第17話 “婚約者”の香り 前
「じゃあ、お邪魔します」
「はい、どうぞ」
マラソン大会終了後、由弦は愛理沙と共に帰宅した。
尚、昼食に関しては既に弁当を食べ終えている。
「疲れましたね」
愛理沙はカーペットに腰を下ろすと、そう呟いた。
長い脚を伸ばし、ぐったりとしている。
と言ってもあくまで疲れている“ポーズ”であって、疲労困憊しているわけではなさそうだが。
「あぁ……そうだね。勝負なんてするもんじゃない」
「最後、接戦でしたね」
「ああ。君の応援がなければ負けていたかもね」
由弦がそう言うと愛理沙は大きく目を見開いた。
そして尋ねる。
「……聞こえていたんですか?」
「どちらかと言えば、してくれているような気がした」
愛理沙の声が直接、聞こえたわけではない。
しかし愛理沙が由弦を応援してくれていることは直感的に分かった。
愛理沙は由弦の返答を聞き、恥ずかしそうに頬を掻いた。
「そ、そう……ですか。その、本当は亜夜香さんたちみたいに大きな声で、その、ご声援をしようかと思ったんですけど、ちょっと、恥ずかしくて……」
「気持ちは伝わったから、大丈夫だよ」
そもそも愛理沙が由弦に対して大きな声で声援を送れば、クラスメイトも由弦と愛理沙が恋人……に近しい関係であることに気付くだろう。
それは少し早い。
「と、ところで、由弦さん。そ、その……お、お風呂、なんですけれど」
白い肌を薔薇色に紅潮させ、僅かに上擦った声で愛理沙はそう切り出した。
由弦は頷く。
「ああ、もう沸いていると思うよ。来る前にタイマーをセットしておいたから」
「そ、そう……ですか」
どういうわけか、愛理沙は上目遣いでチラチラとこちらを見てくる。
何かを言いたそうにしているが、しかし躊躇して言えない。
そんな雰囲気だ。
「どうした?」
「い、いえ……な、何でもないですけど……」
「一番風呂が良いとか? 俺は別に構わないけど」
できれば一番風呂が良い。
けれど家主である由弦よりも先に湯舟に浸かりたいと言いだし辛い……
そういうことだろうか?
と思いながら由弦は内心で首を傾げる。
しかしそのくらいのことなら躊躇はしても恥ずかしがる理由は分からない。
「そ、そうですか! では、先にいただきますね!!」
だが由弦の問いは正解?だったようだ。
愛理沙は少し慌てた様子で立ち上がった。
「その、入浴剤も入れて良いですよね?」
「ああ、良いよ」
それから愛理沙は脱衣室へと消えていく。
しばらくしてシャワーの音が聞こえてきた。
「……落ち着かないな」
愛理沙が由弦の家の浴室を使うのはこれで二回目。
だが妙に落ち着かない。
と、そこで由弦は気が付いた。
愛理沙は着替えもタオルも準備せず、浴室へと消えてしまったことに。
仕方がないので、由弦は愛理沙の鞄を持って浴室まで向かう。
浴室の扉は曇りガラスになっているので中は見えない……が肌色は僅かに見える。
由弦は思わず息を飲んだ。
(……べ、別にやましいことをしようってわけじゃない)
由弦は心を落ち着かせながら、扉をノックした。
「おーい、愛理沙」
「ふぇ? ゆ、由弦さん!? だ、ダメです、ダメですよ!! さ、さすがにそれは……」
「何を言っているんだ、君は……」
曇りガラスの向こう側でキャーキャーと悲鳴を上げる愛理沙に対し、由弦は落ち着いた声で言った。
すると愛理沙も冷静になったらしい。
わざとらしい咳払いが聞こえてきた。
「ごほん、えっと……何でしょうか? 覗きに入るつもりなら、水を掛けますけど」
やや冷たい声で愛理沙はそう言った。
一見すると冷静沈着であり、そして同時に由弦を警戒するような声音。
……だが何かを誤魔化しているように感じるのは、由弦だけだろうか?
「入らないよ。……着替えとタオル、忘れただろ?」
由弦がそう言うと、浴室の方から納得の声が聞こえてきた。
「あー、持ってきて貰えます?」
「鞄は持ってきた。この中に入ってるんだよな? どうする? 出した方が良いか?」
愛理沙がどこまで着替えを持ってきたのかは分からない。
だがもし替えの下着などを持ってきていたら……それを男に見られるのは恥ずかしいだろう。
念のため由弦は愛理沙にそう尋ねることにした。
「そうですね。濡れた手で鞄を漁りたくないですし、出してもらった方が……」
とそこまで言いかけて。
「あああああ!!! ダメです、絶対にダメです!! 開けないでください!!」
愛理沙は大声で叫んだ。
思わず鞄を開きかけた由弦の手が止まる。
「お、おう……そうか」
由弦は素直に鞄を扉の前に置いておくことにした。
「見てないですよね?」
「見てないよ」
「……絶対に、絶対に見ないでくださいよ? もし見たら由弦さんのこと、嫌いになりますからね!!」
「……分かりましたよ」
そこまで言われると逆に傷つく。
由弦は少し消沈しながら、脱衣室を出ようとして……ふと、気付く。
愛理沙の抜け殻が落ちていることに。
慌てていたのか、それとも案外ズボラなのか。
かなり乱雑に脱ぎ散らかしている。
上下のジャージと、汗で湿った体操服。
ショーツとブラジャー、キャミソールのセットが落ちていた。
「……」
愛理沙は良い匂いがする。
それは由弦が愛理沙のことが好きだから良い匂いがするのか、それとも元々良い匂いがするのかは分からない。
とにかく、由弦にとって愛理沙の匂いは良い匂いなのだ。
そして今日は特に良かった。
シャンプーと汗と清涼剤と女の子特有の匂いが混ざった香りは、帰り道に何度も由弦の本能を刺激した。
そして目の前には半日、愛理沙が着た抜け殻が落ちているのだ。
びっしょりと、下着が透けて見えてしまうのではないかと思うほど汗を掻いたそれは……言うまでもなく、強い“愛理沙の匂い”を持っていることは間違いない。
お風呂から上がった愛理沙からは、すでに“愛理沙の匂い”の大部分は落ちてしまっているだろう。
勿論、それはそれで良いのだが……
もう、今日は愛理沙の匂いを嗅ぐことはできないのだ。
そう考えるととてつもなく惜しく感じる。
目の前の抜け殻を素通りすることが。
「……大体、何だ。鞄を開けたら嫌いになるって」
いくら何でも酷いじゃないか。
見られたくないなら、持ってくるべきじゃない。
由弦は先ほどの言葉で少し傷ついた。
なら……仕返しをする権利があるのではないだろうか?
「というか、愛理沙が悪い。そう、君が悪いんだ。大体、男の部屋に無警戒に上がって、こんな風に服を脱ぎ散らかすなんて、全く、怪しからん。天城家の教育はどうなっているんだ」
そんなことを呟きながら、由弦はしゃがんだ。
目の前には愛理沙の抜け殻がある。
「……俺は悪くない。悪いのは愛理沙だ。全く、本当に悪い子だ」
そんなことを言いながら。
由弦は愛理沙の体操服を手に取った。
それは僅かに湿っていた。
そして……
それを鼻先に付けた。
「はぁ……何やってるんだよ、俺」
その後。
由弦はソファーの上でぐったりと座り込みながら、自己嫌悪に陥った。
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