第2話 コズミックリポートNo.26

 回転する白黒のメリーゴーラウンド。私の場合、端的に表すと、そういうものだ。当時は酷いもので、毎日だった。目の前の景色がグルグルと回りだすように見え、おまけに色が失われていく感覚。白黒というより、色自体が抜かれていくとでもいえようか。白や黒という認識もできないが、言葉にすれば白黒かもしれない。そして、めまいと息苦しさ。腹部の張りと痛み。頭痛と腹痛と息が詰まる苦しさを抱えながら、乗りたくもないメリーゴーラウンドに無理矢理、乗せられる感覚だ。苦痛以外の何ものでもない。そうなったときは目を閉じ、両耳に手を当て、深呼吸を繰り返す。しばらくして瞼を開けば、たいていは色のついた世界が戻り、息苦しさや痛みも引いていく。年齢を重ねるうちに、モノクロームの回転木馬に乗せられることは少なくなった。大学を卒業する頃には、薬の量もかなり減らすことができた。ただ、いまでも何かの拍子に、胸が苦しみ、そんなときはまた、回転が始まるのではないかと不安に襲われる。この日、不意打ちで目にしてしまったドラマのキスシーンをきっかけにしたように。


 ×××


「一種の調査に協力してもらいたい」

「なんの?」

「とても大事なことだ」

「大事って。猿に言われても」

「これは肉体を借りてるんだ」

「わかってる。これも最初に聞くべきだったと思うけど、なんで動物なの? 誰か人の体にすればいいんじゃない?」

「あえて、人間以外にしたんだ。調査に関係があるからね」

「……やばっ」

「どうした?」

 人語を解する猿と普通に会話をしていた自分にゾっとした。しかも相手の正体は異星人というではないか。

「いや、なんでこの状況を受け入れてるんだろうって。誰かがここに入ってきたら、どう思われるかな」

「その心配はない」

「どうして?」

「説明が難しく、あまり時間もないため、できれば省略させてほしい。我々の技術と根回しで、そうなっているんだ。私が去るまでの間、ここには誰も入ってこないし、通りがかることもない。君と私に気づく者は他にいない」

「そう。まあいいや。じゃあ、猿が入ってきたのも偶然じゃなく?」

「近所で飼われているものをここまで誘導した。この対話が終われば無事に帰す。飼い主の家にも迷惑はかけない手筈を整えた」

「ならいいけど」

 なぜだか猿の心配をしてしまった。彼 (と思うようにした)が説明するには、犬や猫より猿のほうが憑依の具合がいいそうだ。

「状況はだいたいわかった。よし、本題を話してよ。私でよければ聞くから」

「ありがとう。君でなければいけないんだ」

「え……」


 嫌な予感がした。『君でなければ』そう告げられ、急に胃がむかついてくる。

「単刀直入に言おう、君が受けた性暴力の体験についてだ」

「……勘弁してよ」

 興醒め。一気に現実に引き戻される。理解できた。なぜ、私の前に現われたのかが。そういうことか。首を後ろに仰け反らせ、深いため息をつく。背後の壁に貼られた、オンラインゲームのポスターが目に入った。女性タレントがアニメ調の美青年と抱き合っている。恋愛シミュレーションゲームの広告だ。私は、そのポスターを力任せに引き剥がしたい衝動に駆られた。

「どうだろうか?」と彼は言う。黒豆みたいな目玉からは何を考えているのか読み取れない。

「銀河の果てからはるばるやってきて、私らみたいな下等動物の醜い所業を調べたいってこと? ひょっとして、夏休みの自由研究? あんた学生さん?」

 私はトゲのある言い方で噛みつく。貧乏ゆすりと同じ動きで膝を上下させ、スニーカーの底で床を鳴らす。かなり嫌な女だ。異星からの来訪者に失礼な態度かもしれないが、構うものか。

