マルイヨシキ その2

 昔から真面目を演じるのが好きだった。本当に真面目だったわけではない、と思う。自分のことなのによくわからない。真面目に生きようとはしてきた。しかしそれは真面目だから真面目になろうとしたのではなく、真面目であると「真面目だね」と褒められることが嬉しくて真面目を演じていたのだろう。俺は物心ついたときからいつだって自分が真面目であると吹聴するかのような行動を取ったし、それを見た大人たちは例外なく俺を褒め、そして他の不真面目な子どもにため息をつき、比較してまた俺を褒めた。俺は大人にとっての利口な子であったし、俺自身そうであることを望んだ。別にテレビドラマみたいな安っぽい闇があったわけではない。俺の家庭は至って普通だったし、俺の生い立ちも至って普通だった。

 父は一般的な会社員、母も一般的な主婦、兄弟姉妹はなし。夫婦仲は悪くなく、親子仲も悪くない。それなりに望まれて生まれてきたと思うし、両親も僕の存在は喜んでくれているようだった。これといった不満はなかったし、これといった不安もなかった。

 学校での教師からの評価はすこぶる良かったけれど、同時にクラスメイトからの評価はあまり良くなかった。良くなかったというよりも、評価されなかった。子ども――特に小学生ぐらいの年齢の人間にとっては、真面目なんていうものは何の価値もないものだ。それに固執し、それを演じ、それによって大人から評価を得る俺は、さぞかし鬱陶しかっただろうと思う。あからさまな嫌味を言われたこともあったし、嫌がらせをされたこともあった。それでも真面目でいれば、周囲の大人が真っ先に俺のことを擁護してくれた。大袈裟に泣いてみせればすぐである。聞き分けが悪く、気に入らない他人に文句を言う子どもと、聞き分けが良く、文句を言われて泣いている子どもとでは、どちらが大人にとって可愛いかは一目瞭然だった。目の前のやつが教師から説教されてしゅんと肩を落とす姿を見るたびに、心中で隠した笑みを浮かべ、意地の悪い舌をちらりと出した。我ながら本当に性格が悪かった。

 その罰が当たったのだろうか、中学生になってから、風向きが変わった。俺自身は何も変わっていなかった。相変わらず真面目を演じていた。変わったのは、周りの方だった。大人からの反応は変わらない。俺のことを利口な子として褒め、他を比べて貶す。ただクラスメイトたちは違った。小学生の頃と違い、露骨な妬みや嫌味のようなものは感じなくなった。その代わりに、何でもかんでも俺に押し付けてくるようになった。大半がやりたがらないような係や当番は、元々積極的にやっていたからまだ良いのだが、掃除当番を一人でやるよう取り残されたり、教師からの頼み事や課題を丸投げされたりし始めたあたりで、何か変であるように感じていた。俺に押し付けるクラスメイトたちも、口では感謝しているような調子だったけれど、どうにも表面的で、その裏には厭味ったらしい笑顔が見え隠れしているような気がしてならなかった。しかし、真面目を演じることはやめなかったし、今更やめられもしなかった。そのときは、まだ俺は自分が真面目だと信じていた。

 たぶん、段々と何か澱のようなものが溜まっていたのだと思う。どこかに捨てられる掃き溜めでもあれば良かったのだけれど、生憎真面目を演じることだけが趣味の俺には、その代わりになるような趣味はなかった。溜まりに溜まった澱は、排出口がなければ逆流するしかない。そして、俺のそれも例外なく逆流した。

 きっかけは中学二年のときの運動会の準備段階での会議だった。俺は例に漏れず実行委員を任されていて、会議の司会をやっていたのだけれど、肝心の会議はいつまで経っても遅々として進まなかった。クラスメイトそれぞれの出場種目の割り振りが議題だったが、誰もが自分勝手にこれをやりたいからどうだとかこれはやりたくないからどうだとかで、なかなか割り振りが決まらず、まとまりがつかなかった。いい加減に担任が口出ししたそうに足踏みをし始めた頃合いになって、誰かが手を挙げて言った。

「もう、マルイくんがすべて決めちゃえばいいと思いまーす」

 ――この一言が、原因だったのだろうと思う。

 大した一言ではなかった。発言者本人だってただの冗談のつもりだっただろうし、現に他のクラスメイトたちは笑っていた。今から思えば、なんてことはない。俺の一緒に笑っておけば良かったのだ。そこまで融通が利かないやつでもなかっただろうに。それでもあのときは――あのときの俺は、自分がどういう仮面を被っているのか、忘れてしまっていた。掛け紐がほつれていた仮面を剥ぎ取り、その素顔を見せびらかして怒鳴っていた。

