第13節 -憩いの夜に微睡んで-

 フロリアンはマリアとアザミの二人が乗る車を見送った後、イシュトヴァーン大聖堂の近くで催されているクリスマスマーケットに出かけ、軽く夕食を取るとすぐにホテルの部屋へと戻った。

 時刻は午後8時を回った。シャワーを浴びて一息ついた後にベッドで横になる。


 自分が探しているものは何なのか。求めている答えは何なのだろうか。


 部屋の天井を見つめながらしばらく考えたが、思考の堂々巡りになるだけで答えは一向に浮かんでこない。

 大きな溜息をつく。これまでの人生、これまでの経験、これまでの積み重ねにおいて、自身は本当に見るべきものを見ず、向かい合うべきものから逃げていたのではないか。

 出来る事ばかり探して、出来ない事は最初から見ようとしていなかったのではないだろうか。

 マリアの放った言葉が頭に響く。

【分からないという理由で傍観者になり、誰かが問題を解決してくれるまで待つだけなのか。】


 違う。解決する方法が分からなくても向き合う事だけは出来るはずだ。でもどうしたら良い?


 答えは出ない。やはり同じ思考が永遠に繰り返されるだけだ。個人に出来る事は限られる。

 フロリアンは少し気分転換をする為にネットテレビの電源を点けた。チャンネルを順に変えていく。

 番組を順に切り替えていた時、夜のニュースが目に留まった。今日の国連特別総会で各国が発表した事を特集している。


『本日、ブダペストの国際会議場で行われた国際連盟主催の特別総会において、世界特殊事象研究機構の代表であるレオナルド・ヴァレンティーノ氏が難民問題についてスピーチを行いました。』

 アナウンサーの説明の後、スピーチ映像が報道される。およそ十分間に渡るスピーチがノーカットで流れた。フロリアンは静かに耳を傾けた。


『行動にこそ意味があると信じて。我々が踏み出す一歩が、多くの人々の救いになる事を期待しています。

 そしていつか戦争、紛争、貧困、差別、無知、不正などの問題が解決されて、世界中の全ての人々が等しく人としての営みを送る事が出来る日が訪れる事を切に願っています。

 多くの麦を実らせるために、無関心という一つの暴虐を捨て、たった一つできる最大の事を行う。その積み重ねがこの世界をより良き未来へ導くと信じて。』


 無関心という暴虐。マリアが暗にほのめかした言葉の真意だ。それらを捨て、自分が出来る最善の行動をする事が未来に繋がる。

 自分に出来る最善の行動。自分に出来る最大の努力。スピーチの内容を聞いた事でフロリアンはある一つの答えを頭へと浮かべた。


 知らない事を知る努力を諦めない事。


 最初から答えは出ていた。最初から何も変わらない。その上でただ視線の向け方を変えてみるだけで良かった。

 今朝、朝食を彼女達と一緒にとった時に『良い旅をしている』と言ってくれた事の意味がなんとなく理解出来たような気がした。

 フロリアンはスマートデバイスを手に取り、メッセージアプリを起動して文章を打ち始める。

 宛先はマリアだ。直接電話をかけようかとも思ったが、迷惑になってもいけないと思い避けた。

 明日の午前9時。約束の場所へ向かう事を決めたフロリアンはマリアへその旨を伝えるメッセージを送る。

 メッセージを送り終えた後、翌日に備えて早めの眠りに就く事にした。


                 * * *


 同午後8時。ホテルのレストランでディナーを終えたマリアとアザミは、部屋に戻る前にホテル内のカフェに立ち寄る事にした。

 店内に入るとすぐにコーヒーの香ばしい匂いが漂ってくる。カフェにはバーも併設されており、同じ店内にコーヒーを飲みながら読書を楽しむ人や、夜のアルコールを楽しむ恋人同士の姿も同時に見受けられる。

