昼を前に、ちょっとした騒動が起こっていた広場は、正午を告げる鐘の音と共にそれをすっかり忘れたように人々がまた自身の休憩へと戻っていた。

 結局、混雑する広場で空いているテーブルを探す事はやめ、このパン屋の軒先で適当に昼食を取ることになったのだが、観察する限り、ここに集まる人間の大半は街の外れにある畑を持つ農民たちのようで、日焼けした顔を肩にかけた布で拭いながら泡立つエールを喉へと流し込んでいる。

 中には食事を居酒屋で受け取った後に、それを持ってまた畑の方へと戻る者もいたが、彼らはどうやら農民に雇われている農奴と呼ばれる土地を持たない者たちらしい。


「でも、ダニエルもその農奴ってやつなんだろ?」


 レオニダスは足を大きく開き腰を下ろした状態で、ビスキュイをひと欠片、口の中へぽいっと投げ入れた。開けっ放しの扉の向こうには、竈に火を入れる大きな背中があり、今彼が声をかけたダニエルその人である。

 口の中に転がってきたビスキュイを何度か噛むと、小麦の風味がふわりと鼻腔を抜けて広がっていった。これはこれで不味くはないが、如何せん二度焼きしているために口の中の水分をすべて持っていこうとする。


「……違う」


 後ろを振り返りもせずに、部屋の中からぼそりと低い声が返された。先ほどの小さな騒動のしばらく後に帰宅してきた彼は、口から生まれてきたかのように感情のままに言葉が次から次へと生まれていく妻と違い、どうやら寡黙な性質タチらしい。


「え、違ぇの? だって、土地持ちの奴らんとこ手伝い行ってんだろ?」


 砕け散ったそれらが口内に貼り付くのをどうにかしようと、舌を暴れさせ苦戦していると、頭上から木製のカップが差し出される。少年が軽く瞼を上下させ、ちらりと、その先にいる人物へと視線を持ち上げれば、赤毛を頭巾コアフに収めた妊婦の姿があった。

 ノーラ・ベッカーと名乗った彼女は、黄緑ライムグリーンの瞳を苦笑を滲ませている。


「まぁ、現状見たら、そう言われても仕方ないとは思うけどね」

「んじゃ元は違ぇって事?」

「レオ。おんしのその頭の中は、脳みその代わりにそれこそ小麦でも詰まっておるのかえ?」


 どこか涼しげな印象を与える声音で、温度の低い言の葉を投げつけてきた少女へと視線を流すと、彼女は、ちびちびとビスキュイを啄むように口へと運んでいた。そして、小さな欠片を口の中へと押し込むと、彼女はぺろりとその指先を舐める。

 真白い指の先にある小さな爪は全て黒く染まっており、それこそが魔女の証のひとつなのだという。キイチゴのような紅い舌先がそこへ這うと、赤、黒という魔女らしい禍々しさ――と言うよりも、今は正直、暑苦しさを感じる色彩が視界の端で揺れていた。

 決して、口に出しては言わないが。


「ここで女房がパン屋の女将をやっておるのに、その亭主が農奴のわけがなかろ。この阿呆め」

「…………あー、確かに」


 言われてみれば、その通りである。

 レオニダスは、思わず頷いてしまった事に自分自身、軽く苦笑を食みながら、「いや、つーか」と続ける。


「アホじゃねぇよ。ダニエルが農家で働かせてもらってるって聞いたから、じゃあ、農奴ってやつじゃねぇのかって思っただけだからな!」

「はは。まぁ、今は農奴ってやつをやってるけどね。うちの亭主の本業は、このパン屋だよ。ただ、ちょいと事情があってね。一時的に、日雇いで働かせてもらってるだけさ」

「姓がベッカーという事は……代々のパン屋かえ?」

「おや、アリスちゃん。随分、詳しいじゃないか」


 この黒づくめの魔女とパン屋の女将の会話によると、「ベッカー」という姓はパン屋に由来するものらしい。その初代は五代も前になるらしく、当時の国王直々にパンを焼く許可を得てその姓を与えられたとの事だ。

 外見だけで言えば、チンチクリンのガキンチョに過ぎないアリスは、その実、黒い爪が示す通り、人とは異なる系譜の生き物だ。レオニダスよりも何倍、何十倍も長い時間を生きている。

 もしかしたら、その初代とすれ違った過去というものも、あったのかもしれない。


(五代前っつーと……何年くらい前だ? 一代で…………って、ん? 一代って何年で考えるんだ??)