「ちょっとは自分でどうにかしろ!」

 教室中に俺の怒声が響いた。それが引くと、教室の中は凍り付いたようにしんと静まりかえった。クラスメイトたちは蛙みたいに目を丸くしていた。担任も同じく。俺は自分が何を口走ったのか一瞬わからなくなり、とっさに口元を押さえた。すると、押してはいけないスイッチが入ったように、肺腑の奥底から吐き気が込み上げてきた。俺は担任に申告する間もなく、遮二無二教室を飛び出し、トイレの個室へと一直線に駆け込んだ。

 芳香剤臭い便器に突っ伏して、俺は吐いた。昼に食べた給食をすべて吐き出した。胃酸と牛乳とわかめスープの味がぐちゃぐちゃになって舌の上を通過した。全身の毛穴がばっと開いたように汗が溢れ出し、鼻から粘ついた鼻水が一緒に垂れ流された。

 今まで味わったことのない、人生で最悪の、嘔吐だった。

 その日はそのまま保健室に行き、担任に荷物を持ってきてもらって、教室には戻らずに早退した。保健医も担任も心配していたが、俺は「たまたま体調が悪くなっただけ」と説明し、誤魔化した。実際、そうとしか言えなかった。俺だってどうしてあそこで吐いてしまったのか、何も理解できなかった。だから自分でも単なる体調不良だと思うしかなかった。明日には案外きれいさっぱり治っているだろうと。

 ところが、翌日になっても俺の調子は戻らなかった。厳密には、体調が悪かったわけではない。身体はどこも痛くなかったし、熱もなかったし、それどころか吐き気もなかった。でも、俺は朝目覚めるなり、開口一番に母に言っていた。「今日は昨日に引き続き体調が悪いから、休ませてくれ」と。仮病だった。俺は心中で愕然とした。それまで仮病などしたことがなかった。当然だ、俺はそれまで確かに真面目だったのだから。仮病などしない、利口な子のはずだったのだから。しかし、俺はその日、仮病で学校を欠席した。母は疑いもせずに、学校に電話をかけた。俺は母が学校に連絡するまでに、いつでも自分の言葉を撤回できた。撤回するべきだった。けれども俺は、撤回しなかった。その瞬間、俺の積み上げてきた真面目は瓦解した。音もなく、足元から、倒れるように崩れ去った。

 その翌日も、さらに翌日も、さらにさらに翌日も、俺は学校を休んだ。頭が痛いだとか腹が痛いだとか言い訳をして、布団の中に引きこもった。さすがに母も父もおかしいと思い始めた。担任も自宅に来た。「何か悩みがあるのか?」としつこく言われた。俺は答えずに耳を塞いだ。担任が帰ったあと、母に精神病院に連れていかれそうになった。俺は母の手に犬みたいに噛みついた。代わりに父が僕を連れていこうとした。父の手にも噛みついた。それでも諦めずに父は俺を連れ出そうとするので、俺は勉強机の椅子を引っ掴んで振り回した。何か妙な奇声を発していたと思うけれど、よく憶えていなかった。

 それから半年以上は放っておかれた。担任は一度きり来ることはなかったし、両親もなんだか俺を避けているように生活していた。俺は基本的に日がな一日中本を読むわけでもなければゲームをやるわけでもなく、布団に包まってじっとしていた。たまに部屋の前にそっと置かれている食事を食べたり、トイレや風呂へ行ったりした。が、それ以外は病院の入院患者の如く、ほぼ常にベッドの上に寝転がっていた。気分が晴れることはなかった。かといって荒れ狂う気力はなく、それ以上沈み込むほどの堕落もなかった。

 そうこうしているうちに、俺は中学三年生になっていた、らしい。四季だとか月日だとか、そういった時間的感覚は、とっくに俺の中から喪失していた。

 俺がそれを知ったのは、新しいクラスの担任が訪問してきたからだった。そしてその担任――その人が、俺の人生における唯一の恩師だった。

 その人は俺の部屋のドアの前に立つと、開口一番自己紹介を始めた。

「俺は新しいクラスの担任になったコンドウと言います。よろしく」

 場違いに明るい声音で、コンドウ先生は言った。僕はいつものように布団に包まった状態で、その声を聞いていた。そのときは、また「ああ、面倒臭い」と少し思っただけで、どうせ以前の担任のようにすぐに音沙汰なくなるだろうと考えていた。

