第26節 -Re:Maria-

 深夜、マリアは夢を見ていた。

 いつもと同じ夢。幾度となく繰り返される終わり無き悪夢。

 自らに与えられた永遠の命が続く限り終わる事のない記憶の再演。


 赤黒い炎が燃えている。自身の眼前で親友は死に絶え、隣では自身が一度想いを寄せた人が泣いている。私に出来る事は何も無い。


 亡命した国で身を隠して生活する中、人目を避けて悲しみに暮れる人の姿を見る。私が伸ばした手は拒絶されてしまった。私に出来る事は何も無い。


 さらに遠く離れた国へと逃げて生活する。そこで生活していた人々からは忌み嫌われた。

 災いを招く者。不幸を呼び寄せる者。人々は私達を口々にそう言った。

 やがてお母様は病気で倒れ、帰らぬ人となった。私に出来る事は何も無い。


 唯一、私に残された心の拠り所であったお父様も倒れた。目の前で衰弱する姿をただ眺めるしかない。助ける事は出来ない。

 私に出来たのはその姿を見て涙を流すだけだった。私に出来る事は何も無い。


 私に出来る事は何も無かった。

 私に残ったものは何も無かった。


 あの日、お父様の最期の言葉を聞き森へと向かった。どこに辿り着くのかもわからない。それでも私はただ歩き続けた。

 歩き続けた果てに、ついにその時が来た。森の中で私は倒れた。指先ひとつ動かす力は残されていない。


 十七年という人生に幕を閉じる時が訪れる。とても短い人生だった。


 私が何をしたというのだろう。私達が何をしたというのだろう。

 何もしなかった事がいけなかったのだろうか。では、私には何が出来たのだろう。

 その答えはもう何度もこの身に刻んできた。


 “私に出来る事は何も無い。”


 薄れゆく意識の中で何度も考えた。


 “どうすれば良かったのだろう”


 私は私から全てを奪い去った戦争を憎んだ。

 私には届かなかった人が愛した人を妬んだ。

 私から愛する両親を奪った人間を恨んだ。

 私はこの世界の汚さを呪った。


 何もかもが滑稽で、どうしようもなく自分が惨めで、これで終わるのかと思うと不思議と涙では無く乾いた笑いが溢れて来た。


 もうすぐこの夢の再演が終わる。いつもと同じあの日の光景が眼前に広がる。

 この夢の最後は決まっていた。今の私にとって、とても大切な彼女が私の命を狩りに来るのだ。


 そして彼女が訪れる。かつて神であった者。今は悪魔となった者。私に永遠の命を与えた者。

 彼女の姿を見て私はただ一言呟く。その時なんと言ったのか、実は私の記憶には残っていない。

 あと少し、あと少しで夢から醒める。そのはずだった。


 けれども…


 この日の夢は違った。夢の中で倒れた私の視界が閉ざされ、暗闇が訪れると誰かが私の名を呼ぶ声が聞こえた。繰り返し私の名を誰かが呼んでいる。


 聞き間違いだろう。【私は誰にも必要とされていなかった。】

 何かの間違いだろう。【私は誰にも受け入れられることは無い。】

 けれども絶え間なく私の名を呼ぶその声は次第に大きくなってくる。声に呼応するように夢の中で目を開く。すると目の前には私に手を差し伸べている人がいた。


 “貴方は誰?”


 私に手を差し出すなんて可笑しな人。両親以外に、私の事を愛してくれた人はいない。

 災いを呼ぶ者、不幸を招く者。そうして蔑まれてきた。疎まれてきた。嫌われてきた。


 “貴方は誰?”


 私の名を呼ぶ声はとても優しくて、温かくて、懐かしくて、心地よかった。


 “私は世界の嫌われ者よ?”


 そんな私が手を伸ばしたら、どんなに優しい貴方でもきっとその手を引っ込めてしまうに違いない。


 あぁ、でも…赦されるなら…

 私がその手を取る事が許されるのなら…

 私は、その手を…



                = = =

 

 誰かに必要だと言って欲しかった。

 優れた出自、優れた容姿、人智を越えた能力。

 地位、財産、名誉。

 そうしたものが無い、ただの一人の人間として必要だと言われたかった。


 権力を守る為の道具。

 自身を良く見せる為の飾り。

 千年に渡る時間の中で、私に求められたものとは常にそんなものばかりだった。


 優れた出自や容姿は対外交渉における優位性の確保につながる。

 未来を視通す力は一国を繁栄させる力、又は一国を滅ぼす力にもなり得る。

 地位や財産や名誉は言うに及ばず。


 両親を失い、死に際に出会った彼女と共に歴史を歩むと決めたその日から、どこかの国王であれ、皇子であれ、女帝であれ、国民であれ、誰一人として私をただの一人の存在として必要だとは言ってくれなかった。