 マリアとアザミはスタッフに出迎えられ、好きな席に座るように言われると二人は敢えて人の少ない奥の席を選んで座った。

 二人は席に座るとすぐにスタッフを呼び、赤ワインと軽食としてチーズセレクションをオーダーした。

 マリアがワインを飲むときにチーズを頼むことは昔からの習慣である。

 そして、彼女がアルコールをオーダーする際に決まって尋ねられる事…年齢確認だ。

 その見た目から成人していないと見られることがほとんどで、どこへ行っても必ずと言っていいほど確認されるのでもはや慣れたものである。

 マリアは国際免許証を提示し自身が成人であることを伝える。するとスタッフは一礼をしてオーダーされたメニューの準備をしにカウンターへと下がった。


 オーダーをしてから間もなく、二人の元に注文の品が運ばれてきた。この間に特にマリアとアザミの間に会話はない。スタッフは慣れた手つきで二人のグラスにワインを注ぐと再び一礼をして去って行った。

 今回はケークフランコシュと呼ばれるブドウから作られたワインを選んだ。強めの酸味が特徴でフルーティーな味わいを楽しむ事が出来る。


 グラスに注がれたワインを傾けながらマリアが物思いに耽る。

 先程レストランで夕食をとっているときもそうであったが、彼を見送ってからというものマリアはぼうっとしたままのように感じられる。

 その横顔をアザミは見た。とても長い間、マリアと共に過ごしてきたアザミであったが、今の彼女が何を思っているかをその表情から読み取る事は出来ない。

 そんな彼女の様子を見ながら敢えて何も言わずにいたが、思い切って今日一日気になっていたことを尋ねてみる事にした。


「マリー。一つ尋ねても良いでしょうか。」

「ふふ。君が私に折り入ってそう聞くなんて珍しいこともあるものだね。一つと言わず、二つでも三つでも構わないよ。どうしたんだい?」

「どうして彼にそこまで拘っているのですか?」

 彼とは当然、フロリアンの事だ。マリアはワイングラスを傾けたまま相変わらず遠い目をしてぼうっとしている。

「貴女が特定の個人をそこまで気に掛けるのは珍しい。それも初対面の相手を。」

「そうかい?」マリアは短く返事をする。

「貴女が誰かに対して心を開く事は喜ばしい事です。私はそれをとても嬉しく思います。ですが、私から見ていると今日の貴女は彼に対して少し執着しているようにも見えました。その理由を聞いておきたいのです。」

 アザミの言葉にマリアは返事をしなかった。同じ表情のをしたまま、ただ静かに聞いている。

「歌劇場での過度な緊張も貴女らしくありませんでした。もしや今朝、貴女が転んだ際に彼の手を取ったとき、彼に対して何かを視たのですか?」


 しばし無言の時間が続く。

 マリアはその柔らかな唇を軽くグラスに当て、ワインを一口ほど口に含んで味わってからゆっくりと飲み下す。その後、ただ一言だけ短く返事をした。

「何も。」しかし、その表情は不機嫌という訳ではない。とろりとした瞳から窺えるのは、むしろとても穏やかな微笑みのようでもある。彼女のこのような表情を見るのはアザミにとってすら初めての経験であった。

 今度は遠くを見つめたままのマリアがアザミに問い掛ける。

「アザミ。君は彼の事をどう思う?」

「今の時代には珍しいほど純粋で欲の無い、誠実な青年だと思います。」

「そうか。」

 アザミの返事を聞いたマリアはそう言うと再びワインを一口ほど口に含み、ゆっくりと飲み込んだ後に話を続けた。

「私もまったくもって同感だよ。彼は素晴らしい。疑う余地なく、とても誠実な人間だ。」

 その後、視線をアザミの方に向けてマリアは言う。

「アザミ。君が聞きたいのは彼の “この先” に関する事だろう?それならば先程と答えは変わらない。私はね、残念ながら今日一日を通して彼に関する事は何も視ていないんだよ。」


 その言葉を聞いたアザミは驚いた。視えていない?