 果たして次の日もコンドウ先生は来た。そこまでは想定内だったけれど、そこから先が俺の想定外だった。

「今日はマルイんちに泊まらせてもらうよ」

 コンドウ先生は何の悪びれる様子もなく、ドア越しにそう言った。俺は耳を疑った。危うく訊き返してしまいそうになった。中学校の教師がひきこもりの生徒の家に泊まるなんて聞いたことがなかった。

「ご両親からはすでに許可は取ってあるからね。大丈夫、どこかの部屋を借りるなんて厚かましいことはしない。僕は廊下、つまりここで寝るから。お気遣いなく」

 続いた言葉に俺はさらに驚き、「気を遣うに決まってるだろ」と叫びそうになったが、口を押さえて耐えた。そのときはまだ半分くらいひきこもりをからかう冗談なのではないかと思っていたが、夜が更け、布団を敷くような物音がした後に野太い男のいびきがドアの向こうからはっきりと聞こえてきたところで、どうやら本気らしいと悟った。

 俺は困惑した。ドアの向こうで寝ている男の真意がまるで察せなかった。名前しか知らない教師が、俺を必死に説得する様子もなく、なぜか部屋の前の廊下でいびきを掻いているという事実は、もはや現実ではなく荒唐無稽な夢の中の出来事のようだった。

 そんな状況に限って、俺の膀胱は尿意を訴え始めた。まあコンドウ先生に廊下に居座られていたせいで、トイレにも何にも行けなかったのだから、当然といえば当然だったが。

 俺は逡巡した。眠っているとはいえ、ドアを開けた拍子が、あるいは足音を立てたときに起きたりしたらどうしようかと臆病風に吹かれて腰が引けた。しかし、そうやってうじうじしているうちにも、膀胱の主張は大きくなっていき、ついに我慢のぎりぎりまで来たと思うような地点まで到達した。さすがに焦った。

 今ならばペットボトルにするとかそういう下品な発想も知っているのだが、同時は思いつきもしなかった。まあ思いついていてもやらなかっただろうが、それはともかく、このときの俺は足音を忍ばせてトイレに行くか漏らすかの二択だった。俺にも人並みのプライドというものがあって、漏らすことには強い嫌悪感を覚えた。だから実質選ぶことができる選択肢は一つだけだった。

 俺はなるべく物音を立てないよう気をつけながらベッドから起き上がり、そっとドアを開けた。廊下の隅に不自然に布団が敷かれていて、掛け布団が山並みに盛り上がっていた。慎重に細く開けたドアの隙間から身を捻りだして、布団の端も踏まないように細心の注意を払いながらそそくさとトイレに向かった。無事、漏らすことなく小便を流せた。たぶん、それで気が緩んだのだと思う。

 部屋に戻る際、本来ならまた早急にひきこもるべきだったのだが、ふと布団の前で足を止めてしまった。布団から、男の顔が覗いていて、それに気を取られた。そのとき、俺は初めてコンドウ先生の顔を見た。至ってどこにもいそうな顔だった。少し老けて見えた。顎や口周りには、剃り方が雑な無精ひげがぴろぴろと生えていた。

 こんなおっさんの顔をまじまじ見ている場合ではないと思い立ち、踵を返そうとしたところで、右の足首ががっと誰かに掴まれる感触がして、一瞬転びそうになった。どうにかバランスを取り、恐る恐る見下ろすと、布団の中から伸びてきた手が俺の右足首を掴んでいた。

 慌ててコンドウ先生の顔を見遣ると、コンドウ先生の両目は夜の薄暗がりの中でぱっちり開いていた。

「うらめしやー」

 わざとらしく舌を出して人をおちょくるような顔には何も驚くような点はなかったが、そのときの俺は足首を掴まれた時点でパニック寸前であり、だいぶ素っ頓狂な声を上げながら手を足首から振り払い、転がり込むように部屋に飛び込んで急いでドアに鍵をかけた。

 すぐさま布団の中に潜り込んだけれども、数分もしないうちに、ドアの向こうから再び野太いいびきが聞こえてきた。それでも警戒していたが、結局その晩、コンドウ先生がそれ以上干渉してくることはなく、いつの間にか朝を迎えていた。その後、コンドウ先生はそのまま早朝に帰り――恐らく学校に出勤し――夕方ごろになると、またうちに来て泊まった。そんなことが五回ほど繰り返されたところで、俺はとうとう折れた。