「誤解をしているようだ。リサーチには違いないが、悠長なものじゃない。我々……」と話している最中、彼が突然に飛び上がった。垂直ジャンプだ。椅子の上にうまく着地できず、床に転がり落ちる。それから、甲高い奇声を発し、両手を叩いたり、コインランドリーのそこいら中を駆けずり回ったりする。狂ったのか。野生の暴れ猿は見慣れているので、恐いとは思わず、私はポカンと拍子抜けした。


 ×××


 怒りよりも上回ったのは、無力感と倦怠感。被害者になる、それは私にとって、あらゆる強さを剥ぎ取られる感覚だった。事件前までの私は、平均より強気な少女だったと思う。おかしいと思ったときは、その場の空気に関係なく、自分の意見を口にすることも多かった。だが、リーダー気質ではなかったから、人の考えを変えようとか、先導しようとはせず、己の意志を表明するだけ。だから、遊びでもなんでも友達と何かしようとして意見が異なる際は、相手に譲った。

「もっと自分の意見を通したら? 気が弱いわけでもないのに。しっかりした考えを持ってるくせに、周囲に影響を与えないよう、セーブしてるみたい」と、ある友達に言われたことがある。<逆インフルエンサー>と私をからかう、その子とは仲がよかった。いまでは疎遠になってしまったが。


 将来に不安はなかった。就きたい職業も考えておらず、根拠もないのに漠然と安心していた。大成はせずとも、打ち負かされたり、立ち上がれなくなる程に絶望することはないだろうという一種の万能感があった。それでも、どこかで自分を信用しきれないところがあったのも事実だ。事件後、それにはっきりと気づいた。「自分は何も強くなかった」「正しい選択などできない」何度も声に出し、己に言い聞かせた台詞。なぜ、あのとき、言われるがまま、あいつらの車に乗ってしまったのか。

 思えば、ずっと前から心の奥底で、自らの弱さを自覚していたのだろう。だから、自分の考えに人を巻き込むことに対し、無意識に抵抗を感じていたんじゃないだろうか。決して<インフルエンサー>になどなりたくない。あの子は、恵里は元気にしているだろうか。


 ×××


「すまない。やはり、完全とはいかないようだ」と彼は申し開きをする。猿が謝罪する姿は滑稽で笑えるところだが、いまの気分ではそうもいかない。

「時々、この体の持ち主の本能みたいなものが、私の理性を超えて表出してしまう。暴れていたあれは、私の意志ではなかった。恐がらせたなら謝る」

「いや、大丈夫。イライラしてた気分が変に柔らいじゃったよ」

「話を続けよう。君たちが抱える問題は、我々にとっても切実な課題だ」

「そっちの星でもそういう犯罪があるんだ。そっか、それで、他の星の性暴力サバイバーから話を聞きたいんだね」

「わかってくれて感謝するよ」

 自分のことを<性暴力サバイバー>と形容するなど初めてだ。私の過去を知らない同僚や現在の数少ない友人とこんな会話をすることはない。にも関わらず、自分はいま臆することなく話をしている。この常軌を逸した状況がそうさせるのだろうか。

「でも、私よりも過酷な経験をした人やいまでも暴力や虐待に晒されてる人はいるよ。日本も酷いと思うけど、もっと犯罪率が高かったり、支援が不足してる国だってあるし」

「別の調査員が対応している」

「あっ」と私は声を上げた。

「これは同時多発に行われているリサーチだ。対象は被害者だけじゃない。被害者の家族や友人に話を聞きに行った者もいる。加害者との対話を試みている者も」

「私はその中の一人ってことか。ただ、なんだかな、あなたたちも配慮がないよね。被害を受けた女に男を寄越すなんて。普通は女性の調査員にすると思うけど」

 彼は沈黙してしまった。ピクリとも動かないが、何かは考えているようだ。いま世界中で、性暴力に関する、星を跨いだ聴き取り調査が進行中らしい。日本にも私以外に対象者はいるのか? 猿以外に憑依した例はあるんだろうか。その場合、どんな動物が人語を喋っているのだろう。他の皆は協力的に自身の体験談を語っているのかもしれない。私は……。


(続く)

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