第3話

 二ヶ月前、なんの前触れもなく突然母さんが倒れた。学校の帰り道、姉から着信があり、俺は悲劇を知らされた。母さんは脳溢血のういっけつで倒れたのだという。

 その後すぐに手術が行われ、命をつなぐことはできたものの、意識は戻らなかった。医師の話では、おそらくこのまま意識は戻らないだろう、とのことだった。


 俺は母さんと喧嘩をしたまま、もう仲直りすることも、謝ることもできなくなってしまった。喧嘩と言っても、反抗期真っ只中の俺が圧倒的に悪いのだ。ただ母親が鬱陶しくて、何を言われても反発していた。母さんが倒れる前の一ヶ月間は、弁当を作ってくれても食べずに残していた。それでも母さんは、毎日弁当を作ってくれたのだ。

 ありがとうとごめんなさいを、俺は母さんに言えないままだった。そして二ヶ月後に俺は事故に遭い、例の声が聞こえるようになった。なんとも不幸な家族である。

 唯一の救いは、姉の茜の存在だ。父さんは一切家事ができない。姉が母親の代わりとなり、掃除、洗濯、料理など、全ての家事をこなしてくれている。

 事故に遭ったのが茜ではなくてよかった、と見舞いに来てくれた父さんが心の中で呟いていたのを聞いた。腹が立ったが、確かにその通りだ、と情けなくも自分でも認めてしまったから怒りを飲み込んだ。


 その後、再び脳の精密検査が行われたが異常の所見はなく、事故から三週間後に俺は退院した。年配の看護師は相変わらず、最後まで俺をクソガキ呼ばわりしていた。もちろん、心の中でだけだ。

 そうして俺の、三週間遅れの新学期が始まった。


「車に気をつけるのよ」


 姉が作ってくれた弁当を鞄に入れ、家を出ようとしたところで姉は母親のようなことを言う。

 はいはい、と軽くあしらって家を出た。

 俺の自転車は事故で壊れてしまったので、母さんが使っていたママチャリで学校へ向かう。

 三週間遅れの新学期ということもあってか、すっかり気勢をそがれてしまった。沈んだ気持ちで自転車を走らせる。


【会社行きたくねえなー。火事になってくれねえかな】

【あのおっさん、なにじろじろ見てんのよ。殺したい】

【あー、どいつもこいつも、皆死ねばいい】


 朝から物騒な言葉が、頭の中に流れ込んでくる。行き交う人々を一瞥すると、そんな声が俺に届く。皆いろいろと不満が溜まってるんだなぁ、と彼らを尻目に進んで行く。

 緩やかな下り坂に差し掛かる。下った先には、例の事故現場がある。

 そこを難なく通過し、横断歩道を渡る。道の先に学校が見えてくる。登校する生徒たちも、次第に増えていく。


「お、碧じゃん。怪我はもう大丈夫なのか?」


 赤信号で止まっていると、背後から声をかけられた。振り返ると、一年の頃同じクラスだった小泉健一こいずみけんいちが片手を挙げていた。進級して、また同じクラスになったことは彼から聞いていた。


「おう、小泉。もうなんともないよ。それより、新しいクラスどうよ?」

「新しいクラスかぁ。まあ、悪くはないと思う。学年一美少女の高梨美晴たかなしみはるもいるしな」

「へえ。高梨美晴かぁ」


 高梨美晴は誰もが憧れるマドンナ的存在で、成績も優秀。彼女はまさに才色兼備と呼ぶに相応しい女子学生だ。性格も良く、同じクラスになった男子生徒は漏れなく彼女を好きになるという噂を聞いたことがある。


