第19節 -その地が抱くもの-

 電話から戻ったマリアを交えて、三人は午後からの予定を確認した。

 昨日の夕方に話した通り、午後はセルビアとの国境にある南部の町リュスケへと向かう予定だ。

 国境線は連日の事件により警戒が厳重になっている為、近付く事が出来る範囲は限られると思われるが街そのものへ訪れる事に支障はないだろう。

 昨日と同じく、現地に車で移動する為に一度マリアとアザミの宿泊するホテルの前まで戻ることになった。

 レストランを後にした三人はセーチェーニ鎖橋へ向かって歩き始める。ホテルまではおよそ一キロメートルで約10分という距離だ。昼食後の軽い運動には丁度良い。


 周囲には日差しを受けた変わらぬ美しい街並みが広がる。

 鎖橋からはコッシュート広場に位置する国会議事堂の姿を見る事も出来る。ネオ・ゴシック建築による左右対称の議事堂で、世界で他に類を見ないほど豪華絢爛な内装は見る人々を圧倒する。その魅力を堪能する為に訪れる観光客も多い。

「あれが国会議事堂か。遠くから見ても凄いね。ロンドンで見たウェストミンスター寺院を思い出すよ。」

「川沿いにある建物としては作りも含めて確かに似ているかもしれないね。」フロリアンの感想にマリアが相槌を打つ。

「議事堂は観光用に解放されている部分も多く、専用のツアーもあるとか。内装の豪華さは確かに目を見張るものがあります。」

「それは一度見学してみたいですね。」アザミの言葉にフロリアンが答える。


 鎖橋から見える国会議事堂を眺めながら歩いて行くと、マリアがある質問をフロリアンに投げかけた。

「フロリアンは、国会議事堂より手前にあるドナウ川遊歩道の靴の事は知っているかい?」

「遊歩道の靴?」マリアの質問に心当たりが無かったので思わず聞き返した。

「あぁ。川沿いを歩いていたら突如として数多くの靴のモニュメントが置かれている場所が現れるんだよ。」

 フロリアンにとってそれは初耳であった。

 ブダの丘にある王宮、マーチャーシュ聖堂、漁夫の砦や国立歌劇場、鎖橋や聖イシュトヴァーン大聖堂といった建築物、その他クリスマスマーケットのようなイベントはこの地を訪問する前に一通り色々調べていたが、川沿いにある靴の事は知らなかった。

「そうか。歴史の授業でもしかしたら学んでいるかもしれないと思ったのだけれど。あの靴を観光などと言うのは憚られるのだけどね。君の祖国とも深い繋がりのある話だ。調べてみると良い。」


