第13話 襲撃
魔物の大群と人型の魔物が現れたこの異常事態に、天使が姿を現すことがなかったと姉妹からは聞いている。姉妹の言う通りこれは明らかに異常な事態だ。一晩経ってしまったが、この騒動に関するなにかしらの痕跡や異常があるかもしれない。そう考えて私は娘と共に村を散策している。
そうして歩き始めてからと言うものの、娘は何も喋らなかった。時折、私の手を握る手が震えたりする位の反応しか示していない。
──この光景は、娘の目にどう映っているのだろうか。子供に被災現場を見せるのは良くない、という意見もわかるが私は反対だ。たしかにこんな光景は気持ちの良いものではない、毒として扱われても仕方ないものだろう。
しかしこの世界で常に起こりうる光景である以上、避けては通れないものである事も確かだ。ある程度は慣れておかないといざと言うときに動けないし、助かる命も助からなくなる。
だから、この光景は見せなきゃいけないと思って娘を連れ出した。血を見て失神したり、死体を目にして脚がすくむようじゃこの世界は生きていけないから。
──とはいえ、知りすぎるのも良くないのは確かだと今回の一件で改めて思った。私たちが子供へ戦う術を教えていなければ、脅威を教えなければ子供たちは自殺しなかったのかもしれない。
けれど、それでは助からなかった命がある事も確かなのだ。私達はどこまで教えて、どこから先を教えないようにすれば良いのだろうか──
惨状に目を向けつつ逡巡していると、後ろから服の裾を引っ張られた。目を向けると、不安そうな顔をした娘が此方をじっと見ている。
「ごめん、ちょっと考え事してて。どうしたのゆかり?」
「あっち、なんだか凄い嫌なにおいがする」
娘が指さす方向にあるのは村の避難所。切り立った崖の麓にある天然の洞穴を利用したものであり、今は封鎖されているが海へ抜ける道もある。村長姉妹いわく、その道は崩落の危険性が高いという事で6年前に封鎖してしまったらしい。一度案内されたが、鉄格子と鎖で封鎖されておりとても通れるような状態にはなっていなかった。
娘は尚も服を引っ張り続けており、それは徐々に強くなっている。
「ゆかり、嫌な臭いってどんな臭い?」
「お母さん、わからないの?
すごく嫌な臭いなのに、こんなにも濃い海の臭いなのに!」
海の臭いを知っているなんておかしい。この子は、産まれてから一度だって海に連れて行ったことが無いんだ。それなのになぜ海の臭いだとこの子は言っているんだろう。娘の言うことに一抹の不安を覚えつつ、周囲の臭いを嗅いでみるがそんな臭いはしなかった。
「……海?
なにを言っているの、ゆかり。海の臭いなんてしないよ?」
「いいから行こうよお母さん、あれはダメな臭いなの!」
必死の形相で引っ張る娘に連れられるまま、もう誰も居ないはずの避難所へと向かう。そうして避難所の入り口に立った瞬間、海のような香りが私の鼻腔を刺激した。それも、膿んで腐った
先に進もうとする娘を引き留め、私が先頭となって薄暗い通路を進む。天然の洞穴なので地下水が染み出ており、足元は非常に滑りやすい。
「ゆかり、足元に気を付けてね」
「うん……お母さんも気を付けてね」
それにしてもこんなに濡れているのは珍しい、雨が降った後ならわかるのだがここ数日雨が降った記憶はない。子供たちの遺体を運ぶ最中に垂れた血液かと思ったがその線は無いだろう、もしそうだとしたら乾いているはずだ。いくら湿りやすい洞穴とはいえ、一日経っても濡れているなんて考えにくい。
思案しつつ気を付けて進むと、二手に分かれた通路へとたどり着いた。これを右へ進めば大広間へと行けるが、左へと進んだ場合は件の封鎖された通路へと向かうことになる。万が一にも間違えないようにと、左の通路には立て看板が立てられているのだが──
「なに、これ……」
立て看板は無残にも踏み砕かれ、木片となって通路上に転がっていた。ふと、通路の奥からは嫌な風が吹き抜けた。それは澱み膿んだ腐敗臭の交じった潮の臭い、嫌な気配は通路の奥から漂って来ている。娘を立て看板の所で待たせ、恐る恐る足を踏み出し扉の確認へと向かう。じっとりと肌に纏わり憑く嫌な気配は通路を進むごとに強くなっている。
そうして進んだ先にあったのは砕かれ散らばった鎖と鉄格子の破片、塞がれていたはずの通路は開け放たれていた。落ちていた鎖を拾い上げると、それには磯臭いぬめりのある液体が付着している。
──躊躇うな、殺せ!──
その臭いを嗅いだ途端、釘で刺されたかと思う程の頭痛と共に脳内で響いた男の声。声と共に蘇った男の顔に覚えはある、けれど詳しくは思い出せない。けど、あの臭いの主を野放しにしてはいけないと本能が叫んでいた。急ぎその場を離れ娘の元へと戻る。
「ゆかり、さっきの嫌な臭いは何処へ行ったかわかる!?」
「わかるよ!
