第30話 左手の理性、右手の衝動
最寄りの駅から電車で二十分ほど揺られ、俺は舞果が旅立つ駅へと降り立った。
改札を抜け、自動券売機で入場券を購入し、新幹線のホームへ向かう。
すでに新幹線が到着していた。電光掲示板を見ると、発車まで五分もない。
俺はホームを小走りし、舞果の姿を探す。
――いた……!
ふたりはいままさに乗りこもうとしているところだった。
先に俺に気づいたのは陣野さんのほうだった。うつむいていた舞果の肩を叩き、俺のほうを指さす。
顔を上げて俺を見た舞果は、なぜかちょっと困ったように口をへの字にした。陣野さんは知ったふうな顔でうんうんと頷いて車両の中へと消えた。自分のことを、若者たちの気持ちを汲める出来た大人だとでもいうふうに。
俺はゆっくりと舞果に近づいた。彼女は乗降口に立っている。制服を着ており、肩には大きなスポーツバッグをさげている。
「よ、よお」
なんて声をかけていいか分からず、俺はぶっきらぼうに言った。
舞果はぷっと吹きだす。
「なにそれ、ラッパーなの?」
「そのYOじゃねえよ」
ふたりともすぐに無言になってしまう。もう数分でドアは閉まってしまうのに。
「な、なんで制服を着てるんだ?」
「向こうのひとたちとは初めて会うから。ちゃんとした服って、わたしこれしかないんだよね」
「そうか」
――やばい、また話が止まった。
前はどうやって話してたっけ。
舞果は小さく笑った。
「見送りに来てくれるなんて思わなかった」
「まあ、元カレだし。来るよ、そりゃ」
「ありがと」
また沈黙。
「あ、あのさ、舞果、大学どこ行くんだ?」
「大学? 決めてない。行くかも分からないし」
「もしよかったら、一緒の大学行かないか?」
「……え?」
「い、いや、よかったらだけど」
「そうだね、考えておく」
嬉しそうに、でも少し悲しそうに舞果は微笑む。
そのときアナウンスがホームに響いた。間もなく発車するらしい。
――早い。
ほとんどなにも話せていない。まだ話したいことはたくさんあるはずなのに。
けたたましいベルが鳴る。もう声は届かない。
『ドア閉まります。駆けこみ乗車はおやめください』
舞果は左手を挙げた。
俺も左手を挙げて応えた。
ホームドアがピンポンピンポンと電子音を鳴らす。
その瞬間、俺の右手は舞果の左手をつかみ、引っぱっていた。
舞果がつんのめるようにして俺の胸に飛びこんでくる。
彼女の背後でドアが閉まった。
新幹線がゆっくりと動きだす。
窓に陣野さんの姿が見えた。彼はホームにいる俺たちの姿を、目も口も丸くして呆然と見つめていた。
やがて新幹線はホームから出ていった。
先ほどまでの喧騒が嘘のように静かだった。舞果は俺の胸におでこをくっつけたまま言う。
「……なにしてんの?」
「なにしてんだろうな」
「チケット代、無駄になっちゃったじゃん」
「すまん」
舞果は顔をあげた。ちょっとだけ怒っているみたいに、俺を上目遣いでにらむ。
「どうしてこんなことしたの」
「……前に、記憶が薄れていくのは寂しいから記録する、みたいなこと言ってただろ」
「うん」
「たしかにそれも寂しいけど、忘れられないのにそばにいないのも寂しいもんだぞ?」
「答えになってないけど」
「すまん。――ところでさ」
「なに?」
「千七百円、後払いでいいか?」
「は?」
俺は舞果を抱きしめた。彼女は驚いたように息を飲んだが、抵抗はしなかった。
そのとき、ブーン、ブーンと舞果のスマホが震動した。
「お父さんからだ」
と、躊躇なく赤い『拒否』のアイコンをタップした。
「いいのか?」
俺が尋ねると、舞果は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「いま仕事中」
そして今度は彼女のほうから抱きついてきた。
積極的な舞果に俺はいつもたじろいでばかりいた。でも今日は、そんな気持ちは微塵も湧いてこない。
俺は舞果の背中に腕を回す。
そうして俺たちはしばらくのあいだ、人目も気にせず抱きあっていた。
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