第一章 風のない村

 一面に咲く勿忘草わすれなぐさの花の色を吸い上げたような空が、頭上に広がっていた。

 つい先日までどんよりとした鈍色だったはずの景色は、気づけば緑はどんどん濃い色になっており、陽射しは鋭さを帯び始めている。ツヤツヤの葉がキラキラと光を弾き、そのすぐ傍で踊るように枝を行き来しているのは、この春生まれたばかりの小鳥だろうか。

 ちらりと横へと視線を流して行けば、ところどころ漆喰が剥がれ落ち、内部の煉瓦が顔を出している建物が並ぶ区画が姿を現した。瓦を積んだ家もあれば、藁葺きの小屋もあり、大きさも様々なそれらを眺めていると、並行して足音を吸うばかりだった土の地面は、コツコツとした石畳へと変化する。

 建物の修繕が満足にされておらず、さほど裕福というわけでもないが、酪農で生計を立てているとおぼしき農家以外の人の住まう区画は、きちんと歩道で整備されており、小さいながらも商いが行われているようだ。

 そこから僅かに離れた場所には、大きな風車小屋も見える。さらにその先の、なだらかな坂道を経た丘の上にある白煉瓦の壁で四方が囲われている大きな屋敷は、この地域を治める領主のものだろうか。

 取り立て珍しさなど感じない、どこにでもある、ありふれた――ごくごく普通の農村に、のんびりとした足取りのふたつの人影があった。

 ひとりは、まるで陽射しをそのまま宿したかのようなブロンドの髪を短く刈り上げ、ふわふわと空に遊ばせる少年。年の頃は、十六、七といったところだろうか。

 琥珀アンバーの瞳は、その名の通り獣のようにどこかギラギラとした光を宿しているものの、そのおもてはいまだにどこか幼さを感じさせる。ひょろりと長い手足のせいで、背ばかりが伸びた若木を思わせるが、その実、素肌に外衣シュールコーを羽織っただけの上半身はまるで鍛え上げられた剣闘士グラディエイターのように硬い筋肉に覆われていた。

 その僅か前方を歩くのは、ブルネットの豪奢な巻き毛と長い睫毛の奥に菫色ヴァイオレットの瞳を持つ幼い少女。年の頃は、見た目を信じるのなら・・・・・・・・・・七、八歳ほどだろうか。

 性別も、年齢も、纏う色さえも違うふたりは、それでも当たり前のように歩幅を合わせ、石畳の上に足音を落としていく。


「あっつくねぇのか……?」


 不意に、半ば独り言のように少年――レオニダスが襟元へと指をかけながら呟けば、前方を歩いていた少女が肩越しに振り返り、ちらり、こちらへと睫毛の先を向けてくる。小さな肩口からくるん、と零れ落ちた巻き毛は、そのまま宙に遊ぶ事なく少女の背へと流れた。


「何じゃ。何ぞ言うたか?」


 完全に独り言のつもりだったので、反応を返されて一瞬口ごもる。

 果てしなくどうでもいい一言だった為に、一瞬はぐらかそうと思ったが、そんな事をすれば面倒くさくなりそうな予感しかなかったために、レオニダスは短く刈られた金糸の中に指を突っ込み、ガシガシと掻きながら口を開いた。


「……暑くねぇのかっつったんだよ」

「ほんに、相変わらず、息をするように弱音を吐くわっぱじゃのぅ」

「あ? 誰が、いつ、弱音吐いたよ?」

「冬が過ぎれば春が来て、その後に暑くなるのは自然の摂理じゃ。そもそもおんし、そんななりをしておるというに、今から暑いなぞと言っておっては真夏まで持たんのではないかえ?」

「俺の事じゃねぇよ。そうじゃなくって、俺が言いてぇのは、アリス、お前は暑くねーのかよって事だよ」


 肌に直接外衣を纏っている自身が他者よりも薄着であるという自覚はあるが、それでもただでさえ暑苦しい色合いの黒の踝丈の上衣コットに、さらにその上から引きずるほどの長さの外衣を羽織っており、さらに豪奢な巻き毛が背を流れる様は、彼女が言うところの自然の摂理にもとる出で立ちではないだろうか。

 それを指摘してやれば、彼女は長い睫毛をゆっくりと羽ばたかせた後に、わざとらしく「はー」と大きなため息を吐く。


「阿呆もここまで極めれば、ある種の才能じゃの」

「あ? だぁれが阿呆だ、このクソガキ」

「阿呆じゃからそう言うたまでの事よ。そもそも、暑いだの寒いだの、そんな些事にわらわがいちいち構うわけがなかろ。魔法で不快なぞとっくに取り除いておるわ」

「…………あー、そーかよ……」


 事もなげに言い放つそのおもては、明らかに呆れの感情を宿しており、幼子特有のあどけない可愛らしさよりも、造作の美しさの方が遥かに際立っているせいだろうか。率直に言わせて頂くならば「ひっぱたきたい」の一言に尽きる。

 もっとも、この魔女相手にそんな事をやった日には、何十倍にもなって我が身に返ってくるという事を、出会って以降、身をもって痛いほど学んだので思うだけに留めておくが。


「ただ……」


 少女は自身の肩から背でふわふわ揺れる黒髪へと、睫毛の先を向け、日頃、巨大な宝玉か何かかと思うほどの大きな瞳をすぅ、と細めた。

 けれど。


「腹が減ったのぅ」


 何かを探るように細められたアリスの菫色の瞳は、次の瞬間ぱっと持ち上げられる。そして同時に唇から出てきた一言は、一気に先ほどの意味ありげな言の葉を置き去りにしていた。

 レオニダスの知りえぬ「何か」を、彼女が勝手に感じ取り、思案する事。

 その結論をレオニダスと共有するかどうかは、彼女の気まぐれによってあったりなかったりだ。出会ったばかりの頃は、彼自身、十歳ほどの子供だったせいか彼女の秘密主義ともいうような態度に信用されていないのかという不満があった。


(でもま、それは単純にこのクソガキの性格が我儘で身勝手、気まぐれで傲慢なだけで、俺がどうこうって話じゃねぇんだから、悩むだけ無駄だな)


 わかる事は、いまこうしてこの幼いなりをした魔女が自身の傍にいる事。

 ただそれだけでいいのではないか。

 それもある種の信頼の形と思えばいいのではないか。

 彼女と出会って、早数年――。

 レオニダスは、ある意味、彼女との関係について開き直るようになっていた。


「あー、もうすぐ正午だしな」


 だから、少年は急に飛んでいった彼女の言の葉をそのまま受け止め、頭上に輝く太陽へと目を細めた。


「そこの区画、多分、村の中心部の商店街だろ。行くか?」


 レオニダスが親指で石畳の続く先へと指差せば、黒髪の少女は「そうじゃのぅ」と革靴ブーツの音をそこへと弾ませた。

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