第56話 考えることの意味

 いつ意識が落ちたのかはわからない。覚えているのはとにかく泣いて、叫んで、小さな子供みたくみっともなくわめき続けたことだけだ。眠っている間、誰かが頭を撫でてくれていたような気がした。

 これ以上ないくらいに泣いたあとは疲れが一気に押し寄せて、もう休んでもいいのだという安堵感に身を委ねた。するといつの間にか寝台に寝かされていたようで、起こしに来たのはエレナさんだ。安心できる風景にほっと一息ついたけれど、荒らされた部屋の風景を目の当たりにして、襲撃が夢ではなかったことを思い知らされた。

 夕方の撤収ぎりぎり前の時刻である、荷造りが必要だからと申し訳なさそうに謝る彼女に礼を言って鞄に荷物を詰め直した。濡れタオルをわざわざ用意してくれたのは、大泣きしたとばれているからだろう。けれど彼女は何も語らず、いつもの調子で喋り続けてくれる。瞼は重いが、それが彼女なりの優しさなのだと気付ける程度には心に余裕が生まれていた。


「必要なものはちゃんと荷に含めてくださいね。私たちが離れてしまったら、野盗がお屋敷を荒らすのは確実です。一応近隣に人を置く予定にはなってますけど、見張りが完璧とは言えないですし……」

「私は、持って行くものはそんなにないですから」


 だから持って行くとしたら、故人の思い出の品だとかウェイトリーさんの荷物だ。男性の部屋を探るのは気が引けたが、いまだ意識不明のこの状況、四の五の言ってはいられない。ヴェンデルも同じことを考えていたようで、ウェイトリーさんの部屋に行く頃にはすでに机や棚を探していたのである。

 しかし思い切りいいヴェンデルでも出発間際まで諦めきれなかった品物がある。エマ先生の工房から持ち出した自筆冊子を抱きしめながら、泣きはらした瞼を閉じたのである。


「……父さんの本を置いていくのはいやだな」


 伯の書斎の本棚である。わかる範囲の希少本はなるべく持ち出したが、伯の蔵書は単純に価値のある本ばかりだ。私の荷物を減らし積める限りは積んだけれど……。それでもコンラート家の帳簿や重要書類の類を持ち出さねばならなかったので、すべてとは言い難い。こう言ってしまうのは悪いことかもしれないが、狙われたのが単純に金品だけだったのが幸いしただろう。ほとんどの金銀宝石の類が持って行かれたので、そちらに気を取られずに済んだ。

 結局、コンラートの家を離れたのは深夜になってしまってからだが、特に文句はでなかった。というのも深夜になっても埋葬が続いていた上、ようやく動けるようになったコンラートの領民が自宅に埋もれた財産や荷物をまとめ回っていたらしい。

 ゾフィーさんといった人たちも手伝ってくれたので、なんとか荷馬車に荷を積み込み一息ついたのである。

 生存者達だがコンラートを離れると説明すると、やはり落胆の色を隠せなかったようだ。それでも早々に彼らが納得してくれたのは、住まいが破壊され、隣人や家族が死にゆく様を見てしまったからだろう。彼らを守ってくれる領主や兵士、家や防壁はもうないのだ。家族の埋葬に立ち会えたのも、彼らの意識を早々に変えたかもしれない。財産を回収できた生存者のうち王都に移り住む者もいれば、途中で親類を頼るため離れると語る者もいる。

 コンラートが沈んで一日しか経っていないため数度に分けて確認を取るつもりだが、それにしても残った領民が逞しいバイタリティを有しているのはこの世界故か、それとも伯の教育が行き届いていたのか、どちらだろうか。


「……領民にもせめていくらかお金をわたして、当面の足しにしてもらわないと」


 お金の件は私の独断だ。家がなくなったって保険があるわけじゃなし、普通は路銀の保証もないようだが、もし伯が生きていたら同じことをしていたのではないかと踏み切った。彼らをただ放り出すのは寝覚めが悪いし、もしあの土地の再興が決まった際は生き残った彼らが頼りになる可能性もある。コンラート家へ再び戻ってもらうために、心証をよくしておきたい考えもあった。