 カフェという場所であるが故に、言葉の節々をかなり曖昧な表現で濁しているが、マリアの言う言葉が意味するのは間違いなく彼女の持つ能力に関する事だ。

 彼女は未来視の力を持っている。


 予言。自分の意思で視ようとして視る未来。

 預言。意思とは無関係に垣間見る未来。


 予言の花。そう称される彼女の能力は “絶対” だ。

 自分と、あと一人を除いては具体的にこの力の存在を知る者は世界に存在しない。そして彼女が未来を見通す事が出来ない人間など、この世で能力の存在を知るその一人をおいて他にいないと目してきた。

 そんな彼女が視えなかったなど有り得るのだろうか。


 彼女の予言は、例えば特定の個人に対する直近、または遠い先を含めた未来も “視ようと思えば視る事が出来る” 。その個人という対象には当然ながら自分自身の未来も含まれている。

 特に自分の意思で視ようとする未来に対しては、複数の未来の中から都合の良い未来を選び取ることさえも可能だ。

 その為には “結果” に至るまでの過程を変化させることが必要となる。

 彼女曰く、対象が求められる結果に辿り着く為に必要な分岐点、いわゆる “ポイント” というものは予め決まっているという。目的に応じ、必要なポイントを正確に再現出来れば望む結末が得られるのだそうだ。

 反対に、意思とは無関係に垣間見る預言に関しては天啓と呼べるものと同義らしく、視えた事象に対して結果を変化させることは基本的に出来ない。

 過去、幾度か改変を試みたというが悉く失敗に終わったという。


 彼女の口ぶりからすると、フロリアンに対しても予言を何度か試みたのだろう。しかしそのいずれにおいても何も視る事が出来なかったという事らしい。

「君が写真に収めたかったと言った場面。今朝、彼にぶつかって転んだ時なんかが良い証拠さ。子犬が走り出したときに転びそうになった時もね。」

 その件に関してマリアは不本意だ、という表情をしている。

 確かに、もし仮に普段通りに未来視や未来予知というものができていたなら転ぶことはおろか、ぶつかるということすらなかったに違いない。


 このまま後ろ向きで歩き続ければ、次の角で男性とぶつかり自分は転ぶ。


 そういう未来が見えていたのであれば、ポイントになるであろう “後ろ向きで歩く” という行為を改めるか、一度 “立ち止まって僅かな時間やり過ごせば良い” 事になる。


 このように未来視の力が備わっている以上、自身の身に起きる危険に関しても当然予め察知する事ができ、その結末を知った上で回避する事だってできる。

 これらの力を非常に高度なレベルで使いこなすマリアにとっては、そういった危険回避は反射行動に近いレベルで行われる。例えば熱いものを持った時に、熱いと知覚するより先に手を離すような速度に近い。

 つまり、自分から敢えてぶつかろうなどと思ってわざわざ “そうなるように” 実行しない限りこういった事故が起きる事はまず “有り得ない”。

 だが現実はそうはならなかった。この事だけをとってもアザミを驚愕させるに十分すぎる出来事であった。


「確かに、それが事実であれば驚くべきことですね。」アザミは素直に思った感想を口に出した。

「長い間過ごしてきて初めてだよ。」

「なるほど。しかし、それだけではありませんね?」

「まったく、君に隠し事なんて出来ないね。隠し事というものでもないのだけれど…」

 マリアはそう言うとアザミの方に視線を向けて話した。

「私らしくない、か。その通りかもしれないね。アザミ、私には “彼” は見えなかったけれど、彼が転んだ私に手を差し出してくれた時に別のものを感じたんだ。」

「別のもの?」

「あの時、私の脳裏に浮かんだのはお父様だった。小さい頃、私が走って転んだりしたときに同じように手を差し出してくれたからかな。今になってなぜと思うのだけれど。」


 今朝、あの路地で彼の差し出した手をマリアがとろうとした時に硬直した様子はアザミも見て取った。その時はきっと彼に対して何か未来が視えたからだと思っていたが、どうやら違うようだ。

