第19話 彩理の世界1
廊下でユメたちと話をしていたら、
あの子はわたしに気づき、はっと目を伏せて通りすぎていった。
離れていくあの子たちの背中を見て、ユメがぷっと吹きだす。
「ザ・文芸部って感じ」
くすくす笑いが起こる。カナが言った。
「ほんとに文芸部だよ、たしか」
「まじで?」
――そうか、あの子、やっぱり文芸部なのか。
読書するあの子の姿を思い出し、ちょっと笑いそうになった。
ユメとカナはつづける。
「自分たちでも書いてるんでしょ? 小説」
「え~? すご~い」
その「すごい」にはどこか小馬鹿にした響きがあるように聞こえて、胸がうずくみたいに痛んだ。
黙りこんでいるわたしにユメが尋ねる。
「あれ? 彩理、もしかして知りあい?」
「え? う、ううん」
「だよね~。全然タイプ違うもん」
と、また笑う。わたしは、
「うん……」
とだけ返事した。
「ごちそうさま」
わたしは手を合わせた。お母さんが言う。
「本当に足りてるの? それで」
今日の夕飯は五穀米をお茶碗に半分、鶏胸肉のネギ塩焼きが数切れ、ブロッコリーとプチトマトが少々。
「足りてるよ」
「育ち盛りなんだから、もっと食べたらいいのに」
お母さんの二の腕やお腹を見る。
――もっと食べたらお母さんみたいになっちゃうんだって。
わたしが太りやすいのは完全にお母さんからの遺伝だ。だからわたしはカロリーを計算し、低カロリー高タンパクの食事を一日四回に分けて食べるようにしている。空腹の時間を減らすことで食べることへの欲求を抑え、脂肪の蓄積しづらい身体になる。
部屋にもどり、スクワット二十回を三セット。身体の中でもとくに大きな太ももの筋肉を鍛えることによって基礎代謝が上がり、痩せやすい体質になる。それが終わったら入念にストレッチをして、ゆっくりお風呂に入る。
髪と肌をしっかり整えてから、学校の課題を消化。LINEの返信をして、友だちのインスタに『いいね』を送る。
そうこうしていると夜も更けてくる。ベッドに入る前の小一時間はフリータイムだ。
――よし……。
わたしは少し気合いを入れてノートPCの電源を入れた。エクスプローラーを開き、フォルダをダブルクリックする。
フォルダの名前は『デブの恩返し』。わたしが書いている小説の、まだ初期のころにつけたタイトル。正式名称は『昔助けたいじめられっ
ファイルを開くとテキストエディタが立ちあがる。しかし一文字も表示されない。
当然だ。だってしばらくなにも書いていないのだから。
第二章までは順調だった。
太っていていじめられていたヒロインが主人公の男の子に救われる小学生時代のエピソードは、いじめの描写が生々しくてかえって不評だったほど。
自分でも書いていてつらかった。でもこの場面を軽くしてしまったら、以降の展開が嘘っぽくなってしまうし、なにより自分の気持ちに嘘をつくことになってしまう。だからこう書かざるを得なかった。
高校生になってからのエピソードは、妄想や願望をこれでもかと盛りこみ、書いていて楽しかった。読者さんの評判も高かったし。
しかしそのあと、ぱたりと筆が止まった。主人公とヒロインがお互いの気持ちを隠して近づいたり遠ざかったりを繰りかえし、さあいよいよ関係が一段階深まるぞ、といったところで。理由はさっぱり分からない。
やっぱり今日も、なにも思い浮かばない。キーボードに触れることさえできず、掛け時計の針はどんどん進んでいく。
わたしはクローゼットを開けて、奥のほうに隠すように置いてあるカラーボックスから一冊の文庫本を引っぱりだした。
『妖怪の小説家』シリーズの第一巻。ヒロインの投稿した小説が大賞を受賞。しかしその賞を主催したのは妖怪向けの書籍を制作する出版社で――。そんなきっかけから始まる異種間恋愛物だ。
いわゆる女性向けのキャラ文芸である。初めて触れた小説がこれで、そのあとはライト文芸やライトノベルにも手を伸ばした。いまでも読むのはもっぱらそのあたりのジャンルばかりだ。
自作が本当に面白いのか分からなくなったり、筆が止まったりしたときは、初心を思い出すためにこの本をぱらぱらとめくる。
以前はそれで再び書きはじめることができたのに、最近ではまったく効果がない。
わたしはため息をついて本をカラーボックスにもどす。そのとき、カラーボックスの上に置いてあるものがちらっと目に入った。
包装紙に包まれ、リボンでくくられた小さな箱がふたつ。
わたしは目をそらし、クローゼットの戸を閉めた。
さっきより大きなため息をつく。
机にもどるが、着想ややる気が湧いてくることはなく、わたしは壁の掛け時計をぼんやりと見つめた。
中の歯車が見える、お気に入りの時計。真ん中に大きな歯車があって、その周りに中くらいのや小さなものが回っている。
見ているととても落ち着く。たくさんある歯車たちは、大きなものも小さなものも、ひとつとして欠けることなく、しっかりと噛みあい、時を刻んでいる。
世界と同じだ。大きな歯車が回るから小さな歯車も回ることができる。孤立しては回ることができない。
孤立しては、生きていけない。
わたしの脳裏に、あるふたりの姿が思い浮かんだ。
有永直司くんと、小瀬水舞果さん。確証はないが、ふたりは友だち以上の関係に見える。
クラスから切り離されているふたり。孤立した歯車。わたしをとても落ち着かない気持ちにさせる。
――なんとかクラスに馴染んでもらわないと……。
そんなことを考えていたら、時計の針は就寝時間をとっくに過ぎていた。
まずい、寝不足もダイエットにはよくない。わたしはベッドに入り、明かりを消す。
――明日、ふたりを誘ってみよう。
そう決意して目をつむった。
◇
「え゛っ!?」
有永くんはカエルみたいな声を出してわたしを二度見した。
「な、なんて?」
「だから、今度の土曜日、みんなでどこか遊びに行こうと思ってるんだけど、有永くんも来ない?」
彼はぽかんとした。
「どういうこと……?」
――『どういうこと』?
