君の言葉で聞かせてよ

甲池 幸

第一話 革命前夜

 遮光カーテンを閉め切った理科室は、真夜中の墓場を連想させる。暗くて、どことなく埃臭くて、じめじめとした空気。古びた骸骨。筋肉と内臓が剥き出しになった人体模型。鍵のかかった棚に並べられている怪しげな薬品たち。


 珍しく一番乗りで理科室にやってきた天海浮花あまみふうかは、その陰険な空気を払拭するためにとりあえず遮光カーテンを開くことにした。レールが古いのか、なかなか素直に動いてくれない黒いカーテンを何度か引っ張る。カーテンをすべて開け終え、光が入るようになると墓場のような空気はいくらかましになった。その代償にふわふわと舞っている埃が目立つようになったが、それには目をつむることにして、天海は窓際の椅子に座る。


 床においた鞄から二週間前に仲のいい後輩に借りた文庫本を取り出す。その本は、政略結婚を嫌がった令嬢が長年そばにいた執事と駆け落ちする──という少女漫画のような王道ラブストーリーだった。天海は召使いが令嬢に告白する場面を斜め読みしながら、この本の持ち主を頭に浮かべた。


 艶のある黒髪。常に綺麗な微笑みを浮かべる口元。たれ目気味の目元にある泣き黒子。白いけれど決して体調が悪いようには見えない肌。何を考えているのか分からない黒い瞳。本心は決して語らず、耳触りよい言葉だけを口にするやさしい人。


(とても恋愛系のお話が好きなようには見えないけどなぁ)


 令嬢が執事の手を取ったところで、理科室の扉が静かに開く。天海は文庫本から顔を上げて、入ってきた後輩に左手を振る。


「こんにちは、天海さん。今日は早いんですね」


 にこやかに微笑んだ桜葉孤博さくらばこはくの柔らかな声は、静かな理科室にそっと溶ける。天海は文庫本を閉じて立ち上がり、桜葉に言葉を返した。


「今週は掃除当番がないからね」


「それはいいですね。僕なんか今週から職員室前の廊下掃除です」


「それは災難だね……林先生細かいでしょ?」


「ええ。隅の隅までチェックされます」


 桜葉は肩をすくめて笑った。それは心の底から困っているように見える笑みだった。どこにも歪みがない綺麗な苦笑。天海はそれが計算された表情であると知っていた。知っているからこそ、返す言葉に迷い、曖昧な笑顔で誤魔化すことしかできない。


 元居た場所に移動しながら、天海は小さく息を吸った。胸の中の感情がなるべく誤解なく伝わるように頭の中で言葉を選ぶ。けれどそれを声に出す勇気は見つからず、結局、吸い込んだ空気をため息として浪費した。臆病な自分への嫌悪とともに吐き出されたため息は、空中の埃と混ざる。


「あ、そういえば、これ、ありがとう」


 天海は隣に座った桜葉に文庫本を差し出す。桜葉の細い指が王道ラブストーリーを受け取る。彼が実際に本を持っているところを前にしても、天海にはその組み合わせがなんだか不自然に見えた。


(不自然に見えるのは、私が桜葉くんを理解してるってことなのか、まったく理解できてないのか……どっちだろうなぁ)


「どうでした?」


「すごい好きなお話だったよ、特に最後かなぁ……全部丸く収まって、ハッピーエンドって感じで。すごい好きな感じだった」


「それは良かったです」


 桜葉が目を細めて笑う。彼の肩の揺れに合わせて、短い黒髪が揺れる。控えめな笑い声が空気に溶け込んでから、天海の鼓膜に届く。天海は心臓に果物ナイフを刺されているような胸の痛みを感じた。先ほど吟味した言葉を声にしてしまおうと、いつもより深く息を吸い込む。


 口を開いたタイミングで、音を立てて理科室の扉が開く。天海は吸い込んだ空気を、またしてもため息として使い切った。ついでに、勇気まで使い果たしたような気持ちになる。規則正しいリズムで床を踏んで二人の向かい側に立ったのは、春井正磨はるいしょうまだった。


 春井はいつも通りのしかめ面で、二人と順番に視線を合わせる。


「まだほかのメンバーは来ていないのか?」


「うん。まだ来てないよ。掃除が長引いているんじゃないかな」


「そうか」


 桜葉の言葉に納得した様子で頷いた春井は、きちんと椅子を引いてから腰を下ろした。




 天海、桜葉、春井の三人は学園長の許可が下りていない非公式の部活動───「キタク部」を運営していた。天海たちが通う私立「神谷原かみやはら学園」にはある変わった制度がある。成績優秀者優遇制度と呼ばれるそれは、三か月に一度行われる模試と体力テストの成績優秀者をあらゆる面で優遇する制度だ。


 より的確な表現をするなら「成績下位者をあらゆる面で差別する制度」といえる。そのテストでクラス最下位になった生徒は部活動への参加、学食の使用が認められず、ほかの生徒よりも多くの課題を提出しなければならない。さらに、昼休みは校内清掃を、放課後は教師に雑用を強要される。教師の差別はそのまま生徒にも影響し、クラスでのいじめに発展することも少なくない。