「――先生、暇なんですか?」

 ドア越しにそう声をかけると、コンドウ先生はまるで友人と会話するような調子で「うん、そうだな」と答えた。

「暇じゃなきゃ、こんなことしないわな」

「もっと他に有意義な時間の使い方があるでしょ。廊下で寝てたら腰も痛いだろうし」

「あー、それはあるわ。三十路にはきついきつい」

 コンドウ先生の飄々とした感じに、ただでさえ苛立ちが募っていた僕はさらに苛立ちを募らせた。

「正直、迷惑なんですけど」

「そりゃマルイの迷惑とかちっとも考えてないからなあ」

「それはどういうことですか? 俺を学校に通わせたいんじゃないですか?」

「そりゃ通ってくれるなら有難いけど。せめて保健室登校とか」

「それならこれは逆効果ですって。余計行きたくなくなりますよ」

「まあ別にマルイが学校通いたくないっていうなら別にいいけどな。最近はそんなの珍しくもないし。ただ、俺はまた泊まりに来るよ」

「だからどうして――」

「お前とちょっとは話をしたいんだよ。それだけ」

 その日はそれっきり、コンドウ先生との会話はなかった。そして宣言通り、コンドウ先生は翌日も泊まりに来た。俺はもう、なんだかアホらしくなっていた。相手の意固地に、いつまでも自分が付き合うというのも、嫌気が差した。

 俺はドアを開け、コンドウ先生と面と向かって対話した。といっても、大した内容ではない。世間話とか学校に関する愚痴とか、そういうくだらないことを好き勝手に話した。それを何日か繰り返しているうちに、俺の口は軽くなっていって、あの吐いた日の話もした。コンドウ先生は笑わず、相槌もせず、神妙な顔つきで黙って聞いていた。話し終えた後も「そうかそうか」と言ったきり話題を変えて、慰めの言葉も言わなかった。しかしそれは、下手に感情を見せびらかされないぷん、俺には心地良かった。

 そうなっていく頃には、俺はコンドウ先生に対してそれ相応の親近感と尊敬の念を抱いていたし、同時に自分の胸の内が晴れていっていた。再び学校に通うようになったのは、コンドウ先生に何か恩の一つでも返したかったからだ。といっても、俺が勝手に恩を感じているだけだったが、コンドウ先生は登校してきた俺を見て、素直に喜んでくれた。

 それから俺は学校を普通に過ごした。今更友達なんかはできなかったが、以前ほど真面目に固執することもなかった。満ち足りていた、と思う。

 しかし、冬休み明け、進学高校も決まり、卒業式を間近に備えた時期に、俺を愕然とする出来事が発生した。

 雪が降りそうなほど厚い雲が空に出っ張っていた日、臨時で駆け込んできた教師が、クラス中の生徒の顔を見渡しながら言った。

「――コンドウ先生が、警察に逮捕されたそうです」

 持っていた鉛筆がぽろりと手から滑り落ち、机からも転がり落ちた。

 女子生徒に、手を出したらしかった。この学校の生徒ではなく、隣町の中学三年の女子生徒だった。どういう経緯かはわからないけれど、その隣町の中学校の体育館倉庫でセックスしているところをその学校の教師に見つかり、通報されたそうだ。

 俺は話を聞きながら、さっぱり頭が追い付いていかなかった。内容は理解できる。教師が、自分が受け持つ生徒と同い年の女子に性的に手を出した。シンプルでありふれた話だ。しかし、それがどうしても自分の中でコンドウ先生と繋がらなかった。

 その日は一日中教室が騒がしかったけれど、クラスメイトたちの会話の内容などはちっとも憶えていなかった。僕は授業なんかもろくに聞かず、コンドウ先生のことばかりを脳裏に描いていた。コンドウ先生が、薄暗い体育倉庫で、見知らぬ女子に覆い被さっている姿を頑張って想像しようとしてみたけれど、その半裸の男の顔は黒く塗り潰されていて、いったい誰なのかわからなかった。

 放課後になり、帰宅しても、自分の頭の中はコンドウ先生の顔や背中でいっぱいだった。顔を描いてみれば、未成年委覆い被さる背中が現れず、その背中を描いてみれば、その顔はまた黒く塗り潰される。何度も何度も思考したけれど、途中からはもうコンドウ繊維の顔も背中もぼんやりと薄くなって、気づけば眠りに落ち、起きてみれば翌朝だった。