 マリアのその言葉のニュアンスを聞いてフロリアンは直感した。

 おそらくマリアの言う繋がりというのは戦争にまつわる内容だ。かつて世界大戦の折に欧州が戦場であった頃、どのような出来事が起きていたかに関しては想像に難くない。

 その直感が正しければ、賑やかな観光の事が記載されている情報サイトでは確かになかなか見つからない内容だろう。

「どういう事か分かった気がするよ。歴史の事は他の分野より多く学んだつもりだけど、やっぱり知らない事だらけだ。」

 フロリアンは小さな声で呟いた。そしてその方角へ向かって祈りを捧げる。


 その様子を見たマリアは改めて彼の純粋さと優しさを感じ取った。

 戦争に関わる事だと言ったわけではない。しかし、どうやら彼はその事を直感したらしい。そして自身の中でこうするべきだという答えをすぐに見つけて実践に移している。

「君は優しいな。その純粋さを大切にし給えよ。」雑踏の中で聞き取れるかどうかというトーンでマリアは独り言を呟いた。

「マリー?何か言ったかい?」どうやらフロリアンには聞こえていなかったようだ。

「いや、何でもないさ。さぁ、行こう。」


 そのすぐ横で、アザミは満足そうな笑みを浮かべたマリアが何を呟いたのか聞いていた。

 彼女と同じく、自分も彼にはそのままでいて欲しいと願っている。今の言葉が例え本人に聞こえていなくてもその願いは届くだろうとも感じていた。


 真冬の太陽が照らす鎖橋の只中。透き通る風が通り抜ける。

 三人はそれぞれが今のこの時間を慈しむようにゆっくりとホテルへ歩みを進めていった。


                 * * *


 ホテルの一室では通話を終えたレオナルドが溜め息をつく。

「いかがでしたか?」会話の様子を見守っていたフランクリンが話し掛ける。

「推察通りといったところだな。具体的な言及は避けたが伝えるべきことは伝えた。彼女達の事だ、後はうまくやるだろう。」

 そう言うとレオナルドは手元の資料を片付けてカバンの中へ入れる。

 気にならないと言えば嘘になる。しかし自分達に出来るのはここまでだ。それに会場に向かう時間も近付いている。

「そろそろ移動する頃合いだな。ゼファート司監。」

「はい。」

「先ほどの “あれ” についてセントラルで引き続き調査と解析を継続するように指示を出し給え。」

「宜しいのですか?これ以上は藪蛇では?」

「構わぬ。既に手を出してしまった以上、ここで手を引く事に意味は無い。知ってしまった以上は見て見ぬ振りも出来ないだろう。昨日、無関心という暴虐を捨てなければならないと言ったのは他ならぬ我々だ。何より、最後はそれが自分達の身を守る為の武器になるかもしれない。」

「承知しました。」

 フランクリンはデバイス経由でセントラルへ総監の指示を手早く伝えた。

「では行こう。これからが本番だ。」

 二人は電気を消し会場へと向かう為に部屋を後にした。


                 * * *


 鎖橋を渡り終えホテルへと辿り着いた三人は駐車場に停車してある車へと向かう。

 ホテルの駐車場には多種多様な高級車が並んでいたが、その中にあっても彼女達の車はよく分かる。

 幻影。そして未来へ連綿と続く魂の永続性を示す名を持つその車はとりわけよく目立つ。

 車まで辿り着くとアザミが後部座席のコーチドアを開いてくれたのでフロリアンとマリアは昨日と同様に乗り込んだ。

 マリアは手ぶりでフロリアンに先に乗るよう促しその後に自らも続いた。

「現地までは約二時間といったところだ。道のりは昨日とほとんど同じで、昨日より早く着くはずだよ。到着までゆっくりしてくれたら良い。」

 マリアはそう言ってくれるが、やはり乗り慣れないので落ち着かない。フロリアンは無意識に肩をすくめる。

「ん?もしかして緊張しているのかい?もっと肩の力を抜いてリラックスしなよ。」

 笑顔で話し掛けてくれるマリアのおかげで幾分か気は楽になる。

「ありがとう。昨日に引き続き、こういう車に乗り慣れてなくてね。」

「君のそういう “普通” なところが凄く良い。」

 褒められているのか貶されているのか真偽の程は不明だが、彼女の表情を見る限りでは悪い意味ではなさそうだ。フロリアンも彼女に釣られて笑う。

「では、参りましょう。」

 アザミはそう言うと車を南部国境沿いの町、リュスケへと向け走らせ始めた。


 フロリアンは車の窓から流れて去る景色を眺める。

 ホテルを出て少し走ったところでエルジェーベト橋が右手に見えすぐに遠ざかって行った。ドナウ川では多くの遊覧船が観光客を乗せて行き交っている。フロリアンはぼうっと外の景色を眺め続けた。