 脳裏で軽く計算しようとしたが、思考がこんがらがって結局やめた。

 アリスとあの日、炎に包まれた城塞都市で出会ってから早七年。

 当初、奴隷身分であった自分には、学というものはなかった。

 文字なんてものは自分には一生縁のないものだと思っていたが、彼女と過ごすうちにある程度の簡単な文字や、計算ならばこなせるようにはなっていたが――。


(ま、それでも、生活に縁のない知識はさっぱりわっかんねぇ)


 桁が大きくなった計算はわからないし、何より計算して答えを突き止めたところで、その時代の歴史がわかるわけでもないのだ。

 知らず、眉間に軽く皺が寄ったレオニダスのおもてを窺うように、彼の隣にある煉瓦の塀の上に座っていた彼女が軽く小首を傾げた。陽を受け、艶を増した黒の巻き毛が、彼女の薄っぺらな身体の傍でくるりと揺れる。


「何じゃ。小難しい顔をしおって」

「あー、いや。五代前ってのはどんくらい前かと思って」

「……そうじゃのぉ。百五十年、といったところかの」


 事もなげに言ったという事は、きっと彼女はその頃すでに生きていたのだろう。

 レオニダスの人生において、彼女との過ごした時間というのは決して短いと言えるものではなかったが、百五十年という途方もないように思える時間をさらりと紡げる彼女には、きっとこの数年など瞬きにも似た刹那の時間なのかもしれない。


「お前……、普段はただのクソチビとしか思えないけど、たまーにこうやってババア感出してくるよなぁ」

「……ほぉ」


 実際長生きをしており、喋り方も若いとは言えない。

 外見やその尊大で我儘極まりない性格を考えると、成熟しているとは言い難い為うっかり忘れそうになってしまうのだが。

 しみじみと呟き、ク、と喉の奥で笑いが鳴った。それを肴にエールを流し込むため、先ほどノーラから手渡された杯へと口をつけ、ぐいっと仰ごうとしたその、瞬間。

 パ、と刹那の内にそれが手の中から消え失せた。ほろ苦いエールが流れ込むはずだった唇が、ぽっかりと開かれたままで固まる。

 ちら、と肩越しに僅かに視線を流せば、予想通り、横に座るアリスの手の中に見覚えのある木の杯が収まっていた。奪われたと思う間も、その実感もなかったので、十中八九、魔法で一瞬のうちに自身の元へと転移させたのだろう。


「……おいコラ、クソガキ」

「おんしはいい加減、幼き乙女に対する扱いというものを学んだ方がよいぞえ」

「乙女とやらが人のモン、勝手に盗むんじゃねぇよ」


 両手でしっかりと杯を持つその横顔は、白い頬に長い睫毛の影が落ち、幼いながらも恐ろしいほど整っている。それだけに、この性格の悪さというものが腹立たしい。

 けれど、そのおもてが途端に顰められ、表情が動かなくなったのはとめる間もなく彼女が杯を煽った直後の話だ。


「……ほれ見ろ。だから言ったじゃねぇか」


 彼女はこのエールの苦みがどうにも苦手らしい。

 子供は確かにエールの苦みを嫌う人間も多いので、彼女の外見から考えればそうなってしまうのもわからなくはない。が、如何せん、中身は推定数百歳の立派なババアである。


「ま、俺への嫌がらせの為だけに飲めねぇもん飲むんじゃねぇっつー話だな」

「……ふん。このような苦いものを好んで飲む輩の方が、みんな舌がおかしいのじゃ」

「苦ぇ草やら何やら作ってんじゃねぇかよ、お前」

わらわの薬草と、斯様な代物を一緒にするでないわ」


 まだ口内に苦みが残っているのか、鼻筋に皺を寄せながら、何とも複雑そうに舌を転がしている少女に、レオニダスは呆れたように笑いを鼻で弾く。


「まぁクソガキは素直に、そこらの牛の乳でも飲んでろって事だよ」


 ベ、と舌を出しながら、膝の上にだらりと置いていた手を軽く持ち上げ、少し離れたところにいた牛乳売りとおぼしき少年へと声をかけた。すぐに彼は気づいたようで、大きな瓶が積まれた荷台をガラガラと押しながらこちらへと足先を向けてくる。