 そうした “特別なもの” を持っていない私には誰も興味が無いようだった。


 何も持たない人間を誰も必要とせず、誰も受け入れようとはしない。

 人の心とは、いつの時代もなんと醜いのだろう。


 私はそんな世界を恨んだ。

 私はそんな世界を憎んだ。

 私はこんな世界に生きる人間の可能性など信じない。

 繰り返される歴史、変わる事の無い人間。

 私が視通してきた未来に希望など無かった。


 いつからだろう。私はこの “間違った世界” を正す為にどうするべきかだけを考えるようになっていた。

 争いを呼ぶ者、欲に溺れる者、他者を虐げるもの、そうした者を全て徹底的に排除すれば良いのだろうか。


 いや、違う。被害者だった人間が加害者に変わるだけに過ぎない。

 奴隷であった人間が、解放されて誰かの上に立った時に行う事とは、より良い治世と発展の為に手を取り合い協力する事では無い。

 新たな “奴隷を作る事” である。私はその光景を何度も目にしてきた。


 人間の持つ本能。人間の持つ欲望。

 傲慢、強欲、嫉妬、憤怒、色欲、暴食、怠惰。

 これら全てを取り除けば良いのだろうか。


 おそらく違う。それらは人間が生きる上で必要だとして備わったものだ。欲が無ければ人は生きる事が出来ない。

 欲望を満たす事が人間にとっての幸福の一つと定義される以上、これらを奪い去った所で、生きる目的を見出す事も出来ない生きた屍が出来上がるだけであろう。


 謙虚、慈悲、感謝、忍耐、純潔、節制、勤勉

 これらの美徳を万人が完璧に持つ事で安寧は訪れるのだろうか。


 これも違う。これらを美徳とし、是とした宗教が太古の昔から存在するにも関わらず、人は今日まで変わる事が出来なかった事を考えれば明白だ。

 人の精神はその美徳の崇高さ、高潔さに耐えられない。人はそこに “意義” を見いだせない。


 では、人間と言う概念そのものを作り替えてしまえば良いのではないか。

 私はある時、その結論に至った。

 人が人である限り、何も変わらないというのならば人が人で無くなるしかない。



 ある時、進化した科学による叡智、AIと呼ばれるものに次の問題を解決するよう命じた事がある。得られた回答は次のようなものだった。


【戦争を無くす方法】=人間という存在を無くす事。

【環境汚染を防ぐ方法】=人間を抹殺する事。


 これらは真理だ。しかし我々人間はこれを認めない。認める事は出来ない。

 重大な “欠陥” として、何よりも真理に近いであろうその答えを無かった事にしてしまった。

 人間の倫理には【人間が存続した上で】という前提条件がある為だ。


 この時、私は私の描く未来というものの姿を見定めた。


 嫉妬、悲嘆、絶望、予言。

 私が持ち得るのはそうしたものしかない。

 それらを持って、お前達には悪意による善政を与えよう。

 私がこれから創り出そうとする未来に、人の求める希望は存在しない。


 人という概念の根底を作り替えた上で、選ばれし者だけが生きる事を赦される世界。


 人が自らの意思で己を律する事が出来ないというのなら、完全なる理性と完全なる倫理を持って “人間” そのものを管理する人間を超越した存在が必要だ。


 私は私の意思をもってその存在を生み出そうと思う。

 そしてその存在を庇護し世界の行く末を見守ろう。

 いつの日か、その存在に徹底的に管理された人が人で無くなるその日まで。


 子供にも、大人にも、富める者にも、貧しい者にも、分け隔てなく、皆が平等に幸福を享受する事が出来る世界の実現の為に。


 もう二度と…あの子犬のような存在が生まれてしまわないように。


 刻印を持つ者には安寧を。

 刻印を持たざる者には混沌を。


 お前達が私にそうしてきたように、私もそうすることにしよう。

 “特別なもの” を持たない人間に価値が無いというのなら、それを体現する世界でお前たちの価値を見定めてみせよう。


 その刻印が示す名は…



 あぁ、けれども…


 けれども…私が “本当に望んでいたものは、何だったのだろうか”


 こうした破滅的な世界の創造を願いながらも、私は心のどこかで未だに待ち侘びている。

 私の “本当の願い” を叶えてくれる存在を。


 たった一度だけで良い。


 “誰かに必要だと言って欲しかった。”


