第22話

「夜にこっそり侵入できる学校なんて、今時あるんだね」


 夕食後、洗い物をしながら姉は呆れたように言った。それは姉だけではなく、俺も同意見だった。


「田舎の高校だから防犯意識が低いんじゃないの。興味あるんなら俺の代わりに行ってきてくれ」

「嫌よ、夜の学校なんて。気味悪いし、あたし関係ないし」


 あっさりと断られ、姉に聞こえないよう小さく舌打ちをする。「今、舌打ちしなかった?」

 してないよ、と動揺しながら返事をすると、食器洗いを終えた姉は俺の向かいのソファーに腰掛けた。


「それにしても伊吹くん、雪乃ちゃんのために危険を犯してでも黒板に書いてたなんて、愛を感じるね」

「そうかな。ただのストレス発散のようにしか見えなかったけど」

「もしかして碧、嫉妬してない?」

「するわけあるか。そろそろ時間だな。行ってくる」


 懐中電灯を片手に、俺は気が乗らないまま家を出た。


 街灯の明かりを頼りに、真っ暗な道を進んでいく。時刻は午後九時半。人通りは少なく、数分に一度通る車のヘッドライトがやけに眩しく感じられた。


「よう。なんかわくわくするな」


 しばらく自転車を走らせ、約束の場所で小泉と合流する。彼はTシャツに短パン、リュックサックを背負い、軽装だった。


「言っとくけど、遊びに行くんじゃないからな。伊吹の犯行現場を押さえるのが目的だからな」

「分かってるって! しかしまさかデブキが犯人だったとはなぁ」


 最初は一人で行くつもりだったが、巨体の伊吹の犯行を止めるには俺一人では心許なく、急遽小泉を誘った。決して夜の学校に一人で潜入するのが怖かったわけではない。本当だ。


 事情を説明すると、小泉は二つ返事で承諾してくれた。小泉も一階のトイレの壊れた鍵のことを知っていたようで、いつかは夜の学校に忍び込もうと思っていたらしい。お前のおかげで俺の夢が実現する、と興奮気味に熱弁していたのは夕方のことだ。


「ところでそのリュックの中は何が入ってんの?」


 パンパンに詰まったリュックサックを指差して、俺は訊ねた。


「ああ、これか。ライトにロープにハンマー、それから夜食とカメラと軍手とゲーム機だ」


 いまいち用途が不明のものが何点かあったけれど、突っ込むのはやめておいた。

 雑談しながら自転車を走らせ、伊吹が働いているコンビニの前に到着した。


 さらに待つこと十分、伊吹がコンビニから出てきた。


【くそ店長め、こき使いやがって。無能のくせに】


 出てくるなり伊吹は早速文句を垂れる。ぶつぶつと心の中で呟きながら、自転車に乗って学校方面へと向かっていった。俺と小泉は伊吹から少し距離を取って追跡を開始する。


「どうする? 今突撃するか?」

「だめだ。犯行現場を押さえないと意味がない。もう少し泳がそう」


 刑事になった気分で、俺と小泉はそんな会話をしながら尾行を続ける。

 学校に着くと伊吹は校門の前に自転車を止め、軽々と門を突破する。意外に身軽なやつだなと感心しながら、俺たちも後に続く。小泉のリュックが門に引っかかり、もたもたしている間に伊吹を見失ってしまった。

 懐中電灯で足元を確認しながら、西側のトイレの窓へ向かう。夕方帰る前に一度確認していたので、迷うことなく暗闇の中を進んでいく。

 ライトを向けると、西側のトイレの窓が開いているのが見えた。伊吹はすでに侵入に成功したようだ。辺りを見回すが、彼の姿はなかった。


「よし、ここから入るぞ。俺が先に行く」


 そう言って俺は窓枠に手をかけ、問題なく校内に足を踏み入れた。あのでかい図体でよくここを通過できたな、と改めて感心する。

 小泉はリュックを投げたが窓枠に当たり、三回目でようやく成功して俺はリュックをキャッチする。小泉も校内に入り、今のところ一つも役に立っていないリュックサックを渡し、トイレを出る。警備員に見つからないよう懐中電灯を消し、非常灯だけを頼りに静まり返った不気味な校内を進む。