 ……ただ、私は私の行いに自信があるわけではない。実行前にウェイトリーさんへ相談を行いたかったが、現在彼はヴェンデルと庭師のベンさんに介抱されながら荷馬車で眠っている。

 ついでに庭師のベン老人についても触れておこう。結局、ご老人の家族に助かった者はいなかった。頼れそうな親類も裕福とは言えないらしく、訪ねても迷惑をかけるだけと悟っているようだ。なので、ご老人は引き続きこちらで面倒を見させてもらうことにした。今後コンラートがどうなるかはわからないが、少なくとも王都の屋敷には人手が必要だし、ヴェンデルもご老人を好いているから問題ないだろう。コンラート家の希望は彼らなのだ、なんとしても強く生きてもらう必要がある。そう話したのはコンラートを発ってから二日目の夜だったが、エレナさんにはなんとも言えない顔で苦笑されてしまった。

 

「おかしなことを言ってるでしょうか」

「いいえ、おかしいとは思いません。ただ、カレンちゃんは自分を希望とはみなさないんだなって……」


 たき火の前で暖をとりながらの、他愛ない雑談だった。

 ヴェンデルはまだウェイトリーさんから離れたがらないし、ベン老人は疲れて眠ってしまっているようだ。エレナさんは暇を見ては様子をみにきて薬や食料を差し入れしてくれる。後方で護送されている領民達の様子も詳細に伝えてくれるからありがたい話だ。

 しかし希望か。自分を含めてないと言われてはじめて気付いた。

 

「私、ただ逃げてただけです。皆に逃がしてもらって、運良く生き延びただけ。いまだって右往左往してるだけで、なにもできてません。……ヴェンデルやウェイトリーさんの方がよほど、コンラートの役に立ちますよ」

「……その思考はどうかと思いますけど、いえ、でもまだ数日ですからお姉さんはなにも言いません。でもね、生き延びることはそれだけでいいことなんですよ」

「はい、言ってることはなんとなく、わかります。死にたかったわけではありませんから」

「それとカレンちゃんが生きてて嬉しいと思っている人がいることも忘れないでください。あなたが死んじゃったら、私も悲しい。エルになんて報告していいかもわかりません」

「エル……怒りますかね」

「怒るでしょうね。だから、あんまり悲しませるようなことしちゃだめですよ」


 たき火がけむたい……は置いておいて、炎が揺らめく様は見入ってしまうようだ。


「ところでカレンちゃん、あの護衛くんのことはどうするんですか。処分を保留しているって聞きましたけど」

「あー……はい。そうですね。まだどうするか悩んでます」

「やるなら早いうちがいいですよ。言ってくれたらこちらですぱっとやっておきますけど」

「…………はは。それはいざとなったらお願いします」


 領民の件、実はもう一つ頭を抱えている問題がある。私たちを逃がす際に、最後に残った青年だ。彼はヴェンデルの居場所を襲撃者に吐いたのち、気絶したところをエレナさん達に捕獲された。どうも命惜しさに逃げたのは事実らしく、いまは別途軟禁されている状態だ。普通なら主君を売った罪で処断されてもおかしくない状況だが、その判断を保留している。

 一つは、私の甘さからくる迷いだ。

 続々と仲間が死んでいくことで追い詰められていく状況。もう助からないと思うだろう。命が惜しい気持ちも、逃げ出したい気持ちも嫌というほどわかる。結局自分達が助かったからこんなことを言っているだけなのだが、それでもせめて残った領民を死なせたくないとも願っている。本人が反省していないなら迷いこそすれ、処断しただろうが……。一度対面した様子を見る限り、悔いているようにも感じられた。

 二つ目は、彼の生存を望む者がいるということ。

 これはヘンリック夫人に付き従い、片腕を損失しながらも一命を取り留めた護衛からの要望だ。意識を取り戻した男性は青年の過ちを自らの責任だと言い張り、助命を嘆願している。代わりに自分が命を絶ってもいいとまで断言されてしまったのだ。聞いたところ、青年はこの人の教え子のようだった。