 私は、私の “特別” を知らない誰かに、ただの一人の存在として私の事が…


 “必要だと言って欲しかった。”


                = = =


 マリアは夢の中で差し出された手に腕を伸ばした。愚かな願いが叶うのなら、差し出されたその手を握りたいと思った。

 自分を呼ぶ声はさらに大きくなる。そして差し出された手はついに自身の手を取った。とても温かく、とても優しい手。

 どこか懐かしくて、柔らかな日の光に包まれたような幸福を感じさせてくれる。


 夢の中で自身の名を呼び続けてくれていたのは、“彼” だった。

『マリー!』




 その声でマリアは目を覚ます。既に太陽の光が部屋に差し込んでいる。朝だ。

 マリアは自身の目から涙がとめどなく溢れ出ている事に気付いた。

「私は…君の…」声にならないほど小さく、マリアは呟いた。

「おはようございます。」

 すぐ傍でアザミが朝の挨拶をする。

「アザミ…私は…」


「また、夢を見たのですか?」

 いつもと同じように、優しく、そして心配をする様子でアザミは話し掛けてきてくれる。夢と現実の境界から意識が引き戻されていく。

「あぁ、二日連続で見る事なんて滅多に無かったのだけれど…いつもと同じ夢だ。けれど、今回の夢の最後はとても温かかった。手を差し伸べてくれた人がいたんだ。私の名前をずっと呼んでくれて…」

「そうですか、それは良かった。さぁ、これをどうぞ。」

 アザミは敢えて深く聞く事はせず、マリアへハンカチをそっと差し出した。

「すまない。」

 差し出されたハンカチを手に取り、マリアは涙を拭いた。

「マリー。そういえばデバイスに新たなメッセージの着信があるようです。確認してみてはいかがでしょう。わたくしはお水を持って参ります。」

 そう言うとアザミは立ち上がりテーブルの方へ水を取りに行った。


 マリアはデバイスを手に取りメッセージの送り主を確認する。彼だ。

 心臓の鼓動が高鳴るのを感じた。メッセージを開封する手が少しだけ震える。

 彼がどういう人間かというのはこの二日でよく分かっている。彼は決して人を貶めない。そして蔑む事も無い。当然、このメッセージでもそれが変わる事は無いだろう。

 しかし、昨日の夕方、自分は彼に意図的に酷い事を言った。突き放される前に突き放そうとした。その事実が彼女を不安にさせた。


 一度深呼吸をして、メッセージを開く。

 メッセージを読み終えたマリアの口元は僅かに微笑む。

 アザミは水の入ったコップを手にマリアの傍へと戻ってくると、彼女は愛おしそうにデバイスの画面を見つめたまま微笑んでいた。

 その目には今にも溢れ出しそうな涙を湛えている。

「良いメッセージでしたか。」アザミはコップをサイドテーブルへと置きながらマリアに尋ねる。

「あぁ、とても。」

 マリアは震える声でそう言うとアザミに縋り付き、胸の中で声を殺して泣き始めた。

 アザミはマリアを抱きしめる。彼女が先程まで愛おしそうに握っていたデバイスの画面には彼からのメッセージが数行ほど表示されていた。

 横目にその内容を読み取ったアザミは、昨晩彼にお願いをして良かったと心から思ったのと同時に、心から感謝の気持ちを抱いた。


 そこにはマリアが千年もの間、心から欲してやまなかった言葉が綴られていた。


                  *


 どれほどの時間泣いただろうか。しばらくしてマリアが泣き止む。

 あの日以来、どれだけ苦しい事があろうと、どれだけ辛い事があろうと、滅多にその目に涙を見せる事など無かった彼女が文字通り子供のように泣いた。

 落ち着きを取り戻したマリアはアザミに言った。

「朝からみっともないところを見せてしまったね。」

「いいえ、泣きたい時に泣くのが人間です。貴女はわたくしとは違います。どんな時でも決して泣かないなどというのは強さではありません。」アザミは先程持ってきた水の入ったコップをマリアへ差し出しながら言った。