「やっぱ夜の学校って、こえーな。デブキの奴、よく毎晩一人で来れるよな。さすがボスギャルたちを敵に回すだけあって、度胸あるよあいつ」


 小泉が小声で伊吹を褒め称える。まったく同感だった。

 三階まで来ると、俺たちは足音を殺し、忍者の如く忍び足で教室の前まで行き、立ち止まった。小泉はスマホを取り出し、カメラを起動させる。リュックの中にカメラがあると言っていたが、それはなんのために持ってきたのだと突っ込みを入れたいところだったが、状況的にやめておいた。

 教室のドアが開いていたので、そっと中を覗き込む。真っ暗な教室の中で、伊吹は黒板の前に立ち、今まさに文字を書いているところだった。黒板にチョークを擦り付ける音が、教室内に響いていた。

 俺たちは息を潜めて、伊吹が書き終わるまで待った。


「よし! これでいいだろう」


 伊吹のその声を合図に、俺たちは突撃した。小泉はスマホのライトをつけ、連写機能を作動し写真を撮る。


「そこまでだデブキ! 観念しろ!」


 伊吹の驚愕の表情がライトに照らされる。あまりの突然の出来事に、伊吹の巨体は停止していた。

 俺は黒板に懐中電灯を向ける。今朝書いてあったように、宮原を攻撃する言葉がそこにはあった。


「お、お、お、お前ら、こここんなところで何してんだ」


 伊吹は動揺しすぎて何度もつっかえる。うるせえよデブキ、静かにしろ、と小泉がうるさい声で叫ぶ。警備員が駆けつけて来ないか冷や冷やした。


「伊吹、お前雪乃のためにこんなことしたんだろうけど、思いっきり逆効果だから、それ」


 言いながら俺は黒板消しで文字を消していく。


「え、そうなの? デブキ、もしかして雪乃さんのこと好きなの?」


 小泉の問いかけに、伊吹は俯いて答えない。小泉はそれをイエスと捉えたようで「だとしたらお前、見直したよ」と感嘆の声を上げた。


「あいつらが悪いんだよ。雪乃さんをいじめるから」


 伊吹は床に座り込み、力なく言った。月明かりに照らされた伊吹の表情は、どこか哀愁を帯びていた。


「特に悪いのは高梨美晴だ。あいつは最低の女だよ」


 伊吹はさらに続ける。高梨に好意を寄せている小泉はそれに反論する。


「なんでだよ。確かにいじめは良くないけど、一番最低なのはボスギャルだろ」

「最初にいじめられてたのは高梨なんだ。一年の頃だ。元々井浦と高梨は仲が良かったみたいなんだけど、男関係でいざこざがあったとかで、仲間外れにされて無視されてたんだ」


 一見してあの二人は仲が良さそうに見えるが、俺には分かっていた。高梨は実は井浦に嫌悪感を抱いていて、グループを抜けたがっている。けれど再びターゲットにされることを恐れて、自分の立ち位置を守ろうとしているのだ。


「それを知って雪乃さんは、いじめられてる高梨を助けたんだよ。隣のクラスで起こったいじめのことなんて放っておけばいいのに、高梨を助けたせいで今度は雪乃さんがいじめられるようになった。高梨は助けてもらったのに雪乃さんのいじめに加わって、最低のクズ女なんだよ」


 その話を聞くと、さすがの小泉も反論できないようだった。雪乃と高梨は中学の頃、仲が良かったと聞く。仲良しの高梨がいじめられていて、雪乃は見て見ぬ振りができなかったのだろう。二年になって井浦と同じクラスになってしまったことは、雪乃にとっては不幸なことだった。