「おや。アリスちゃんは、もういらないのかい? それとも、口に合わなかった?」


 再度軽く火を入れ、温め直したらしいビスキュイをまな板に乗せたノーラが、室内から腹をせり出しながら出てきた。確かに、この黒づくめの魔女が食べた量は、この年頃のの子供を想定したとしても、恐らく相当少ない。少なくとも自分がこのくらいの年の頃は、彼女の数倍は食べていた気がする。

 もっとも、奴隷身分だったため、その日の食事量は主人の気分次第ではあったのだが。


「あー、違ぇんだよ。こいつ、あんま食わなくてさ。まぁだからクソチビなんだけどな。エールも飲めねぇし」

「たわけめ。わらわを規格外のように言うでないわ。どちらかと言えば、おんしが昔っから大食い過ぎるだけじゃ」

「言うほど俺、食ってねぇじゃん」

「昔、我が家の食料庫をあっという間に空にしたのは、どこのどいつじゃ」

「ははっ。まぁ、お腹すいてなきゃこっちはそれでいいんだけどね。ビスキュイだけで、礼にもならなくて悪いけどさ」

「この村は質のよい小麦を作っておるようじゃのぉ。なかなかに美味であったぞえ」

「つーか……、何でパン作んねぇの?」


 飢饉で小麦ないというのならば、パンが不足するという意味もわかる。

 けれど、この村の外れには、あと二、三ヶ月もすれば一面に黄金の穂が靡く光景が拝めそうなほど順調に育っている小麦畑が広がっている。さらに今、こうして他の農民たちが食している麦がゆオートミールから考えても、小麦の備蓄がないわけではないだろう。


(あー、そう言やぁ……)


  ――まともなパンを焼いて欲しけりゃ、ちったぁ小麦持ってこいってんだ!


 先ほどのノーラの言の葉が、不意に脳裡で繰り返された。

 地域や領主によっても多少は異なるだろうが、基本的に農夫たちは自身の畑で穫れた小麦を風車小屋で粉にし、その粉を持って竈を持つパン屋に行ってパンを作ってもらう。風車小屋は風車の使用料を、パン屋はその竈の使用料と持ち込まれた小麦の一部を農夫から貰い生活をしており、さらにその一部が税金として領主の元へと納められる事となる――という形が一般的だ。

 農夫たちが各家で竈や手挽き臼を持つことは禁じられており、風車小屋、パン屋含め農村全体が運命共同体となり、領主への納税を行っている。

 だからこそ、小麦の備蓄がないわけでもなく、村が貧しいわけでもないのに、パン屋に小麦粉を持って行かない状況というのは異様だった。


「そりゃうちはパン屋だからね。作れるもんならとっくに作ってるさ。でもねぇ、小麦粉を持って来て貰えなきゃ、作る事は出来ないねぇ」

「ん、……まぁ、そりゃそうなんだろうけどよ。つか、何で粉、みんな持ってこねぇの? パン食いてぇなら、持ってくりゃいいんじゃねーのか?」


「小麦粉が作れないんだから、しょうがないだろ」


 ――刹那。

 アリスから大分泡が消えたエールの杯を受け取りながら、ノーラへと訊ねたレオニダスへと、やや掠れた声がかけられた。少年は片眉の尻を器用に持ち上げ、石畳パヴェへと落ちている影を辿り、琥珀アンバーの瞳を這わせていく。

 そこにいたのは、両手で大きな瓶を抱えるを少年。

 年の頃は、レオニダスよりも二、三ほど若い程だろうか。

 先ほど彼が呼んだ、牛乳売りの少年だった。


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