 罪をただ罪とするだけ。殺せ、と言うだけなら簡単だ。けれどその言葉の意味を単純なものにしてはならないと私は思っている。だから悩むのだ。

 ……こんなとき伯ならどう決断しただろう。誰かの生死を左右する選択が自分に委ねられるのが、こんなに重いなんて考えもしなかった。

 

「昨日から何度か咳き込んでますけど体調はどうですか」

「……あ。はい。まあ……良くはないです。ご存知の通り、今日もほとんど寝てましたから」


 青年のことは、もう少しだけ考えさせてもらいたい。

 エレナさんの質問に、思い出したかのように咳き込んだ。脱出からこの方、寒さのなか雨に打たれ野を駆けまわったのだ。集団に囲まれた荷馬車の移動もストレスなのか、微熱が出はじめている。体調不良は仕方のないものとして受け入れているが、実はこの日からヴェンデルも体調を崩しており、寝込むのも時間の問題ではないかと予想していた。……道中、護送の人々は私たちを気遣ってくれるが、やはり日が経つにつれ故郷を失ったダメージが心身に響いているのだ。初日は全員一種の興奮状態だったのだろうと思えば無理もない。


「私はまだ、王都に行っても帰る家がありますからね。そこまでは頑張って、家族に会ったらもう一度ゆっくり休みます」


 落ち込んでいないわけではない。だけど一度感情の整理をつけたいま、こうして彼女と話す程度には他人を見る余裕が生まれている。だからそのきっかけをくれたライナルトにも感謝しているのだが……。あれ以来本人にはまだお礼を言えていないが、そのうち会う機会もあるだろう。私が無理をしていないとわかったのか、エレナさんも納得してくれたらしい。


「ほんとにだめそう! って思ったら一言くださいね」

「善処します」

「本当にお願いします。閣下も珍しく心を砕かれていらっしゃるので……。私個人の感情を抜きにしても、元気でいてもらいたいとは思ってるんですよ」


 一瞬、私の考えが彼女に伝わってしまったのかと心臓が高鳴った。……そんなわけはないのだが。


「珍しく、ってどういうことです」

「え? あ、うーん? ……いえ、これは私とかヘリングの所感ってだけですけど、カレンちゃんの前だと閣下、割とわかりやすくなってくれるので。……よっぽど気が合うんだなあと」

「……元々わかりやすい人では?」


 顔や仕草、目を見ていれば、存外あの人はわかりやすい。感情の判別は難しくないだろうと尋ねてみると、とんでもないと首を振った。


「閣下はある意味指針が定まってますから、やりやすいというか……従うのも当然なのであまり気にしてませんが、閣下とアーベラインは表情で顔色がうかがえない二強です」

「はぁ、モーリッツさんはわかりますが……」


 ……そんなに難しいだろうか。喜怒哀楽の感情豊かな人だと思うのだが。

 しかしモーリッツさんに関しては何度でも頷きたい。エレナさんもあの人に対してはため息を吐くばかりだ。ところでモーリッツさんって、エレナさんの上官じゃないのだろうか。本人がいないから彼女も言いたい放題のようだ。


「アーベラインは先輩やヘリングともぜんっっぜん意見が合わないといいますか……。そういえばカレンちゃんにも結構辛辣な口をきいてたじゃないですか」

「……そうですねぇ」

「もともとあんな感じなんですよ。あの態度だから敵は多いんですけど、でも仕事はできるから何も言えないといいますか」

「よほど事務処理が上手とか?」

「事務処理だけだったらもっと安心して悪口を言いますけど、あれで意外と目の付け所がいいんです。戦じゃよく足りないところに手を届かせるといいますか。今回の移動も編成を軽くやっつけちゃいましたからね」


 家柄もいいみたいだし、人格程度は問題にならない。むしろ重用される人物なのだろうな。感情に惑わされず、三百六十度、全方位に正論をぶつけてそれが癪に障るというタイプなのだろう。