ええと、……今は教会の方に向かってる!」
教会、その単語を耳にした瞬間に私は娘を脇に抱え全速力で駆けていた。娘の感じた方向から確かな気配を感じる、先程までは全く感じられなかった臭いを今はこんなにも強く感じるのだ。
教会へと近付くにつれて濃くなる独特の悪臭、間違いなく件の存在へと近づいている。教会に火の手は上がっていないと安堵しかけたその時、硬質な物を打ち合う音が響き渡った。
「……お母さん、嫌な臭いの元はアイツだよ」
音がした場所は教会前の広場、そこで姉妹が魔物と思わしき生物と戦闘を繰り広げている。その魔物らしき何かを娘は指差しており、そいつからは確かに嫌な臭いが漂っていた。
「他には居ないか……ゆかりは此処で隠れてて。何があっても出てきちゃ駄目だよ」
「お母さん、気を付けてね……!」
周辺に魔物が居ないことを確めてから娘へ物陰に隠れるよう指示する。
攻め入る機を窺いつつ件の魔物を観察してみるが、そいつは今までに見たことの無い造形をしていた。十字に割れた口のような器官、捻れた幹のような細い体を支えるのは二本の針のような脚。あれでよくバランスが取れるものだと思う。そして捻れた胴体からは八つの触手が伸びており、それらはヒトデのような印象を受ける。
魔物は八つの触手を器用に操り二人を翻弄し、時折子供の笑い声を思わせる奇声をあげて笑っていた。
「なんなんだよ、こいつ!」
「こんなの、知らないわよ!」
魔物は触手を鞭のようにしならせ
可能な限り音を立てないように移動しつつ魔物の背後を取る。アイツの何処に目があるのかは知らないが此方に気付いた様子はない、攻め入るとしたら今だろう。短剣の柄を握り締め、一呼吸ついてから一気に駆け出す。
まだ相手が気付いた様子はない、あと一歩で確実に刃が届くところまで来た瞬間に不気味な化物の頭が此方を向いていた。
「m1n3k4!」
振り返ったそいつは意味不明な言葉を叫びケタケタと嗤う。不気味な魔物にほんの一瞬だけ怯み、その足を止めてしまった。
──それは戦場において命取りになる。
「……がっ」
咄嗟に剣を構え、防御姿勢をとったのだがそれは無意味に終わった。剣は鞘ごと蹴り砕かれ、その針のように細い足は私の腹を正確に貫いている。
「it1i? it1i?」
「ぁぎ……っ!」
不意に動かされた足がぐちゃぐちゃと私の腹をかき回す。その痛みに呻き声をあげる事しか出来なかった。顔を上げた先にあったのは魔物の顔。そいつは此方の顔を覗き込むようにして、ゲラゲラと嗤い続けている。その言語はわからないが、コイツはどうも此方の反応を楽しんでいるような気がした。
再び動かされる足。いくら針のように細いと言っても、こいつの足は子供の腕くらいの太さはある。再び襲い来る不快感と激痛に耐えきれず、私は血反吐を吐いてしまう。その様子を見ていた魔物の口が十字に割れ、蛆のように蠢く歯列が見えた。
「k3r3s2i?
