02 きっかけ
『私たちは、世の中に資さなければならない。それはなぜか。力を持っているからだ。異形の力を持ちながら、力を持たぬ者たちの中で生きるためには、この力を彼らの利益になるように使わねばならない』
それを不条理だとは思わなかった。
異形が普通の中で生きるためにはそうするしかない。大部分の人間は異能の存在すら知らないのだ。世界は常にマジョリティで作られる。「マイノリティが生きやすい世界」などというものはマジョリティの情けがなければ成り立たない。
ナガラはそれを痛いほどに理解している。
名前もよく知らない中小企業のプログラマーの父と事務職のパートで働く母、というごく一般的な家庭に生まれたナガラは、その辺の小学校、その辺の中学校に通い、地元の適当な高校に入学した。元来短気で喧嘩っ早く、どちらかと言えば問題児だったが、ノリも付き合いもいいため友人は多かった。ナガラはそれで満足していた。別に大きな夢も何もなくたって、平穏に友人たちと笑い合って、バカなことをしていられる。それだけで良かったのだ。
それは珍しくひとりで買い物に出かけた帰りだった。
当時は古着屋で服を買うのが割と当たり前になっていて、ナガラもそのひとりだった。着ていた外套は数日前に買ったばかりで、少し古びてはいたが生地が上質で色も良く、ひと目で気に入ったものだった。
電車を降りて家に向かう途中の公園で、同じクラスの男子を取り囲む他クラスの集団を見つけたのは本当に偶然だった。楽しそうに笑う彼らの中心で、見知った顔だけが笑っていない。イジメだ。すぐに分かった。
「やめろよ」
中心にいたのは同じクラスだと認識こそすれ、話したことなどほとんどない男子だった。穏やかそうな見た目の静かに本を読んでばかりいる彼と、勉強こそ苦手ではないが粗野な男子たちとつるんでいるナガラ。交流などあろうはずもない。
見なかったふりをすることはいくらでもできた。しかしそうしなかったのは、罪悪感に押し潰される明日の自分が見えたからだ。彼とは明日以降もほぼ間違いなく教室で顔を合わせる。そのたびにこの光景を思い出すなんて真っ平ごめんだ。
彼らが振り向く。見知った顔が二つほどあることにナガラはそこで初めて気が付いた。隣のクラスのお調子者連中で、何度か一緒に遊んだことのある男子たちだった。彼らもナガラを認識し、僅かに目を見開いた。だが次の瞬間にはナガラを思い切り睨み付けてきた。
自分に都合の悪い場面を見られた人間の行動は二つだ。逃げるか、戦うか。そして格好ばかりを常に気にしているような彼らの選択肢はひとつしか無かった。
「っらぁ!!」
「おぁ?!」
ひとりが突然殴りかかってきたのを、一歩後退して避ける。後ろで脚を振りかぶる音が聞こえて、咄嗟に右腕でガードした。骨と骨がぶつかる音が体に響く。
後ろから殴りかかってきたお調子者のひとりを体を回転させて躱す。よろけた彼の背中を上げていた左脚で蹴りつけた。
瞬間。
『リ、クト……ルス、ト……』
「あ……?」
僅かばかり、外套が熱を持った気がした。一瞬、それを不審に思ったがすぐに前に向き直った。そこで、あり得ない事態が起こっていることに気が付いた。
背中を蹴り付けて振り抜いた脚の先で、目の前にいたはずの男子学生が、文字通り吹っ飛んでいた。通常ではあり得ないほどの距離を。
周囲が一気に静まった。
気温が下がった気がした。
背中を伝う汗が冷たい。
誰かが叫んで、逃げ出した。
砂利が地面に擦れる音が一頻り鳴った後、急に静まる。ナガラが見渡した時には、公園にはもう誰もいなかった。
「……なんで」
訳がわからなかった。
いつもの喧嘩と何ひとつ変わらなかったのに、なぜ。
人気のない公園で、ナガラは立ち尽くしていた。吹き飛んだ男子生徒が転がった場所を見つめたまま、じっと。そうするしかなかった。頭の中は混乱したままで、何が起きたのか、どれだけ考えても理解ができなかった。吹き飛んだ先で硬直し、ナガラを見つめたあの怯えきった顔。脳裏に突然響いた冷たい男の声。ふたつが脳裏でぐるぐると回り続けていた。
「君、少しいいかい」
そのとき、どれくらいそうしていたのかをナガラ自身覚えていない。彼を現実に引き戻したのは、肩に乗せられた大きな手だった。振り向くと若い警官が困り顔で立っている。斜め後ろに少し年上の警官の姿もあった。
「ここでさっき、喧嘩があったって聞いて……何か知っているかい?」
誰が通報したのかはわからない。しかし結果的にこの通報がナガラにとって救いとなったことは確かだった。事情聴取のあと、ギルドへの紹介を受けることができたからだ。
だからこそ、考えることがある。
自分は運に恵まれたから、真っ当に生きることができているだけではないか、と。
外套は複数存在しているタイプのリリクトだ。力はそんなに強くないし、発動に必要なのは自分の体力。自制も効きやすい。
そしてなにより、ギルドでは生きていくための術を得ることができた。
しかし、「精神力」でリリクトを制御する使用者はどうだ。
あの、万年筆の使用者は――。
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