小幕間.途絶える痕跡


 喰いちぎった肉を洗い、事前に渡されていた容器へと移す。


 ──どうして俺はアイツの肉を喰い千切った?

 自らの口腔こうくう内を洗浄しつつ、感じた疑問の答えを考える。しかしそれらしいモノは見つからない。幾らか考えたところで答えは見つからないし、それに対する言い様のない不安だけが増大していく。

 依頼内容を達成するのであればアイツの血を抜くだけでも良かった。なのにどうして俺は首筋に噛み付いて、その肉を喰おうとしたのだ。

「……クソッタレ、なんだってんだよ」

 何度口をすすいでも消えない味、それはアイツの血と肉の味。

 ……多少の加虐趣味サディズムがあるのは理解しているが、生きたまま喰うなんて趣味はなかった。なのにどうしてこんなにも俺はたかぶっている?

 生きた亜人種ドウゾクを食うなんて事は初めてだし、あの時の俺はどうかしていたとしか言いようがない。アイツの肉を打つ度、あらががたい欲求がつのっていくのはわかっていた。だがそれは食欲ではなく、何時もの加虐心の筈だった。

 ──……口をすすぐのもこれで何度目だ?

 アイツの血と肉の味が口の中から消えない、そして恐ろしい事にもっと味わいたいと思う気持ちすらある。だが、両手を縛られ吊るされているだけのアイツがなにか酷くおぞましい化物のように感じているのも確かだ。

 あれを口にすれば身を滅ぼす事になると、理性では理解しているが本能は破滅へと走ろうとしている。自滅すらいとわない程の強い欲求……いいや、これはそんな生易しいものじゃない。アイツの血肉にえているといって言い、俺は今一種の飢餓きが状態にあると断言しても良い。


 ──美味そう。だけど、こわい。食べちゃいけないのに、もっと、タベ、タイ──


「──随分と酷いことをするなぁ、黒髪の旦那」

「……オマエ、ハ」

 イカれた思考に飲み込まれつつあった俺を正気に戻したのは、この場にそぐわない軽快な口調。緊張感などまるでない、気の抜けた声の主は本件の依頼人だった。

 彼は初めて会った時と同じように、デフォルメされた獣面メンを外さず瀕死の紫蘭へ近付いていく。

「これじゃせっかくの美人が台無しじゃないの、可哀想に。

 痛かったろう、紫蘭」

 かすれた竹笛に似た呼吸を繰り返す彼女が動く様子はない。獣面の男が彼女の顎を軽くつまみ、顔をあげさせるが彼女はなんの反応も見せなかった。脂汗により額へ張り付いた前髪の隙間から見えた彼女の瞳に生気せいきは薄く、ハイライトは消えかかっている。


「……旦那よぉ、こいつの血肉は旨かったか?」

 黒髪に背を向けたまま獣面が問う。その声に先程のような飄々ひょうひょうとした感じは一切含まれておらず、代わりに静かな怒りの炎が宿っていた。

「S5レ、H1……A,aaa……?」

 黒髪の口から紡がれたのはいびつな言葉のような音。イントネーションは崩れ、辿々たどたどしい迷いのあるしわがれた音声を言葉として認識出来るモノは何処にいようものか。

 黒髪が戸惑いながら、自身の両腕を見比べる。そこにあったのは見慣れた腕ではなく、腕のようなうごめく太い肉の塊。自らの意思とは関係なく脈動する血管と肉腫にくしゅを目にし、彼の理性は崩壊したらしい。

「──Ua,g1……ooo,ooooooooaaaaa!!」

 最早亜人種のかたちを失った黒髪は、叫びと共に変質した己の肉体を暴れさせる。振るった腕は幾重いくえもの触手に別れ、それらは獣面の男と紫蘭を目掛けて一直線に飛びかかった。

「──たったあれっぽっちを口に含んだだけでここまで崩れるかよ、おっかねぇな」

 獣面の男はふところから細身の短剣を二つ抜くと目にも止まらぬ早さでそれらを操り、向かってきた触手を細切れにしてしまう。肉体の一部を一瞬にして細断さいだんされた元黒髪は激高げっこうし、残るもう一方の触手を突き出してきた。

「加えて知能も低下せり、と──!」

 しかし同じ手が通用する筈もなく、突き出された触手は同じ末路を辿る事となった。両腕を喪失した怪物が困惑した一瞬の隙に、瞬間移動を疑う程の俊敏さで男は接近。

「──口にすべきじゃないって、忠告したのにな」

 寂しげな口調で言葉を漏らした直後、獣面の男は一切の躊躇ためらいい無く短剣を振り抜きその首を切り飛ばす。

 切り飛ばされた首は放物線を描いて飛び、地面に落ちた後も暫く転がっていく。人としての顔は崩れ、その輪郭を溶かした醜い頭蓋は何が起きたのかすら理解できていないようであった。

 首を無くした肉体は断面から黒く濁った血を吹き出して倒れると暫くの間、おりのようによどんだ血液を垂れ流し続けていた。


「さて、と……」

 獣面の男は剣に付着した血を振り払い紫蘭の拘束を解く。余程長い時間吊られていたのだろう、手首周辺の皮膚は擦り切れうっすらと血が滲んでいた。

 ──足が着き難いだろうと踏んで深層街アビス破落戸ごろつきを雇ってみたが、これなら一人でやった方が断然マシだ。余計な傷もなく、穏便に済ませられたのならほんの少しでも観光する余裕は持てたというのに。

「まぁ確かに、血よりも肉片の方がありがたいんだけどねぇ」

 そう。確かにありがたいのだが、此方が被るリスクが大き過ぎるのだ。

 それにこのまま傷付いた彼女を放置すれば、間違いなくこの国は再建不能な程の被害を受けるだろう。正直なところ、亜人種共サルどもの国が一つ消える程度どうでも良いのだが今は不味い。あの堕天使様テンシサマがいる間にやらかして面倒事をこさえる余裕なんてものは、今の俺達にないのだから。



 ──衰弱しきった紫蘭と彼女の肉片を積めた箱を手に、獣面の男は現場を後にする。

 ……この深層街の住人にとって大事なものは己の利益になり得るものかどうか、ただそれだけ。だから、見慣れない背格好をした彼を気に留めるものは一人として居らず誰も彼もが無関心を貫いていた。




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