 このまま市街地を通り抜けM5と呼ばれる高速道路に入ってしまえば、あとはそのまま目的地付近まで単純な道筋で向かう事が出来る。


 車内はとても静かだ。窓の外を眺め続けるフロリアンにマリアが話し掛ける。

「何か飲み物でもどうだい?」彼女が気を使ってくれているのが分かる。

「じゃぁ、お言葉に甘えて頂こうかな。」

「オレンジとグレープのジュースがあるんだけどどちらが好みかな?」

「グレープジュースをもらうよ。」

 返事を聞いたマリアは静かに微笑むとグラスにジュースを注いでくれた。

「私も同じものを頂こう。」そう言って彼女も同じジュースをグラスに注ぐ。


 フロリアンはマリアが注いでくれたジュースを一口飲みその芳醇な味わいに驚いた。

 葡萄特有のえぐみもなくすっきりした飲み口で自然な甘みが心地よい。今まで飲んできたどのグレープジュースよりも美味しいと思えた。

 二口目を飲んでその美味しさに舌鼓を打つ。間違いない。今までの人生で飲んできたジュースの中でも別格の味わいだ。

 そんな事を考えている時、ふと今自身が乗せてもらっている車の事を思い出した。

 もしかするとこのジュースも信じられないような価格のものではないかという思いが頭をよぎったのだ。

 そう思ったフロリアンは、恐る恐るマリアにジュースの事を尋ねてみる。

「すっきりしていて凄く美味しい。このジュースはどこかの特産品か何かなのかい?」

 しかしマリアから返ってきた反応は意外なものだった。

「あはは!良かったね、アザミ。とても喜んでもらえたみたいだ。」

 きょとんとするフロリアンを見てマリアは言葉を続ける。

「間違いなくとびきりの特注品だ。世界に二本とないからね。なぜならこのジュースはね、 “アザミの手作り” なんだよ。」

 フロリアンは驚いた。個人でこんな美味しいジュースが作れるとは。それは確かに値段のつけようなどない完璧な特注品であった。

「ありがとうございます。お口に合ったのであれば幸いです。」運転をしながらアザミが礼を言う。

「私もこのジュースがとても好きなんだ。君に気に入ってもらえて私も嬉しいよ。」

 そう言うとマリアはジュースを一口程飲んで微笑んだ。デザートを食べていた時と同じ、とても幸せそうな表情をしている。

「素晴らしいジュースだよ。今まで飲んできたどんなグレープジュースより美味しい。」

 それは偽りなどない心からの言葉だった。そしてまた一口ジュースを飲む。

 フロリアンは素晴らしいジュースを堪能しながら窓の外に流れる景色を眺めた。

 空調だけでなく、座席に備え付けられているシートヒーターによって今は体の冷えもほとんどない。足元に敷かれた絨毯はとても柔らかく心地よかった。

 昨日から慣れる事が無かった車内空間であったが、マリアの気遣いのおかげか今はとても快適なものに思えていた。


                  *


 しばらく走った頃、フロリアンはふと気になった事をマリアに尋ねてみる。

「マリー?今向かっているリュスケには何があるんだい?」

「そうだね。田園風景が広がっていて、動物達と触れ合える牧場があるような静かでのどかな町だよ。市街地へ入れば住宅が並んでいて、お店があって、仕事場や祈る為の教会がある。そんなどこにでもあるようなありふれた町だ。けれど、ひとつ違う建物があるとすれば国境沿いにある移民・難民拘留センターだろうね。」

 フロリアンの質問にマリアが答える。彼女は座席に備え付けられているタブレットデバイスを操作し、具体的な現地の写真などを表示させてフロリアンにも見せた。

 画像には道路沿いに並ぶのどかな住宅街が映し出されていた。ブダペストの建物とは違い、三角屋根の平屋も多く見受けられる。

 次の画像は牧場で馬と戯れている観光客の写真だ。立ち並ぶビニールハウスや田園風景が広がっている。

 そして次に映し出されたのが国境検問所付近の画像だった。前の画像とは明らかに違った独特の雰囲気を漂わせている。

 目に見える画像以外に、当然ではあるが音を感じるわけでも空気を感じるわけでもない。それでも画像からは言い知れぬ静かなる重圧のようなものが伝わってきた。

 最後に映し出されたのは広い敷地内に細長い建物が密集した航空写真だ。写真の下には小さな文字で拘留センターの表記がされている。


 拘留センター。不法入国や査証違反などを犯した移民・難民が出国命令などの指示を受けるまでの間その名の通り拘留する為の施設だ。

 セルビアとの国境沿いに位置するこの町では昔から多くの難民が新天地を求めて押し寄せてきた。

 目的はハンガリーを経由してオーストリアやドイツに向かう為だ。その中には正規の手続きを経ずに不法に越境するものも多く、そういう人々が後を絶たなかった。

 こうした決まりを破った人々が集められ、国外退去命令などの処遇が決められるまでの間のみ留めておくための施設としてその建物は存在する。


「国境や拘留センターの近くまで行くつもりなの?」

 フロリアンの質問にマリアが話を続ける。

「まさか。国境は監視体制が厳重だからね。出国する意思が無いのに近付いたりはしない。当然、拘留センターにも近付く事はできない。それに、国境線に近い位置というのは昨今の事件の事もあってまともに近付けるような状態にもないだろう。はっきりと言ってしまえば私達はその地に訪れて特に “何かをするというわけではない” んだ。ただ、この目で見て肌で感じないと理解できない事もある。それを理解する為に向かっているのさ。例えば…君は極東の日本を訪れた時、広島に立ち寄ったと言ったね?」