 そんなことを繰り返しているうちに、とうとう卒業式が来てしまった。俺は相変わらず授業はまるで聞いていなかったけれど、律儀に卒業式の日まで学校には通っていた。それはコンドウ先生を裏切りたくないという気持ちが自分の中に強くあったかもしれないし、単にそう思いたかっただけなのかもしれない。俺は卒業式までの間にコンドウ先生との面会も試みたけれど、他の教師たちはコンドウ先生について曖昧な態度を取るばかりで、具体的な情報は何も教えてくれなかった。俺はコンドウ先生の携帯番号も住所も知らなかった。何も知らなかった。

 卒業式にも当然の如く身が入らなかった。入場のときに足元が覚束なくて隊列を少し乱したし、着席もワンテンポ遅れた。我ながら酷い有り様だったと思う。「体調が悪いのか?」と代理担任が心配して声をかけてきたけれど、俺は「はい」と腑抜けた声を上げただけだった。代理担任は一瞬迷っていたが、結局俺を退席させなかった。

 俺は卒業する意味を完全に見失っていた。それどころか、これから生きる意味もだ。大袈裟に思えるかもしれない。俺だって大袈裟だと思った。馬鹿ではないのかと思った。しかし、この陰鬱を止めることはできなかった。もう、コンドウ先生の姿を何一つ思い描けなくなっていた。人を嘲るような煙ばかりが目の前に蔓延していた。

 俺の名前が呼ばれた。そのときは、卒業証書授与のプログラムが行われていたのだけれど、ぼうっとしていた俺はそれを理解しないまま席から立ち上がり、壇上に上がった。そこでしわくちゃの校長がその顔をさらにしわくちゃにさせているのを見て、これが卒業授与であることを理解した。さっさと受け取って席に戻ろうと思い、校長が差し出す卒業証書に手を伸ばした。それに触れたとき――触れたときだったと思う。わからない。何でそれがきっかけになったのかもわからない。ただそれに触れたとき、僕の目の前に蔓延する煙を取っ払って、一つのイメージが走馬燈の如く駆け抜けた。

 ――俺は決心した。何の躊躇もなく、そうなろうと誓った。教師になろうと。

 その後、卒業式は何事もなく無事に終了した。俺は晴れて中学生になり、高校生になった。すでに陰鬱は消え失せていた。なぜならば俺には目標があるからだ。教師になること。教師になって、何の不祥事もなく勤め上げること。コンドウ先生が達成できなかったことを、俺がすること。それに何の意味があるのか、そんなことはどうでもよかった。意味もなかった。

 俺は勉強した。高校時代のことはそれ以外に特に印象に残っていない。行事ごともあっただろうが、そんなものは俺には不必要だった。くだらない青春なんて棒に振ってしまって構わなかった。俺が欲しているものは、友達だとか恋人だとか、そういう俗物的なものではなかった。学生なんかでは到底手に入れられない、大人になってもすぐには手に入れられない、目標を成し遂げた者の称号。それが欲しかった。それが欲しかったから勉強した。

 俺は高校を卒業した後、それなりに偏差値の高い大学に進学して、教員免許を取得した。案外あっさりと取れたそれに、あまり実感が湧かなかった。それに、教員免許を取得することがゴールではない。むしろそれは、スタートラインに立つことを許されただけだった。

 俺は大学を卒業後、高校教師として働き始めた。中学校の教師ではなかったが、中学高校の違いなど、俺の目標に比べれば些細なことだった。

 俺の教師としての周囲からの評価は、良く言えば生真面目、悪く言えば面白味のない教師だった。基本的にホームルームと授業のとき以外に生徒とは私語を交わさないし、生徒の冗談や相談に乗ったりもしなかった。色んな他の教師から生徒ともっと親身に接するようにアドバイスされたが、そうは出来なかった。俺にとって生徒とは、ただ俺の目標への道の先に点々と生えている植物でしかなかった。生徒たちからはつまらない堅物野郎と思われていたことだろう。それで良かった。俺は別にコンドウ先生みたいな教師になりたかったわけではない。コンドウ先生は俺の唯一の恩師だったけれど、目標ではなかった。俺の目標は、教師としての最低限の仕事を全うし、何の不祥事もなく退職すること。その目標を達成して何になるのかと訊ねられても、俺はそれらしい回答を答えられない。せいぜい俺の気分が晴れるというだけだ。なぜ俺の気分が晴れるのか。そんなことはどうでもいい。もう俺はこの道を進むしかない。分かれ道はすでにすべて通り過ぎてしまったのだから。

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