K4d5,y1m4n1iy5!」
「この野郎っ、此方を向きやがれ!!」
背後からメネ達の猛攻を受けているのに魔物はどこ吹く風だと言わんばかりの様子だ。 此方を向いて片足立ちのまま、四本の触手を器用に操りながら二人の猛攻を捌いている。
「m4nd5ud1n1……」
表情の読めない魔物が小首を傾げるような動作をみせ、私の腹から足を引き抜く。刺さっていた足によって支えられていた部分もあった私の体はその場で崩れ落ち、引き抜かれた傷からは大量の血が流れ出る。どうにか逃げようと痛む腹を押さえつつ這っていると、鈍い衝撃と共に嫌な痛みに襲われた。
「ぐっ……ぁああ!」
触手の1つが傷口から侵入し、体内を出鱈目に暴れまわる。その苦しみは過去に味わったことのないもの、当然耐えられる筈がなく無様にのたうち悲鳴をあげる事しか出来ない。飛びかける意識は激痛により強制的に引き戻され、再び意識が飛びそうな程の不快感と痛みが私を襲う。
「Om1e,om5s2r5in1?
Ky1h1h1h1h1h1h1h1h1h1!!」
痛みに悶え身を捩る私を見て、コイツは笑っていた。殺そうと思えばいつでもやれるのに、コイツはわざといたぶって反応を見て楽しんでいる。
ある程度の痛みなら堪えて動けるが、内側からの痛みはどうしようもない。筋肉を鍛えることは出来ても内臓を鍛えることは出来ないのだから。
「お母さんをいじめるな!!」
「駄……目っ、来ないで……ゆかり……!」
待っていろと言ったのに、私の言いつけを破って娘は此方へ向かって駆けてくる。私達で駄目なんだ、子供の娘が勝てるわけない。折角助かった命を無駄にして欲しくない、頼むからどうか逃げてくれ。
私への興味は失われたのか、魔物は私の腹から触手を雑に引き抜くと娘へと触手を放つ。鞭に似たしなりを見せ、鋭い音ともに一直線へと娘へ向かう触手をあの子が避けられる筈がない。
──終わった、そう思い目を瞑ってしまう。
「Ar4、n1nd4?」
何か水気を含んだものが切られる音がしたかと思った直後、聞こえたのは魔物のいぶかしむような声。
恐る恐る目をあけて見てみれば、想像とは真逆の光景が広がっていた。
魔物の触手が一本、半ばから切り落とされていた。その断面から吹き出す青い血液を魔物は不思議そうに見つめている。斬り飛ばされた触手は地面に落ち、暫しのたうった後に沈黙して煙のように消え失せてしまう。
一体何が起きたのか思いつつ娘を見て私は驚いた。箒すら満足に持てなかった娘の手に、身の丈に不釣り合いな大きさの
その先端につけられた片刃には青い血の跡、
「……みんなは、私が守るから。
お姉ちゃん達はお母さんをお願い!」
言い切ると同時に、娘は
娘は
数分も経たずに触手を失い、攻撃手段の殆んどを喪失した魔物は辺りを忙しなく見たかと思うと予備動作もなく垂直に跳んだ。その高さは10mは下らないだろう、逃げられたかと思ったその時──
強烈な地響きと共に娘が飛び上がる。その速度は撃ち出された弾丸めいており、瞬く間にソイツを飛び越すとその真上で停止した。
──一閃、斧槍が煌めく。
次の瞬間には地響きと共に粉塵が巻き上がり、その中心には致命傷を負った魔物が叩きつけられていた。頭から胴体にかけて深い裂傷が刻まれ、陥没した地面に横たわる魔物は小刻みに痙攣を繰り返すばかり。
そしていつの間に降りたのか魔物のすぐ側には斧槍を構えた娘が立っており、その切っ先は魔物の首に向けられている。
「──これで、終わり!」
振るわれた刃は寸分違わずその首を落とし、魔物の死体は一瞬硬直した後に灰となって霧散してしまった。
「……ぅ」
死体が霧散したのとほぼ同時に娘の
「ゆ、か……げほっ……ごぼ……」
声を出そうとしても血を吐きながら咳き込むだけ、視界も霞み指先は震えるばかりだ。
「メネ、ゆかりちゃんをお願い……!
紫蘭ちゃん、貴女は絶対助けるから!」
「わかった!
……死ぬんじゃねぇぞ紫蘭」
血を流しすぎたんだろうか、全身が凍えるように寒くて痛い。私を抱き抱えたセレネさんが何かを飲ませようとしているのはわかる、けれどうまく飲み込めない。飲み込もうとしてもせり上がる血液が邪魔をしているのか、僅かに飲んでもすぐに戻してしまう。
涙ながらに叫ぶセレネさんの顔がぼやけ見えなくなって、音も遠く消えていく。最早抗う術もなく、私の意識は落ちていく他なかった。
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