ハシザワイサオ その3

 自分の人生に不満を持ったことはない。多少ああしておけば良かったかというような軽い後悔はあるものの、それは結局のところ砂漠の蜃気楼と同じだ。しょせんは幻である。そんなものは今朝見た夢とともに忘れられて消えてしまう程度のものだった。

 俺はごく一般的な中流の少し下くらいの家庭に生まれて、裕福でも貧乏でもなくそこそこ良い暮らしの中で育ったと思う。学校では特に目立つような成績を残すことはなかったけれど、極端に落ちぶれることもなかった。普通の少し下くらいの大学を出て、普通の少し下くらいの会社に就職した。二十代の半ばになって、親戚が持ってきた縁談に乗り、見合いをして妻と結婚した。数年後に、息子のケイタが産まれた。特に感慨も自覚もないまま、時は流れて、気づけば今に至っていた。つまらなさそうな人生だ、と思う人もいるだろうけれど、俺は流されるままに来たこの場所に、何の疑問もなく満足していた。

 浮気だとか不倫だとか、その手のことは考えたこともない。酔った勢いでこっそり風俗に行くことはあったが、未成年に手を出したことはない。俺はロリコンではない。健全な、どこにでもいる、幸せな――そういう記号で塗り固められている、社会一般のいう普通の会社員だ。そのはずだ――そのはずだったのだ。本当はこんなわけのわからないことに巻き込まれるはずがなかったのだ。百歩譲って巻き込まれたとしても、理性とか倫理とか手垢のついた言い訳をして断るはずだったのだ。

 ――それなのに、目に痛いほどカラフルなドレスを着て、板の上に拘束されている少女の前に、俺は立っていた。少女の下半身は下着もなく露出されており、窮屈そうな陰唇が外気に晒されていた。俺はその前に立っていたのだ。唯一身につけていたパンツも脱ぎ捨て、自分の下半身に生えた陰茎を、これでもかというほど太くいきり立たせて。

「おい、遅いぞ。後がつかえてるんだ、早くしろー」

 背後から急かすような、小馬鹿にするような声が聞こえてくる。俺の後ろには、俺と同じく全裸の男たちが、これまた同じく陰茎をいきり立たせながら並んでいた。カンバラはすでに順番を終えて、カメラを抱えた男の後ろでにこやかに俺を見守っている。

「まあまあ、ハシザワさんは今日が初めての参加ですから。長い目で見ましょうよ。ハシザワさんも焦らないで大丈夫ですからね。深夜撮影は余裕がありますから」

 イチノセは、俺を遠巻きにしながら、優しく背中を押すように言った。

 それがきっかけになったかどうかは自分でも判然としないけれど、気づけば俺の身体は動いていた。一歩二歩と前進し、ずぶずぶと陰茎を少女の陰唇に沈め込んでいった。ぐったりしていた少女は、俺の陰茎が中に突き進んでいくたび、か細い呻き声のような喘ぎを上げた。根元まで入れ切ると、腰が砕けてしまいそうな痺れがぴりぴりと脳幹を焼いた。俺は辛抱堪らず、激しく腰を振り始めた。それから後のことはよく憶えていない。無我夢中で射精して、放心状態のまま引き抜き、順番を変わった。俺がふらふらと戻ると、カンバラはまるで旧友のように肩を組んできた。

「どうでしたか? 良かったでしょう?」

 俺は頷くこともできずに、自分の薄汚い足の先を見下ろしていた。

 しばらくして、その日に集まっていた全員の順番が終わり、撮影は終わった。拘束されたままの少女は、妙な黒い全身タイツを着た連中に、どこかへと連れていかれていった。全裸の男たちは、欠伸をしたり馬鹿笑いをしたりしながら、徐々に姿を消していった。

「ハシザワさん、いかがでしたか?」

 スタジオ隅のパイプ椅子に座り、相変わらず呆然としながら足先を見つめていた俺は、頭上から声をかけられ、顔を上げた。イチノセが後ろ手を組んで立っていた。

 俺はやはり頷くことができず、ただじっとその胡散臭い顔を見た。

「――無理にご感想をおっしゃらなくて結構ですよ。拒絶感がある人にはどうしようもないですしね。まあ、今回の件は一夜の過ちということで」

 イチノセの軽い口調に、俺はやはり何も返答できなかった。

「――まあ、一応お渡ししておきますよ」

 イチノセは俺が何も言わないことを確かめるように数秒待ってから、後ろで組んでいた手を解き、片方をおもむろに俺の前へと突き出してきた。

 そこには一枚の薄いカードが握られていた。俺は躊躇しつつも、結局それを受け取った。

「男優の皆様方に持っていただいている、当社の会員カードです」

 俺が訊ねるまでもなく、イチノセは答えた。

「会員?」

「はい、この撮影は本来会員制でして。いやまあ、ハシザワさんみたいな飛び入り参加も別に珍しくはありませんけどね。基本的には一見様でも、先に会員になられている方の招待であれば大丈夫なんですよ。もちろん信頼できる方であることが前提ですけども」

「えっと、招待ってことは、その――」

「お連れ様のカンバラさんはすでに当社の会員さんです。しかもそれなりの常連様で、我々としても贔屓にしていただいて有難い限りです」

 笑いながら淡々と語るイチノセに、俺はもう不安とか怯えとか焦りとか罪悪感とかそういう諸々の感情を抱く余裕もなくて、頭の中はただただ馬鹿みたいに空っぽだった。

「おーい、課長、トイレ終わったんで帰りましょう」

 俺が呆けている間に、トイレに行っていたらしいカンバラが戻ってきた。

「カンバラさん、本日もありがとうございました」

「いえいえ、こちらこそ毎回良い想いをさせていただいて」

 顔を合わせたイチノセとカンバラは、低姿勢にぺこぺことお辞儀し合った。

「つきましては、ハシザワさんに会員カードをお渡ししました」

「おお、そうですか。課長、良かったですね! これでいつでもここに来れますよ!」

 何が良いのかわからなかったけれど、俺は頷くこともかぶりを振ることもできなかった。

「不必要なら、会員カードは破棄していただいても結構ですよ」

 カンバラに手を引かれての帰り際、イチノセはそう俺の背中に投げかけた。

「――とりあえず、次の撮影への参加、お待ちしています」

 ――再び目を瞑り、次に開けたときには、元いた公園のベンチ前に立っていた。ちゃんと服も身につけていた。とっさに腕時計を確認すると、まだ一分も経っていなかった。

「いやー、すっきりしましたねえ」

 カンバラは晴れやかそうに身体を伸ばした。

「また一緒に行きましょう」

 そう歯を出してはにかむカンバラに、俺は――やはり何一つ上手く返答できなかった。

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