【はあ、高梨さんと付き合いてえなぁ〜】


 小泉もまた、高梨美晴に魅了された一人らしい。

 学校に着いて騒がしい教室に入る。新しいクラスだけれど、なんとなく知ってる顔が多かった。俺の席は真ん中の列の、一番後ろの席だった。


「おう碧、事故ったんだってな!」

「軽トラに突っ込んだって、本当かよ」

「死ななくてよかったな、お前」


 クラスメイトたちは俺の机に集まり、口々に言った。どうやら車に轢かれて無事生還した男は、彼らにとってはヒーローらしい。

 ぶつかる瞬間どうだった? だとか、走馬灯は見えたか? だとか、ナースは美人だったか? だとか、とにかく質問攻めに遭う。

 鬱陶しくて雑に答えると、彼らの声が頭に届いた。


【なんだよこいつ。くそつまんねーな】

【事故ったくらいでチヤホヤされて、調子に乗ってんじゃねーぞ】

【そのまま死ねばよかったのに】


 心ないその言葉に、胸がずしんと重くなる。

 直接言われたわけではないので、そんなこと言うなよぉ、と笑って突っ込むこともできない。

 予鈴が鳴ると、彼らは自分の席へと戻っていった。顔は終始笑っていたが、心の中ではあんなことを考えていたのか、と嘆息をつく。

 担任と思われる若い女教師が、浮かない表情で前方のドアから教室に入ってくる。


【生徒たちに舐められないようにしなくちゃ】


 彼女の強い決心が俺の頭に届いた。新米教師なのかもしれない。


「あ、森田碧くん。はじめまして。このクラスの担任になった藤木です。皆最初に自己紹介したから、森田くんもしてもらっていいかな」


 藤木と名乗った教師は、俺に優しい笑みを向ける。仕方なく立ち上がると、クラスメイトたちは一斉に振り返る。


【こいつが事故ったっていう森田碧か】

【うーん、中の下かな】

【なんか面白いこと言わねーかな】


 クラスメイトたちに視線を向けると、次々と声が頭に入り込む。俺は慌てて黒板に目を向ける。途端に声は止んだ。人間を直視しなければ、心の声は俺には届かない。

 ようやく静かになったところで、俺は無難な挨拶をした。


「森田碧です。よろしくお願いします」


 短い自己紹介を終えて席に座ると、数秒遅れて疎らな拍手が沸き起こった。

 つまんねー自己紹介だな、という声が届きそうな気がして、俺は俯いて自分の机に視線を落とした。

 授業が始まって数分後、そろそろクラスメイトたちの俺への関心はなくなっただろうと思い、顔を上げた。一番後ろの席なので、生徒たちの背中と、彼らの声が俺に届く。

 帰りたい、眠い、お腹痛い、席替えしたい、腹減った、高梨さん今日も可愛いな、頭痛い、教科書忘れた。

 小泉の声が紛れ込んでいた気がするが、そんなネガティブな言葉が次々と聞こえ、気が滅入りそうになる。真面目に授業を聞いている奴は、おそらく数人だろう。皆考えていることは大体同じだ。


 ──死にたい。


 ふいに、一際大きな声が頭の中で反響した。

 今のは、誰の声だろう。ぼんやりと生徒たちを流し見していたので、声の主が誰だったのか分からない。ただ、女の声だということは分かる。クラス中の女子に視線を向けるが、やはり誰の心の叫びだったのか判然としない。


「森田くん、クラスメイトたちに興味あるのは分かるけど、授業中だからキョロキョロしないで黒板見てね」


 担任の藤木先生に注意され、「すいません」と俺は頭を下げた。


 休み時間になると、俺は先ほどの物騒な声の主を探すべく、女子たちに視線を送る。


【さっきからあいつ、ガン見しすぎ。きもっ】


 その声の主が美少女の高梨美晴だったことに気づき、心が痛んだ。彼女は長い髪の毛をいじりながら、俺を睨みつける。容姿だけではなく、性格も良いと聞いていたのでショックだった。


「どうした碧、女子ばっかり見て。お気に入りの子でも見つかったか?」


 小泉がにやつきながら俺の肩に手を置く。「別に、そんなんじゃねーよ」と返事をすると、「高梨美晴は俺のだぞ」と小泉は笑う。

 はいはい、と軽くあしらって視線を戻すと、高梨美晴の傍らにいたギャル系の女子が、くしゃくしゃに丸めた紙くずをポン、と投げた。

 投げた先にいたのは、背中を丸めて席に座る地味な女子生徒だ。紙くずは彼女の頭に当たり、床に転がる。投げた女はケラケラと笑う。いじめ、というやつだろうか。


【びっくりしたぁ。でも、全然痛くないもんね】


 当てられた女子は、呑気にそんなことを考えていた。そしてその声を聞いて、俺は確信した。

 死にたいと心の中で叫んでいた女は、彼女で間違いない。声が一致する。何故死にたいのか、その理由も明白だ。おそらく普段から執拗にいじめを受けているのだろう。俺には関係ないことだが、気の毒に思った。


【次の授業は数学かぁ。嫌だなぁ】


 彼女の小さな背中を見つめていると、再び声が届いた。どうやら数学は苦手らしい。


「お、もしかして雪乃が好み? 確かに顔は悪くないよなぁ」


 小泉は俺の視線の先に気づいたのか、小声で言った。「ゆきの?」


「あいつの名前だよ。雪乃令美ゆきのれみっていうんだ。見た目はまあまあだけど、やめておいたほうがいいぜ。きっと苦労する」

「まあ、確かにいじめられっ子と付き合うといろいろ大変そうだ」

「いや、そうじゃないんだ」


 じゃあなんでだよ、と俺は小泉を振り返る。彼は、ふふんと笑って答えた。


「雪乃のやつ、喋れないんだ。詳しくは知らないけど、そういう病気らしい。自己紹介の時も、先生が代わりに挨拶してたよ」


 ふうん、と俺は興味なさげに返事をしたが、その話を聞いて雪乃令美のことが気になった。もう一度、彼女の背中を見やる。


【今日のお弁当は、何かなぁ。……いてっ】


 ちょうどその時、もう一つの紙くずが雪乃の頭に直撃した。投げたのは高梨美晴だった。

 その後予鈴が鳴り、生徒たちは何事もなかったように席に着く。雪乃は丸められた紙くずをひょいと拾い、ゴミ箱に捨てて席に戻った。

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