 彼に対して未来は視えない。その代わりに自身の過去がフラッシュバックしたという。


「では、貴女自身が彼を食事に誘ったのは?」

「どうしてだろうね。そんな事、いつもであれば君の機転に任せるだけなのに。あの時は自分でも気が付いたら彼に話しかけていた。当然、明日の予定において使えそうな人物になるかもしれないと思った事もあるけれど、正直なところその目的より私自身の興味の方が勝ってしまっていた。」

 アザミの質問にマリアは包み隠す事無く自身が感じたことを話した。アザミは静かに耳を傾け、マリアは話を続けた。

「それからだよ。彼と話す度に私の中でお父様との記憶がいくつも蘇ってきて…家族で朝食を囲んだ時の事。外を一緒に散歩した時の事。お父様が外で見てきたものを私に語り聞かせてくれた時の事。そういう記憶で私の頭は一杯になった。そして歌劇場で公演が始まるのを待っている間、私はある事を考えていた。不安だったんだ。私が既に視たものが、何か別のものに変わってしまうのではないかと。結局、何度確かめようとしても “それ” が視える事は無かった。」

 マリアは手元のグラスに残るワインを口に含んで、心を落ち着けるように飲み込んだ。

「私は迷っていた。このまま彼を私達の予定に巻き込むべきなのかどうか。その時、私の横顔を心配そうに見る彼に気付いた。私が心配事を抱えた時に、よくお父様が隣で見守ってくれていたのと同じように、ね。私の中にその記憶が浮かんだ時、とても心地よい温かさを感じるような…不思議な気持ちになったよ。」


 たった今、アザミは公演が始まる直前に彼に聞こえない程度の声で彼女が『ありがとう』と呟いた本当の意味を知った。

 今日は一日驚かされてばかりだ。先にも考えた事だが、このようなマリアの様子を見たことは過去に一度もない。

 初対面の相手に自ら話しかけ、自ら誘い、自ら関りを築こうとする光景を見て少し嬉しく思っていたが、根の部分にあるものを考えるとこれはかなり難儀そうな問題であるようにも感じられる。

 彼と過ごす時間が少しでも長くなればなるほど、彼女の中には決して消す事が出来ないだろう感情が生まれるに違いない。


「私達にとって彼は不確定要素だ。彼と一緒にいる事が、果たして私達と彼にとって良い結果を招く事になるかは正直なところ見当がつかない。」

「では、午後にあそこへ向かう前に彼についてくるかを自分自身で選ばせたのは…」

「こうなると、彼自身に選ばせる事が最善の結末に結びつくような気がしただけさ。それが私のあるべき立場として正しい判断であったかは分からない。そして明日、彼が私達と一緒に来てくれるかどうかすら不明だ。自分ですら、これらの出来事が意味する内容が分かっていないのだから滑稽だと思う。ただ、 “分からないからという理由で見て見ぬふりをする” 事も私には出来なかった。私は、私自身の興味によって彼に期待をしてしまっているのかもしれない。或いは、彼なら何かを変えてくれるのかもしれないと。」

 マリアは自身の思っている事を偽りなく答えた。


 そこまで話し終わると目の前にあるチーズを手に取り食べ始める。本心で考えていた事を話し終えたからだろうか、ここに訪れるまでと比べて幾分か表情も明るくなったのをアザミは感じ取っていた。

