飼い始めたところです。隙あらば机の上の食事を狙うものですから大変ですが可愛らしいもので、毛繕いする姿には癒やされております」
「ああ、よかったよかった。気をつけさせているつもりだが、若いお嬢さんの服に毛がついてしまうのが申し訳なくてねえ」
「生き物ですから仕方ありません。付着した毛は払うだけですから、どうぞお気遣いなく」
ただ、こういう人だから私の緊張も見抜いていたのだろう。執事さんがお茶を持ってくれたのだが、なぜか茶器が二つある。一方は私も良く知る紅茶、もう一つは香りの高い…………ん?
「気付いたかい。いや、せっかくだから良い茶をと思ったんだよ。香りが大分違うだろう」
驚きすぎて声が出なかった。脳というより、どこか奥底に眠っていた記憶が刺激され、まさかと思って口づける。
「…………美味しいです」
「ほう!」
この反応に、ご老体は喜んだ。上体を動かし若干前のめりになったのである。
「香りが独特だと気に入る者は少ない。特に孫らは好まないのだが、貴女はいける口か。これは嬉しい」
「……ええと、穀物を煎ったお茶ですか」
「加えて博識ときた。ああ、そうとも、海の向こうの国から仕入れた特別品だ。それが口に合うのなら、他の茶は如何だろうか」
膝に手をうってはしゃぐ様に演技といった言葉は見当たらない。
ご当主への相づちとかそっちのけでもう一口含んだ。穀物と聞いて得心した。これ、ちょっと雑味が多いけど玄米茶である。意外なところで出くわした味は、一瞬だけここがどこかを忘れさせた。ずっと求めていた日本の味。嬉しい驚きだけれど、昨日のエルとの会話もあって、気が――。
「お申し出はありがたいのですが、これがとても気に入ってしまったので」
「……そうか」
「…………後にしていただければ嬉しいです」
「そうか!」
ご当主が用意してくださったお茶請けは、流行というだけのことはある品揃えだ。なにせ現状まだまだ高額といわれるチョコレート菓子がずらりと並んでいるからである。ひとつだけいただいたけれど、酸味のある果物とカカオが実に合っていて、口の中が幸せいっぱいだ。
ご当主はそんな私を満足げに見つめていたが、ひととおり落ち着いたところで「さて」と切り出した。
「こうしてお呼びした事情は、およそではあるが把握しているだろう。本来ならば気に留める必要のない噂だったが、いまはご存知の通り後継問題を引きずっている最中。そのせいで貴女を呼ばざるをえなんだ」
ご当主はゆっくりとした動作で両手を二度叩いた。意外にも力強い音はよく響いて、それを合図に近くの扉が開く。
「まぁ」
現れたのは男の人だった。若干のあどけなさを残した青年は、以前家の前で私を見ていて、なおかつ軍部区画で猫のクロを連れてきてくれた軍人さんである。気まずそうな面差しで所在なさげに立っていた。
「まずは謝罪を。口さがない孫が騒ぎ立てたせいで貴女に、ひいては故郷のお父君に迷惑をかけてしまったと思われる。これを深くお詫びしたい」
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