(5)
バケモノは、あのときたしかに必要だった。あのときたしかに、必要とされていた。国土を防衛するだけでなく、敵国へと攻め上がれたのは、ひとえにバケモノのお陰であった……と、思っているのはもしかしたら世界に俺だけかもしれないと時々思う。
味方の畏怖と、敵の恐怖。それを一身に受けて、俺たちは地を駆けた。けれども今はもう、すべて昔の話だった。
前線の、特に酷い地域に配置された帰還兵は黙して語らず、そんな現実を知らない無邪気な人々は戦勝に沸く。前者の人々を責められはしないのは、俺が彼らと同じだからだ。勝利を肴に酒を飲む気になれなかった。どうしても。
どうしても、失ったものにばかり目が行って、得た勝利がちっぽけなものに思えてしまったのだ。世間においてはその両者は逆だということを理解しながら。
父王に乞われたからとはいえ、この国にバケモノを授けた先生を恨んでいるのかどうかは、自分でもわからなかった。けれども現実として、俺は先生が生きていたことにほっとしていた。
俺たちにバケモノとしての戦い方を教えてくれた先生ならば、きっと俺に恐れなど抱きはしない。そういう確信があったから、俺は先生に会えて、戦後の窮屈な世界で、久しぶりに呼吸ができたような気になれたのだ。
それにやはり、バケモノになることを選んだのは、結局俺の意思だった。仲間たちだってそうだ。もしかしたらその身には、俺のように父に愛されたいというような野心があったかもしれない。けれども結局、俺たちは自分の意思でバケモノになる道を選んだ。
たしかに適性があると集められた時点で、半ば国によってバケモノになる道を決められていたようなものだが……少なくとも、俺の仲間たちはだれひとりとして文句を言いはしなかった。みな、国のため、そこに暮らす家族や友人たちのために、バケモノとなって戦うと決めたのだ。
その尊い意思を、「もしかしたら」という臆病な心で
ああ、そうだ。仲間たちは高潔な意志のもと死んで行ったのだと――せめてそう、思いたかった。そう思いたくなるほどに、戦争の現実は酸鼻を極めていた。
だれもかれもが死んで行った。俺も、死んでもおかしくはなかった。実の息子だからと言って、父が手心を加えるはずもなく、俺は前線を駆け巡った。
必死で、必死で、必死で――。
生き残るためには目の前の敵兵を殺して、殺して、殺し尽くすしかなかった。
正直に言えば、仲間を助けようとか、気遣ってやろうというような余裕は、俺からはどんどんと失われて行って、戦争の末期にはもはや自分のことしか考えられなくなっていた。最後の仲間が死んだと聞かされたときにも、「ああ、そうか」としか思わなかった。
ただただ、「早く戦争が終われ」と思っていた……。
そして戦争は終わった。
俺たちは勝った。
俺以外のバケモノになった仲間は、全員死んだ。
戦争が終わって体を休める余裕ができてから――俺の心は壊れてしまった。
ただ悪夢の感覚だけが残ったように日中は戦時の記憶はもやがかっているのに、一度夢の世界へと入れば封じたはずの記憶が鮮明に蘇る。夢の中で何度も何度も何度も、終わりのない悪夢を経験するうちに、俺の心は壊れて行った。
後悔だらけだった。もっと、仲間たちに気を配れなかったのか――たったひとりでもいい。救えは、しなかったのか……。そんな詮ないことを考える。
先生のことを思い出さなかったわけじゃない。ただ、生きているのかどうかわからなくて……もし、死んでいたとすれば、それを知るのが怖くて。俺はいつしか戦時中の記憶と共に、先生の存在を心の奥底に押し込めて、見ないフリをするようになった。
けれども、先生は生きていた。生きていて、俺の元へとわざわざ会いにやってきてくれた。
俺たちをバケモノにした先生自身が、俺たちがたどったその末を、どう思っているかはわからない。先生の顔色をうかがおうにも、その表情があまりになさすぎるから。……そういうところは、戦前からずっと、変わっていない。
先生と出会ってぶつけた恨み事は、世間が俺たちを忘れ去って行くことへの恨み辛みが原動力だった。くさいものにフタをして、なかったことにしてしまうことへの鬱憤を、俺は先生にぶつけたのだ。
そこには先生に対する「甘え」みたいなものがあったのだと、振り返って思う。心のどこかで、俺は先生ならばこの恨み事を受け止めてくれるだろうと思っていたのだ。
先生が本気で怒ったところは見たことがなかった。先生は、俺たちを心の底から慈しんでくれていた。
俺たちをバケモノにしたのは先生で、バケモノとしての戦い方を教えたのもまた、先生だった。しかし、だからと言って先生だけを恨むのは違うような気がした。
いや、もしかしたら俺はそう思いたいのかもしれない。バケモノの俺たちを未だに覚えていてくれている先生を、失いたくないがために、都合のいい部分ばかり見ているのかもしれない。
けれども今の俺にはどうでもよかった。ただ、先生が生きていて、それで俺たちのことを忘れていなかったことが、今はただうれしい。うれしいのだ。
薄暗い部屋、片側を閉じた両開きの鎧戸の、陽光が差し込む窓からそっと中庭を見やる。窓から見下ろす先には、先生がいた。梯子に脚をかけて木の枝を刈り込んでいる庭師にぴたりとくっついて、時折なにか会話を交わしている。当たり前だが、ここからではなにを話しているのかまでは聞こえない。
庭師の仕事ぶりを眺めているのは楽しいのか、先生の横顔はいつもより明るい気がする。そこまで思って、先生の無表情な顔を少しばかり暗く感じたのは、俺を心配していたからかもしれないと思った。