 マリアはコップを手に取ると再び深く息を吸い、呼吸を整えてから一口飲む。

「マリー、彼にもう一度会ってみてはどうですか?」アザミは優しく再会を促した。

「こんな泣き腫らした顔で彼に会うのは恥ずかしいな。」

「彼が気にするとは思えませんが…」

「私が気にするんだよ。…私にだってまだ、乙女心というものがある。」

 マリアは少し不貞腐れたような、照れたような複雑な表情でアザミへ言う。直後、しばらく見せる事の無かった微笑みを浮かべた。

 彼女が心からの微笑みを浮かべる姿を見たアザミは安堵し、彼女と同じように微笑んだ。

 この瞬間、長きに渡り彼女が抱いてきた “たったひとつの願い” が叶った事を悟った。


 マリアはおもむろにデバイスを手に取ると、彼に向けて数行ほどのメッセージを入力して送信した。

「アザミ、朝の支度だ。それが終わったらすぐに買い物に出かけよう。」

「喜んで。でも出掛ける前に朝食をとりませんと。昨晩から貴女は飲み物以外口にしていませんし。」

「それはそうだけれど…逸る気持ちというものを抑えきれなくてね。」

 アザミのいつもと変わらない冷静な返事に対し、まるで初恋をした少女のような表情を浮かべてそう言うマリアを目の当たりにしてアザミはすぐに意見を変えた。

「承知致しました。準備が出来次第、出掛けましょう。」

 全ては彼女の言葉通りに。


                 * * *


 あれからどれほどの時間眠ったのだろうか。フロリアンは朝の光で目を覚ました。時刻は午前8時を回ったところだ。

 体が重たい。想像した以上に疲れが出ているようだ。

 フロリアンはベッドからゆっくりと起き上がると大きく伸びをした。そしてふとスマートデバイスがメッセージの着信を知らせる光を放っている事に気付いた。


 デバイスを手に取り送信者の名前を見る。そこに表示されていたのは彼女の名前であった。

 その名前を目にした瞬間、つい先程まで感じていたはずの眠気は一瞬で消え去った。

 高鳴る鼓動。無意識に震える指先でメッセージの内容を表示した。


【今日の午後5時に昨日の朝と同じ場所で待っています。】


 昨晩、彼女に向けて送った素直な気持ちは届いたのだろうか。それともアザミが何か働きかけをしてくれたのだろうか。

 どちらかは分からないが、どうやらマリアはもう一度自分と会う気になってくれたようだった。それがとても嬉しかった。

 もう一度彼女と話が出来る。それだけで良かった。

 しかしメッセージの文章が、彼女にしては改まった書き方になっていたことが気になった。昨日の夕方の会話の事をやはり気にしているのだろうか。

 とにかく、夕方までに改めて彼女と話したい事を考えておこう。そう考えたフロリアンはベッドから出ると身支度を始める。

 約束の時間まではまだ長い。それまでの間に訪れたい場所がある。支度が出来たらすぐに出かけよう。

 そして身支度を整えたフロリアンは逸る気持ちを抑えながら彼女に同時刻に待ち合わせ場所に向かう旨のメッセージを送り、部屋を後にした。


                 * * *


 レオナルドとフランクリンはホテルでの朝食を終えて部屋に戻る途中であった。

「今日でいよいよ終わりか。」レオナルドが言う。

「はい。決議結果は当初の予測通りで間違いないかと。」

「だろうな。予定調和といえばそれまでだが、それ以上に世界各国の主張は予想よりも遥かに勢いの無いものだった。」


 【難民問題解決に向けた努力継続の方向で一致】という結論ありきの総会であったとレオナルドは思っている。

 その当事国の中に自分達機構の名前がエントリーされたに過ぎない。


「それはそうと、セントラルから何か追加報告はあったかな?」レオナルドがフランクリンに確認する。

「はい。昨夜、あの二人から追加で渡されたデータの解析をアメルハウザー准尉と姫埜少尉が進めた結果、例の装備に関する新たな技術的確証が得られたとの事です。」

「結構。そちらの件は帰還してから結果をまとめるとしよう。彼女達にも報告をしてやらないとならないだろうからな。」

「承知しました。では引き続き解析と情報収集を進めるように指示を出しておきます。」

「それと、あの男の件はセントラルへは伝えていないな?」

「もちろんです。我々が扱うべき問題ではありません。」


 あの男とは難民狩り事件の犯人であるライアーを指している。

 二人はマリアが言った通りに朝のニュースでその男の顛末を見たが、どうにも拭えない違和感を感じていた。

 メディアによると、男はリュスケの町から離れた草地の中で拳銃自殺を図っていたらしい。

 逃走用に使用したとみられるトラックが付近には乗り捨てられていたという事だった。

 国境警備隊と警察による追跡から逃れられないと判断し、追い詰められた末の自殺ではないかと識者がコメントをしていたが本当にそうなのか甚だ疑問だ。

 当然、どこかの軍から情報漏洩したのではないかとみられる機密装備については一切報道には登場せず、過去の犯行がどのようにして行われたのかについては迷宮入りだろうと結論付けられていた。