 ふと、雪乃をいじめていた高梨を思い出す。彼女はいつも、心の中で雪乃に謝罪しながらいじめに加担していた。伊吹の言葉を聞いて、高梨の言動に合点がいった。


「僕も一年の頃、同じクラスの男子にいじめられてて、皆に無視されて、毎日が地獄だった。でもそんな時、僕に優しく声をかけてくれたのが雪乃さんだったんだ」


 伊吹はさらに続ける。彼の一人称が僕だったことに驚きつつ、相づちを打つ。


「その時は雪乃さん、まだ話すことができたんだ。でもあいつらのせいで、また話せなくなったんだ」


 確か雪乃は、双子の姉が亡くなってから言葉を発せなくなったり、また発せられるようになったりと病気を繰り返していると高梨が言っていた。伊吹の怒りも分からなくはないが、だからといって嘘を書いて人を傷つける行為は許されることではない。


「俺もそれは聞いたことがある。雪乃さん、元々口数は少なかったらしいけど、前は喋れたって誰かが言ってた」


 小泉が口を挟んだ。知っていたのなら最初からそう教えろよ、と思った。高梨に訊くまでは、雪乃は生まれつき喋れないのだと俺は思っていた。


「クマのキーホルダーだ」

「クマのキーホルダー?」


 俺は思わず聞き返した。雪乃がいつも鞄に入れている、あのクマのことだろうか。


「亡くなった双子のお姉さんとお揃いのキーホルダーらしいんだ。二つあったうちの一つを井浦に盗られた時、雪乃さん過呼吸になっちゃって、次の日から上手く言葉を発せなくなったんだ」


 ふと、時々クマのキーホルダーを握りしめている雪乃の姿を思い出した。クマを見つめている時の雪乃の表情は、いつも寂しそうで、いつも辛そうだった。キーホルダーなのに鞄の中に隠している理由が、なんとなく分かった。


「なるほどな。でもなぁ、デブキのやってることもいじめと変わらないぜ。もうやめろよ、こんなこと。誰も得しない」


 小泉にしてはまともなことを言った。伊吹は悄然と項垂れていて、まさにクマのテディベアのように見えた。


「お前ら、どうせ言うんだろ、皆に。もう僕は終わりだ。この学校ではもう生きていけない」

「なに泣いてんだよデブキ。別に俺らはチクる気はないけど。なあ碧」


 ああ、と俺は返事をする。本当か? と伊吹は顔を上げる。彼のメガネの奥の小さな瞳が月明かりに照らされ、きらりと光った。


「本当だよ。でもその代わりちゃんと謝れよ、井浦たちと、それから雪乃に」

「え……」


 俺は暗くて何色かも分からないチョークを手に取り、伊吹に手渡した。


「匿名でいいから、謝罪の言葉を黒板に書くんだ。それで許してやる。あいつらが許してくれるかは分からないけど」


 伊吹は数分の間チョークを見つめたまま固まり、そしてようやく立ち上がってチョークの先端を黒板に押し当てた。

 伊吹は迷いなく黒板に文字を書き続け、「これでいいか?」と振り返る。

 小泉が黒板にライトを当てる。書かれた文字を見て俺と小泉は頷き合う。


「よし、帰ろうぜ」


 結局ライト以外出番がなかったリュックサックを背負い、小泉は教室を出ていく。

 俺も教室を出ようとしたところで、一度後ろを振り向く。伊吹は黒板を見つめ、立ち尽くしていた。


「どうした、伊吹。早く帰ろうぜ」

「雪乃さんに、悪いことしちゃったなぁ。僕のせいで、犯人だと疑われちゃって、本当に申し訳ないよ」


 伊吹は黒板に目を向けたまま、ぼそりと呟いた。


「その気持ちがあるなら大丈夫だ。きっと雪乃に伝わる」


 そうかなぁ、と伊吹はため息交じりに言う。


「おい! 早く行こうぜ! 警備員が来たら厄介だ!」


 廊下の先から小泉が場違いな声で叫ぶ。お前のその声量のほうが厄介だよ、と突っ込みを入れると、伊吹は笑った。


「でも森田、なんで僕が黒板に書いてたこと知ってるの? この時間帯に学校に忍び込んでることも、よく知ってたね」


 真っ暗な廊下を進みながら、伊吹は訊ねる。説明するわけにもいかず、俺は「偶然だよ」と笑って誤魔化した。

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