 今は口に運んだチーズを美味しそうに食べている。こちらまで嬉しくなるような笑顔を浮かべながら。

 先程の返事の中で “彼に期待しているから” という話を彼女はしたが、もう一つ別の意味が含まれているのではないかとアザミは考えていた。重大な本音が一つ抜けている。


 自らの意思で彼を危険に巻き込むことを躊躇したのではないだろうか。


 自身と一緒に来てくれることを願いつつも、心のどこかで父親の面影を感じさせる彼を危険に巻き込みたくないという心情が働いた。

 故に一緒に来るかどうかを質問するという判断に至ったのではないかと思ったのだ。

 間違いない。彼女は既に彼が傷付く事を心のどこかで恐れている。そして彼に対する未来が見えない事でその可能性を否定しきれないでいる事が不安なのだ。

 一緒に過ごしたいと思いつつ、自分とは関わらない方が良いと考える矛盾。この事が悪い意味で彼女に影響を与えないことを願うしかない。

 感情に対して後戻りが出来なくなった時、彼女は今までそうしてきたような判断が下せるのだろうか。自分の “本当の気持ち” に嘘を吐き続ける事が出来るのだろうか。

 今回のこの地への訪問が、ただのクリスマスバカンスであったのならどれだけ良かっただろう。アザミは今さらながらにそう感じずにはいられなかった。


「彼と話す時の貴女の表情を見て、何か感じるところがあるのではないかとは思っていましたが。そういう事でしたか。意識していたかは分かりませんが、とても良い表情をしていましたよ。思い返せば返すほどに、貴重なあのシーンを写真に収められなかった事だけが悔やまれます。」

 冗談めかしたアザミのその言葉を隣で聞いていたマリアは、今しがた口に含んだワインでむせそうになっていた。

「君も諦めが悪いね。」間一髪むせる事を回避したマリアは呆れた表情をして言う。そして溜め息をつきながら話を続けた。

「君が言う所の、私が彼に執着しているように見えた理由は分かってくれたかい?」

「はい。十分に。」アザミは短く返事をした。


 隣ではワイングラスを揺らしながらマリアが微笑んでいる。青年の事を考えているのだろうか。その横顔はどことなく嬉しそうだった。

 アザミにとって、先程考えた理由から彼が興味以上の関心になる事に対して不安が無いわけではない。

 しかし、彼女の嬉しそうな表情を見ていると中々そうも言えなくなる。

 本来であれば、自分達が目指す最終的な計画達成の障害になり得るかもしれない可能性として危険視するべきだろうに。

 自分はこの少女に対して相変わらず甘いものだと自覚はしている。

「少し、酔いが回りましたか。」相変わらずぼうっとしたままのマリアを横目にアザミが呟く。

「そうだね。少し酔っているのかもしれない。あぁ、きっとそうだ。たまにはお酒の力に頼るのも悪くはないね。」アザミの言葉にマリアは返事をする。

 マリアの目はとろんとしたままでやや虚ろだ。いつもその瞳に浮かべる深淵を内包したような仄暗さも、底知れ無さといったものも今はまったく見受けられない。

 ただの年頃の少女そのものだ。


 二人が話を終えると唐突にマリアのスマートデバイスがメッセージの着信を知らせた。メッセージの送り主はフロリアンであった。

「噂をすれば何とやら、だ。」

 マリアは笑顔でメッセージの内容を確認する。翌日の待ち合わせに来てくれるらしい。

「まったく。せっかく “番号を” 教えたんだ。直接電話してくれれば良かったのに。」

 少し膨れながらではあるが、しっかりとすぐに返事を送っていた。

 喜んだかと思えば不満そうな顔をする。望んだ答えは返ってきたが、伝え方が彼女の気に召さなかったらしい。

 どうやら声が聴けなかった事が不満なようだ。この表情の移り変わりを眺めているのは実に楽しい。アザミはそう思っていた。

 そして、今日の表情の移り変わり方はまるで恋をした乙女のようだとも感じていた。


「ところで。」

 メッセージを返信し終えたマリアはスマートデバイスをテーブルに置くとアザミに別の話題についての確認を始めた。

「例の写真はしっかり撮れたかい?」

 その確認とは今日の夕方の出来事だ。その顔からは先程までの恋する乙女のような表情は消え去り、今はいつものように不敵な笑みが浮かべられている。

 アシュトホロムの記念公園へ訪れた本来の目的が達成できたかの確認である。

「はい、もちろん。彼の腕に受け止められた貴女のロマンスシーンは撮り損ねましたが、目的のものはしっかりと。言ったでしょう?最新のテクノロジーを搭載したわたくしのカメラはどんな環境でも “最高の瞬間” を逃さないと。」