 春井たちは、この制度を改革するために非公式の部活動を立ち上げ、一年かけて少しずつ支持者を増やしてきたのだった。そして、明日は待ちに待った生徒総会の日だ。生徒総会で制度の改定を提案し、三分の二以上の賛成を得られれば、春井たちの活動が報われる。



(でも、春井くんは自分が報われるかどうかなんて、どうでもいいんだろうなぁ)


 これまでのことを思い返していた天海は、桜葉と言葉を交わす春井に目線を向けた。その背はまっすぐに伸び、瞳は桜葉を射抜くように見つめている。


 彼には、特別大きなことをしているという意識すらないだろう。自分の正義に反するものは間違っていると指摘する。それが校則でも、日常会話に紛れる社会への愚痴でも、些細なズルでも。春井は同じように声を上げ、相手の言葉に注意深く耳を傾け、多くの場合さらに間違っていると指摘を重ねる。


 現実に正義の味方がいるとしたら、春井のような人間なのだろう、と天海は思う。眩しいほどにまっすぐで、少しだけ疎ましい存在。


正磨しょうま、明日の演説内容は頭に入ってる?」


 いつの間にか二人の会話は明日の段取りの確認に入っていたらしい。天海は思考の海から浮上して、桜葉たちの会話に意識を向けた。


「あぁ、問題ない。心配があるとすれば、また生徒総会に誰も来ないことくらいだな」


 桜葉が苦笑いを浮かべる。天海も自分たち以外に誰もいない静まり返った体育館を思い出して、苦い気持ちになった。春井たちは九月の前期生徒総会で同じ提案をしようと準備を重ねていたが、突然の生徒総会中止により失敗に終わっていた。


「今回は大丈夫だと思うよ、生徒会とも話をしたし……副会長はともかくとして、会長はそういう策を好む人じゃない」


「……孤博こはく。その言い方だと副会長が悪者のように聞こえる。彼は確かに善人ではないが、悪人でもない。学院全体のバランスと、生徒会長の意見を守ろうとしているだけだ」


 春井は眉間の皺を深めて、桜葉に言葉を返した。桜葉は綺麗な苦笑いを浮かべたまま、小さく、息を吸い込む。天海には言葉を選んでいるように見えた短い沈黙の後、桜葉が発したのは「そんなつもりはなかったけど、そう聞こえたなら謝るよ」という、なんとも在り来りな言葉だった。天海の胸に鈍い痛みが生まれる。


(桜葉くんは今、どういう言葉を飲み込んだんだろう)


 綺麗な微笑みを浮かべたまま、明日の段取りについて確認している桜葉の横顔から天海は目を逸らした。崩れることのない桜葉の微笑みはいつも、少しだけ悲しく見える。


演説の細かい確認が終盤に差し掛かったところで、理科室の扉が開く。


「あ、遅くなりました……」


 中にいた三人分の視線を一斉に浴びた眼鏡の少女は縮こまるようにして部屋の中に足を踏み入れた。キタク部のメンバーで天海と同じクラスでもある中山恵なかやまめぐみは、いつも誰かの視線に怯えている。


「ういっす」


 桜葉の隣のクラスに在籍する早瀬舜はやせしゅんが中山の後ろからひょこり、と顔を出す。短い髪と顔全体を使った笑顔が印象的な好青年だ。キタク部に所属する生徒は他にもいるが、明日の生徒総会で重要な役目を持っているのは、この五人だけだった。


 天海はそれぞれに挨拶を返して、座るように促す。中山はおどおどと、早瀬は楽しそうに、春井の両側に座る。


「わざわざ集まってもらってすみません。どうしても、会って段取りを確認したかったので」


 桜葉は頭を下げて、笑みを収めた。真剣に見える表情で明日の段取りを一つずつ確認していく。低く柔らかな声が理科室の空気に溶ける。春井の声はいろいろなものを反射するが、桜葉の声はあらゆるものに溶け込んでいく。天海は対照的な二人の話し方にそんな印象を持っていた。




段取りの確認と修正が終わったのは、太陽が沈み切ったころだった。町のいたるところが夕日に染まり、東から群青色の夜が駆け足で迫ってくる。昼と夜の曖昧な境目を眺めながら、天海は桜葉の声に耳を傾けた。


「いよいよ明日ですね」


 桜葉の声はいつもより少し高い。天海は空から視線を逸らし、桜葉の横顔に向けた。伏し目がちで、自分の足先を見つめているその横顔はいつも通りの微笑みを浮かべている。天海は横顔を見つめ、息を吸い込み、歩みを止めた。


 桜葉が二歩先で止まる。驚いたような顔で、桜葉は天海を振り返った。天海はもう一度、息を吸い込む。


「桜葉くん」


「なんですか?」


 緊張で指先が震えた。天海は一度視線を下げ、息を吸い込みながらもう一度桜葉と目を合わせる。


「明日の生徒総会が終わったら、少し、話を聞いてくれる?」


 桜葉はいつも通りの微笑みを浮かべて、天海に言葉を返す。


「もちろんです」


「ありがとう」


 天海はぎこちなく微笑みを返して、足を踏み出した。

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