「よく覚えているよ。海上に鳥居という門のようなものが立つ島に行ったり、市街地を巡ったりしたんだ。それと原爆ドームや資料館、周囲の公園もね。市街地はとても発展していて賑やかな都会だったけど、原爆ドームの周囲は言葉では言い表せない空気の違いのようなものを感じた事が印象的だった。」

「広島は長崎と共に、世界で唯一市街地に核爆弾が落ちた場所だ。世界がどれだけ広くても、その二つの地でしか感じる事が出来ない空気感というものがやはりある。それを経験した君ならきっとわかるはずだ。今から行く場所にはドームのようなものがあるわけではないけれど、そういった場所と同じように、その場所でしか感じる事の出来ないものがあるはずだよ。」

 マリアの言葉の意味をフロリアンは理解したような気がした。

 広島や長崎だけではない。世界中の国々で同じように空気感が異なる場所というものはいくつも経験してきた。その中には当然、自らの祖国であるドイツも含まれる。

「昨日、アシュトホロムを訪れた時にも何か感じなかったかい?」

「華やかな首都を見て回った後に訪れた事と、日暮れだからだと思っていたけど、独特の静けさみたいなものは感じていたよ。ただ静かなだけではない、誰かが何かを言わなくてもこの場所には特別な何かがあるという意識が働いてしまうというか。言葉では難しい。」

 その地での出来事、今に至るまでに辿り積み上げてきた歴史がそう感じさせるのだろうか。緊張感ともいうべき空気を確かにフロリアンは感じ取っていた。

「確かに難しいね。私も君と同じように、その感覚を言葉で表現する術は残念ながら持ち合わせていない。少し話が逸れてしまうが、結局のところ人は己の知識の中にあるものでしか物事を判断出来ない生き物だ。知識、体験、さらに言えば経験というものがないと考える事はおろか想像力を働かせることすらも出来ない。規制という名で臭い物に蓋をしてしまう現代では、他人を殴れば痛みがあるという事すら理解できない人が多くいる。自身の起こす行動がどういう結果を招くかについて想像力が追い付いていないからだ。口を揃えて “こんなはずではなかった。こんなことになるなんて思わなかった” と言うだろう。人として知るべき痛みなどを知らないまま生きる事は悲劇を生みだしかねない。」

 手に持つグラスのジュースを一口ほど飲んでからマリアは話を続けた。

「だから私は人は常に何かを知る為の努力を怠るべきではないと考えている。特に、何かを為そうとする者はその努力の積み重ねと経験という引き出しの数を多く持つべきだと思っている。知識や経験が無ければ閃きも起こり得ないからね。君のお父様がおっしゃっていたという “気付き” もその中から生まれてくるものだと私は思う。そういった人は自然と人の痛みも、世界の痛みも理解できるようになる。初めて訪れた地で、過去に何が起きたのかを空気として感じる事が出来るようになるかもしれない。そうした人間は希有だ。多くの地を訪ねて歩いたという経験が無ければ成し得ない感性なのだから。もし、君が君の人生において、君自身の意思をもって何かを為すつもりなら、この経験が役に立つ事があるかもしれない。」

 フロリアンはマリアの話を静かに聞いた。

 真剣な表情で言う彼女の言葉には自身の経験からくるのであろう独特の重みがあった。彼女の過去にどういった事があったのかは分からないが、その見識には驚かされるばかりだ。

「さて、難しい話はこのくらいにしておこう。現地に着く前に頭が疲れてしまいそうだ。私だけ長話をしてしまってすまなかった。君もジュースのお代わりはどうだい?ジュースの糖分は直接頭の栄養になるからね。」真剣な表情から一転、笑みを浮かべたマリアが言う。

「ありがとう、頂くよ。」フロリアンは一度深呼吸して答えた。

 車は目的地へと向かって走り続けている。

 周囲の風景はどこまでも変わらぬ田園地帯が広がる。市街地の近くには騒音除けのフェンスがある影響で街並みというものが見えない為、同じ景色がいつまでも広がっているように見えるのかもしれない。

 首都の華やかさから離れた地。無辜の人々がただ普通の生活を営む町。

 国境地帯。拘留センター。過去の歴史。今起きている事件。

 フロリアンはこれから訪れる場所についての様々な事を考えながら窓の外を見つめた。


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