「宜しい。我々が世界の警察の真似事などすべきではない。触れるべき事柄と触れてはならない事柄は明確にしておかないとな。」

 二人は昨夜、マリアが朝のニュースで確認をすれば良いと言葉を濁した時点で “言いたくない何か” があるのだと直感していた。

 その事について彼女達が濁して触れないという事は、言い換えれば “触れるな” という意味に等しい。

 それ故に、男が使用していたとみられる機密装備については調べるが、男については調べないという方針を貫いた。触れる事で余計な危険を機構へ持ち込むわけにもいかない。

 人の忠告には耳を傾けておくものだ。

 二人はエレベーターで宿泊している部屋の階まで上がると、総会決議の為の打ち合わせをする為にレオナルドの部屋へと戻った。


                 * * *


 フロリアンはホテルから出るとどうしても訪れておきたい目的地へと向かう前に、一昨日と同じ道順を辿って彼女達と出会った時の事を振り返る事にした。

 ホテルの出口から左に曲がりアラニ・ヤーノシ通りを進み、オクトーベル6.通りへと入り、道なりに真っすぐ進んでいく。

 今日も外のテラス席では温かいコーヒーやパンなどを手にした人々が楽しそうに食事と会話のひと時を楽しんでいる。

 右手に見えるコーヒーショップを通り過ぎると、あの日と同じ良い香りが漂ってきた。


 少し歩いた先、メールレグ通りと合流する路地の曲がり角へと辿り着く。

 その場所で自分はマリアと出会った。物理的に衝撃的な出会いであった事を思い出し顔が綻ぶ。

 そのまま真っすぐ進んでいきエルジェーベト広場からベーチ通りへと向かい、彼女達と初めて一緒に食事をした店へ行き、そこで再び朝食をとることにした。


 店へ辿り着き、店内に入ると女性スタッフがあの時と同じような笑顔で挨拶をしてくれた。

「おはようございます。」

「おはようございます、一人ですが空いていますか?」

「はい。お席へご案内します。今日はあのお嬢さんはご一緒では無いのですね?」

 スタッフの言葉に驚いたフロリアンは思わず質問で返事をしてしまった。

「一昨日来たことを覚えているんですか?」

「もちろん。貴方と一緒にいらっしゃった方はまるで天使のように可愛らしくて、とても印象に残っています。何より、わたくしどもの料理を凄く美味しそうに召し上がっていらっしゃいましたから。」

 そう話しながら席へスタッフは席へ案内をしてくれた。

「お席はこちらです。ごゆっくりどうぞ。」

 マリアは自身の事を卑下していたが、彼女が周囲に与える印象はおそらく先程のようにマリア自身が語るものとは正反対のものだろうと改めて感じた。

 そしてその事におそらく自分自身が気付いていない。

 フロリアンはスタッフの言葉を胸に残しつつ、先日の事を思い出しながらあの時と同じメニューを注文した。


                 * * *


 一方その頃、マリアとアザミは紳士服専門店へ赴きお目当ての買い物をしている最中であった。

「このデザインなんてどうだい?凄く似合うと思うのだけれど。」

 そう言いながらマリアは紳士用のコートを手に取る。

「そうですね。とても良いデザインだと思いますが、少し丈が短いかもしれません。」

「やはりそうか。男性の服を選ぶというのは初めてだから、どうにもサイズ感が分からない。」

 アザミの素直な感想を聞いてマリアは悩んだ。

「彼のサイズでしたら大丈夫です。わたくしが寸分違わず記憶しておりますので。」

「それは頼もしい。けれど、あまり大きな声では言わない方が良いね。」

 そう言って苦笑したマリアはあるコートが目に留まった。

「アザミ、これはどうかな?」

「まぁ、とても素敵ですね。ワンポイントがとても可愛らしい。サイズもぴったりです。」

「よし決めた。このコートにしよう。」

 アザミの意見を聞き届けたマリアは、嬉しそうにコートを手に持ち会計へと向かった。

 代金の支払いと共にスタッフがギフト用に包むかどうかを尋ねる。

「ご家族か大切な方へのプレゼントですか?よろしければ贈り物用に包みましょう。」

 “大切な人”。そう尋ねたスタッフにマリアは一瞬戸惑いながらも次のように返事をした。

「Igen」

 ハンガリー語で同意を示す言葉を満面の笑みで伝えた。

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