「一言二言余計だよ。でもそれは重畳。部屋に戻ったら確認してみよう。」

 目的が達成されている事を確認したマリアは満足そうに笑う。そしてチーズをひとつ手に取り食べる。


 あの場所で自身の存在が気付かれていないと思い込んでいた愚者の命運は明日尽きる。

 その愚者は、彼女の口車に乗せられて今頃リュスケへ移動する算段を立てているはずだ。アザミはマリアのように先を視る事は出来ないが、そう確信できた。

 そして最後の審判を下すのはおそらく自分の役目になるだろう。

 手元のワインを揺らすとアザミもまた一口飲み、このゆっくりとした時間を楽しんだ。


                 * * *


 同時刻。国際連盟主催の特別総会を終えたレオナルドとフランクリンはホテルへと戻っていた。

 現在レオナルドの部屋で二人は翌日の打ち合わせの最中だ。情報収集の一環としてニュース番組を視聴する。

 そこでは先ほどのレオナルドによる演説がノーカットで流れていた。

「自分の姿を見るというのは何度経験しても慣れないものだな。ところでゼファート司監、現状で我々に対する世界の反応はどのようになっている?」

「施策に歓迎の意を表明する国が7割、発言内容に不満を表明する国が2割、残り1割はまだ明確な態度を表明していませんね。」

「思っていたよりは非難する声は圧倒的に少ないか。だが世界の反応は常に流動的だ。昨日まで褒めていたかと思えば翌日には徹底的に攻撃される事だってある。話半分で見ておいた方が無難だろうな。」

 想定していたよりは否定する意見は少ないが、そういう状況に浮かれるわけにはいかない。世界における政争というのはそれほど単純なものではないからだ。

 今は各国とも腹の探り合いをしている真っ最中だろう。施策について歓迎の意を示し、そこで他国がどういった反応をするか様子を見てから真意を話すつもりでいるに違いない。

「はい。私もそのように思います。追及に備えた準備をしなければなりません。各国代表の演説から見て取れる反応傾向は既にまとめてあります。」

「後は妥協点を探る作業か。言い方は悪いが落としどころだな。」

「常に完璧というわけにはいきません。各国にも自国の立場というものがあります。同盟国と歩調を合わせる為に迂闊な発言が出来ない国や、国民感情を探る為に態度を保留している国もあるのでしょう。ただし、今回は結論ありきで始まっているような総会でもあります。それ故に各国の動向も掴みやすいというものです。質疑応答の資料作成は私に任せて、総監は先にお休みください。」

「すまないな。気を使わせてしまって。」

「お気になさらず。矢面に立たされるのはいつだって貴方なのですから。」

「では、お言葉に甘えさせてもらおう。」

「明日の午前7時にお迎えに上がります。では、私は失礼します。おやすみなさいませ。」

 そう言うとフランクリンは部屋を後にした。


 レオナルドはフランクリンを見送ると、部屋に備え付けてあるコーヒーメーカーでコーヒーを淹れる。

 この部屋にはなかなか良い豆が取り揃えてある。いつも執務室で愛飲しているものとは違うが上質な豆だ。

 ソファにゆったりと腰を下ろし、淹れたばかりのコーヒーを一口ほど飲む。落ち着いた気持ちになるのが久しぶりのように感じられ、自然と深い溜め息が漏れる。

 まずは第一段階の終了。次は各国から想定される厳しい質問に対して的確かつ明確に答えるという試練が待ち構えている。無論、そこで答えを誤れば命取りだ。

 だが、そこはフランクリンが用意する資料を参考にする事でなんとかなるだろう。それ程彼には全幅の信頼を寄せている。

 レオナルドはしばらく天井を眺めながら物思いに耽った。そして少しばかり目を閉じる。ゆっくりとした時間が流れる。空調の音以外に聞こえる音は何もない。


 しばらくして目を開ける。ここまで来た以上は迷う必要はない。自分のスピーチ内容に従うなら、以後は出来る限りの最善を尽くすことに集中すべきだろう。

 手に持ったコーヒーを飲み干すと翌日に備えて早めに就寝する事にした。

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