第三話
「こもれび食堂」最後の晩、普通ならば十人程度入れば満員になる店に、十五人、いや、二十人近い人達が詰めかけていた。
あいねは、念のため大きな炊飯ジャー二台分のライスを用意していたが、あっという間になくなってしまった。老若男女、みんながライスを大盛で頼んでいたからだ。
「俺は田舎から出てきて一人暮らししてたけど、おやじとこの店があったから、この町で楽しく過ごすことができたんだ」
「私、今は会社の友達に連れられてイタリアンばかり食べてるけど、正直飽きるんだよね。おやじさんの作った料理なら、毎日食べても飽きないんだけどね」
「せっかく就職できたのに辞めちゃって、これからどうしようか悩んだ時、おやじが背中を押してくれてすごく心強かったよ。今は社会保険労務士目指して勉強してるんだ」
誠司に対する賛辞が、終始止むことが無かった。
今夜でこの店が終わるというのに、陰気な雰囲気は微塵も無かった。
延々と賑わいが続いていたその時、髭面の革ジャンを着込んだ男性が勢いよくドアを開けて入って来た。背中には、大きなギターケースを抱えていた。
「あ!
「ああ、今はまだアマチュアだけど、少しずつ俺の歌に理解を示してくれるレコード会社も出てきてる。あともうひと踏ん張りかな?」
「すごーい!昔、学生だった時はいつもここで食べた後唄って帰って行ったでしょ?浩治君の歌が聞きたくてこの店に通ってたのに、卒業後は姿が見えなくなったから、どうしちゃったのかなって思ってたよ」
「大丈夫、何とか生きてますから、ご心配なく。おやじには本当に世話になったからね。今日はおやじの好きな曲、何でも唄うよ。どんどんリクエストして!」
「おお、浩治!そう来なくっちゃ!」
「浩治くん、今日は何唄ってくれるの?」
すると誠司ははにかんだ表情でちょっと考え、しばらくすると何かひらめいたようで、頷きながら口を開いた。
「じゃあ、お前がここで唄ってくれた歌の中で、俺の一番のお気に入りをお願いしていいかな?『いつかまたここで』」
「おお、渋い所来たね!じゃあ、唄いますか!」
『ガードのそばの小さな店 ここに来れば いつもあなたが待っている
今日も僕は小銭を握りしめ あなたに会いに行くのさ
あの子にふられて心に穴が空いても 未来が見えなくてひたすら切ない日も
あなたの顔を見たら すべてがつまらないと思える だからまた ここに来てしまうんだ』
浩治の歌に合わせ、手拍子をする人達、肩を組んで一緒に唄う人達……立場も年齢も性別もバラバラだけど、この店に寄せる想いはみんな一緒なのかもしれない。
浩治が唄い終わると、店のあちこちから割れんばかりの拍手が沸き起こった。
盛り上がる店内で、誠司は一人フライパンを握り、黙々と料理を作り続けていたが、その片手にはいつの間にかハンカチが握られていた。
フライパンを揺すりながら、ハンカチを時々目頭に押し当て、何度も拭っていた。
「あれえ?店長、ひょっとして……泣いてるんですか?」
あいねは思わず、傍で声を上げてしまった。
「ダメだよおやじ。浩治の歌ぐらいで泣いちゃいけないでしょ?」
「というか、店長が泣いたら俺たちも涙が出てきちゃうじゃん。やめてくれよ」
誠司はハンカチを慌ててポケットにしまいこむと、照れ笑いを浮かべながら
「バカだなあ。浩治の歌なんかで泣くわけないだろ?浩治、良い歌をありがとう。でも、まだまだ修行が足りねえぞ。どうせなら思い切り泣かせるくらい上手くなれよ」
「そ、そうだね。おやじがそう言うんだから、もっとがんばらないといけないな」
浩治は舌を出して頭を下げると、誠司は大盛のごはんにたっぷり具が入ったカレーライスを浩治の目の前に置いた。
「うわっ!こ、こんなに!?」
「お前、カレーライス大好きだろ?いつも大盛食べて、気持ち良くなった後で一曲唄ってただろ?」
目を大きく見開き驚く浩治に、店長は満面の笑顔で微笑みかけた。
「いいなあ、浩治!これだけ大盛食べられたら、思い残すことはねえだろ?」
「というか、俺にも少し分けてくれる?おやじのカレー、適度なとろみとコクがあって美味しいんだよなあ。お前だけ食べるのはずるいぞ」
「だ、ダメだよ。これは俺が歌った代価なんだから。そんなに食べたけりゃ何か一曲唄えばいいじゃん」
「はあ?お前いつからそんなけち臭くなったんだ?友達だろ?少しで良いから、食わせろ!」
カレーライスをめぐる争奪戦が繰り広げられる後ろで、女性客がにぎやかに歓声や驚きの声を発していた。
「おやじ!
「ええ?響子が?マジかよ?」
店内にいる男性陣からも、大きなどよめきが沸き起こった。
すらりとしたモデルのような体型で清楚な雰囲気の響子は、いささかこの店の雰囲気には似合わないように感じたが、店内に飾られている昔の写真には、響子と誠司が常連客と一緒に写った写真が何枚もあった。ここで働いていた当時、響子目当てに足しげく通う男子学生も結構いたとあいねは聞いたことがあった。
「昔この店の常連だった
「純って、
すると、響子は長い髪をかきわけながら、はにかんだ表情で語りだした。
「純くんは、料理人になるために、
「ええ?おやじは定食屋なのに、なんでわざわざ神楽坂の料亭に行くんだ?ここで働けばいいじゃん。そしておやじの後継者になればいいのに。何勘違いしてるんだ、あいつは」
誠司は皿を洗いながら、純をめぐる噂話が飛び交う中でそっと口を挟んできた。
「いや、あいつは俺の所に来たよ。俺の手伝いをしたいって。で、ゆくゆくは俺の後継者になりたいって。でも、俺は即座に断ったんだ」
「ええ!?おやじが断ったの?どうして?」
ざわめきが起こる中、誠司は冷静に語り続けた。
「俺はもうこの店を続ける気はない。そして、他の誰かに譲る気もないってね。俺がやめる時は、この店を畳む時なんだって言ってやったよ」
誠司の話を聞くと、店内のざわめきが収まり、しばらくの間静寂が店内を覆った。誠司は洗いかけの皿をシンクに置くと、頭をかきながら照れ笑いを浮かべつつ、響子に声をかけた。
「響子、おめでとう。気まぐれで独りよがりな俺だったけど、呆れずによく付き合ってくれたよ。いい男だよ、純は。二人で幸せになっておくれよ」
響子は誠司の声を聞くと、すすり泣き、上ずった声で「はい」と一言つぶやいた。
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