庭師になにを聞いているのかはわからないが、好奇心旺盛な先生のことだ。庭師の仕事について熱心に聞いているのかもしれない。
俺は先生が中庭にいることを確認し、屋敷の離れにある使用人小屋へ足を向けた。
「――あら? 旦那様? いかがされました?」
使用人小屋とは言っても、中流階級の屋敷程度の広さがある立派な家である。俺の元に未だに残ってくれている使用人は全員、この使用人小屋で暮らしていた。
不平不満、文句の一つくらい俺に言いたいことがあるだろうに、俺の古くから知る古参の使用人たちは、なにも言わずに未だこの使用人小屋で暮らしてくれている。
それは俺への哀れみか、あるいは忠誠心がそうさせているのか、はてまた単に他に行くところがないからなのかは、わからない。
それでも俺の顔を久々に見ただろう、もう老齢に差しかかったメイド長は、まるで昨日会ったばかりとでも言いたげな態度で、きょとんと俺を見た。
俺はしばらく黙り込んだ。俺の頭の中では、ぐるぐると言葉が渦を描いて回っている。なにか言わなければならない。そのためにわざわざここにきたのだ。いつまでも甘ったれて、相手から欲しい言葉が出てくるのを待つのは、よくないことだ。
「その……」
「はい」
「色々と……すまない」
ああ、駄目だ。こんなんじゃいけない。
自分自身が嫌になって、自己嫌悪にまみれて、俺の涙腺が緩み始める。心が壊れたと同時に壊れてしまった涙腺は、ことあるごとに俺の頬を濡らす。それは俺には完全に制御できない機序となっていた。
泣いたってどうにもならないと自分を叱咤するが、目頭が順調に熱くなって行くのを感じた。その情けなさに死にたくなった。使用人の前だから醜態を晒したくないというわけではなく、たとえ先生を相手にしていたとしても、俺は自分を情けなく思っただろう。
深呼吸を幾度か繰り返して、どうにか涙を流すことを押さえ込もうとする。
そうしている時間はひどく長く感じられたが、実際にはほとんど一瞬だった。
老齢のメイド長はまた何度かぱちくりと瞬きをしたあと、にっこりと人懐っこい笑みを浮かべる。深い皺が刻まれた頬が笑みに動くのが、なんだか新鮮な気がした。
「どうってことありませんよ。困っているのは、わたしたちの仕事がほとんどないのにお給金を貰ってもいいのかって思っているくらい」
「……本当にすまない」
頭を下げるべきかどうか悩んだ。状況としては偉ぶるのも違うが、ことさらへりくだるのも変だ――といったところだろうか。俺が頭を下げればメイド長は恐縮するだろうし……。そうやってあれこれと考えているうちにメイド長が言葉を続けた。
「謝らなくてもいいんですよ、これくらい」
「『これくらい』……ではないだろう」
俺が戸惑いと困惑の入り混じった声でそう言えば、メイド長は「ふふふ」と笑うばかりだった。
俺は気まずさからメイド長の目を見ていられなくて、右斜め上へと視線を泳がせる。
「……先生には会ったか」
「あの銀髪の綺麗なお方ですか?」
「そう。そうだ。昨晩はここに泊まったと聞いたが……」
「ええ。母屋の方に寝る場所はないでしょうと言って……。いけませんでした?」
「いや。ありがとう。助かった」
実際に助かった、というのは純然たる事実だった。昨日の俺は先生を突き離すばかりで、先生の寝床に気を配る余裕はなかった。今思い出しても恩師に対する態度ではなく、後悔ばかりが押し寄せてくる。先生は「気にしていない」と言っていたが……。
「それで、やっと掃除をさせてくれる気にでもなりましたか?」
「えっ?」
「あら、そのために使用人小屋にきたのではないのですか?」
「それは……」
今のままではよくないというのは、俺が一番身にしみて感じている。感じてはいたが、今までの俺はそんな現状を変えるほどの気力を持っていなかった。だから、延々と先送りにしていた。
けれども先生と再会して、それではいけないと思ったのだ。だから、今日使用人小屋に足を運んだ。しかし――。
「それは……もうしばらく待ってくれないか」
俺から出たのは、間違いなく情けない声だった。まだ、他人が屋敷をうろつくことに対して、ストレスを感じる自分に気づき、躊躇の心が膨れ上がる。その結果、出たのはなんのために使用人小屋へと足を運んだのかわからないような言葉だった。
メイド長はため息にも満たないような、「ふっ」と息を吐く。
「衛生面が非常ーに気になりますが……まあ待ちましょう。でも『しばらく』ですよ。『しばらく』経てば掃除しますからね!」
「本当にすまない……」
メイド長はわざとらしく明るい口調でそう言ったあと、ニッコリとまた顔に深いシワを作って笑った。
「『しばらく』待ちますが……客室と廊下だけは掃除をしても構いませんね?」
「え?」
「『先生』が泊まれないでしょう! お客様を使用人小屋に泊め続けるおつもりですか?」
「あ、ああ……そうだな。そうか……。それでは……そこだけ、頼む」
しどろもどろになった俺を押し切って許可を取り付けたメイド長は、ニッコリと満足げに笑った。
俺はそれに後ろめたさのような、情けなさのような、そんな複雑な感情を抱くと同時に、俺を依然として主人と扱ってくれるメイド長に感謝の念を抱いた。
「ありがとう。色々と気を回してくれて……助かる」
「こんなの気を回したうちには入りませんよ! それよりも『しばらく』したら掃除はさせてくださいね?」
「あ、ああ。約束する」
「それならいいのです」
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