 そもそもエレナさんがいう辛辣とやらだが、別に怒ってはいないのだ。あの時、私は領主代理を名乗っていたのだから、彼もそれ相応の対応を求めたのだろう。それはそれとして腹は立つけど。


「ところで、ライナルト様の指針ってなんでしょう」

「え? ああ、それはいずれわかりますよ。気にしなくていいです。それよりお手すきなら、もうちょっとお喋りに付き合ってもらえませんか。体調が優れないならもう引き返しますが……」

「寝過ぎてしまったので、相手をしてもらえるのならありがたいですが……。あの、エレナさんたちは領民の皆さんから話を聞いたのですよね。そろそろ襲撃者についてなにか教えてもらえませんか。小耳に挟んだのですが、荷馬車のどれかに捕虜を捕らえているとも聞いたのですけど」

「捕虜、ですか。んー……聞いたことないですね。抵抗が激しかったから斬るしかなかったですし……。それこそ噂じゃないです?」

「いえ、誰かが口を割らないと言っていたと……」

「まさか。捕虜を捕らえていたのなら真っ先にお教えしてますよ。だからあんまり気に病まないでください」

 

 気に病んでいるのではなく、ベン老人が偶然聞いたという話を尋ねただけなのだが、軽く流されてしまった。移送のストレスがあるからと、彼らが必要以上の情報を伏せているような気がするのは間違いではないだろう。エレナさん相手ではのれんに腕押しといった状態である。

 ……ライナルトかモーリッツさんのところに突撃したい心境ではあるが、移動を始めてからこちら、面会を申し込んでも忙しいという理由で断られているのだ。それに先刻も述べたように私自身の体調も優れないので寝込んでいる時間が長い。

 しかしエレナさん、モーリッツさんだけじゃないにしろ、他にもストレスは溜まっているようだ。会話はいつの間にかエレナさんの愚痴大会になっており、右から左に流したものの、いい気晴らしにはなったと思う。

 もう一日後には、単調な移動にも変化があった。ウェイトリーさんが目を覚ましたのだ。とうとうヴェンデルが高熱で倒れ、荷馬車で二人並んで寝込んでいる最中だった。はじめは意識が朦朧としていたようだったが、声をかけ続けると視線を彷徨わせた。


「いまは無理をしないで。ウェイトリーさんたちのおかげでヴェンデルは無事です。隣で寝てますよ」


 伝えるとほっとしたような表情になり意識を失ったが、そこからは回復も順調だった。王都到着間近になる頃には、喋れる程度には回復したのである。伯とヘンリック夫人の行く末についてはもうしばらく先と思っていたが、生憎、この人は察しが良かった。


「旦那様については、ほとんど覚悟しておりました。…………リズは」


 この場にいない時点で理解していたのだろう。目頭に腕を押し当て、歯を食いしばっていた。……口出しこそしたことなかったが、ウェイトリーさんとヘンリック夫人の間に特別な絆があるのは知っていた。それが友情か愛情かはわからないけれど、ウェイトリーさんにとっては大事なものだったのは確かだろう。


「最後は囮となって私たちを逃がしてくれました。彼女がいなかったら、私もヴェンデルもこの場にはいなかったと思います」

「……お二人を逃がしきった。リズもきっと本望でしょう」


 けれども、やはり堪えがたい感情はあったようだ。特に厨房に立てこもっていた使用人達も亡くなっていたと知った際はつらそうであった。庭師のベン老人同様に、若い者達よりも年寄りが生き延びてしまったと後悔したのである。

 けれどもその悔いを救ったのは、隣で汗をかいていた十一歳の少年である。目を覚ました家令の手を握ると、弱々しいながらも彼を叱咤した。


「ウェイトリーまでいなくなったら、僕らどうしていいかわからなくなる。そんなこと言わないでよ……」


 この涙が特効薬になったのだろうか。ウェイトリーさんは深く、深く息を吐いて亡き領主や領民達に哀悼の意を捧げた。そして自らの体力を取り戻すため、食事と水を要求したのである。

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