ノワール

 

 その時、俺はひとり。彼の住まう場所へと足を踏み入れた。時間はわからないが外はとても暗く、通り抜ける風が低く唸っていた。

 いつも通りの部屋の戸は驚くほどに冷たかった。中をひらくと、ぞっとするほどの冷気が体の中を吹き抜け、まるで内臓が震っているような感覚に囚われた。

 明かりの消えた部屋は真っ暗だった。

 闇の中、青白く灯った液晶の光が、壁に人の陰影を映し出している。だらりと両腕を下に垂らし、まるで虚脱した身体は全く動く気配がなかった。

 すると、猫の鳴き声が聞こえてきた。金色の目をした黒猫が闇の中からじっと見つめている。こちらがそれに気が付くなり、猫はすぐに背を向け部屋の奥へと立ち去った。

 こっちへ来い、とでも言っているのだろうか。

 床の軋みを一つ一つ踏みしめながら、廊下の角を曲がった。

 行儀良く座る黒猫は、ちょろちょろと尻尾を動かしながら、その人を不思議そうに見上げていた。その人は両足をカーペットから離して空中に静止していた。首の力一つで体を浮かして、それにどれだけの体力を使うのか、彼の表情が物語っている。飛び出した両目、口からは大量の吐物を撒き散らし、いつもの穏やかな彼からは想像もできない形相だった。持てる全ての苦しみを噴き出したかのような顔は、もはや化物にしか見えなかった。

 ひたすら、恐ろしかった。悲しみなんてものは一握りもない。

 秒ごとに激しさを増す動悸が頭のほうまでバクバクと響いて脳味噌を揺すった。思考はごちゃごちゃになり、掻き乱され、もうなになんだかわからない。

 そこで一鳴き、黒猫が「にゃあ」と発した時には。もう我慢の限界だった。


「うわぁわぁあぁあああぁあ。あっ、あ、あ、あぁああぁぁぁぁぁぁ……



 慌てて体を起こすと、横からカップラーメンの山が崩れてきた。

 必死で容器を払い除けて、ここから逃げ出したい一心でもがいた。だが、ここは静かだった。知らない部屋、すこし温かみのある空気が体に優しく、心臓の高鳴りだけが場違いに騒いでいるのだった。

 冷たい汗が首筋を伝う。背中も汗でびしょ濡れになっているようだ。

 横を見れば白いシーツのベッドに金髪の少女が浅い寝息を立てぐっすりと眠りについていた。とりあえず、今の音で彼女を起こしてしまわなかった事に安堵する。

 時計の針は午前二時。まだ深夜も中盤だが、このまま目を瞑ってもう一度横になると、またあの日の彼の部屋を覗いてしまいそうで、もう少し起きて落ち着くのを待つことにした。


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