なにこのリアクション。
「ええと、どういう、って?」
「ご、ごめん。死ぬほどびっくりしたから……」
「そこまで?」
命を脅かすほどに?
おどおどしていた有永くんはなにか思いついたように目を見開いた。
「そ、そうか。罰ゲームかなんか?」
「え?」
「なるほど。ゲームに負けて、俺を誘ってこいって命令されたんだ。それなら納得」
なにかひとりで納得している。
「いや、
「だったら俺が断ったことにすればいいよ」
「だから――」
「大丈夫大丈夫、全然気にしないから。じゃあ、そういうわけで」
ぺこっと頭を下げて、彼は教室を出ていった。
わたしは呆気にとられて呼びとめることもできなかった。
――驚天動地のネガティブさ……。
自分が遊びに誘われるわけがないと、なんの疑いもなく信じこんでいる。その態度は一周回ってポジティブさを感じさせるほどだ。
しかたない。ならば小瀬水さんのほうを誘い、彼女から有永くんを誘ってもらおう。
そう考え、窓際の席で文庫本を読んでいる小瀬水さんに声をかけた。
「ねえ小瀬水さん」
「なに? ええと……、三沢さん」
「八宮ね。『なんか数字がついた名前だったなあ』みたいに覚えられてる?」
「ごめん」
そうだったらしい。
「で、なに?」
「今度の土曜日、みんなでどこか遊びに行こうと思ってるんだけど、小瀬水さんも来ない?」
「行かない」
即答すぎて一瞬なにを言われたのか分からなかった。
「用事はそれだけ?」
「う、うん」
「そう」
小瀬水さんは文庫本に顔をもどした。
――すげない……。
しかしわたしはくじけない。
「なにか予定が入ってるの?」
「ないけど」
「え、じゃあなんで?」
「だって、わたしが行っても盛り下がるでしょ」
「そんなことないよ。みんな歓迎してくれるはず。もちろんわたしも」
「変な気、遣わなくていい。それと――」
声をひそめる。
「わたしと話してたら、妙な噂になるよ」
わたしはちょっと呆気にとられてしまった。つっけんどんな態度は、仲が悪そうに見えるよう周囲にアピールするためであり、むしろわたしへの気遣いだったのだ。
小瀬水さんは他人に関心のない、浮世離れした子だと思っていた。でも実際はこんなにも相手に配慮できる、気持ちの優しい子だった。
孤立するべきではないとますます感じる。
「大丈夫。きっとみんなとも仲よくなれるよ。だから――」
「とにかく行かないから」
ぴしゃり、といった感じで言い捨てた。
訂正。配慮ができて優しいけど、むちゃくちゃ頑固。
「そ、そう。ごめんね、読書の邪魔して」
「べつに」
もう話は終わりと言わんばかりに、本から顔も上げずに言った。
わたしは自分の席にもどりながら考える。
小瀬水さんには一蹴されてしまったが、有永くんのほうはお人好しな感じがするし、誤解さえ解けば誘いに乗ってくれるのではないだろうか。
ターゲットを有永くんにしぼろう。幸い今日は部活もない。彼がひとりになったところを捕まえて、きちんと話をしてみよう。
「ごめん、今日は予定があって」
わたしは手を合わせた。ユメはちょっと意外そうな顔をする。
「珍し~。でも彩理が断るってことはよっぽどだよね」
「ほんとごめん。また誘って」
「もちろん」
よかった、ユメは怒ってないようだ。わたしは何度も謝りながら教室を出る。
ユメに捕まって、けっこう時間を食ってしまった。有永くんはとうの昔に教室を出てしまっていた。階段を駆けおりて玄関に向かったが彼の姿はない。下駄箱には上履きが残されている。もう外に出てしまったようだ。
慌てて靴を履きかえて学校を飛びだす。前にホームセンターで鉢合わせしたことを考えると、彼の生活圏はおそらく学区の東のほうだ。
校門を右に折れて、早足で歩く。大通りに出て左右に首を振る。
――いた!
横道に入っていく有永くんの姿がちらっと見えた。小走りであとを追う。
人通りの少ない道を、彼はなんだかちょっと弾んだ足どりで歩く。
――こっちにあるのって……、スポーツセンター?
放課後にトレーニングでもしてるのだろうか。それなら部活に入ればいいのに。
いずれにしろ、そこで声をかければいい。そう思い、追跡をつづけた。
スポーツセンターが見えてきた。有永くんはその駐輪場のほうへ歩いていく。
彼の向かう先には、柱にもたれた人影。
それは小瀬水さんだった。
ふたりは教室では見せないような楽しそうな顔でなにか話している。
わたしは思わず棒立ちになった。
「ええ……?」
別々に学校を出て、人目を忍び、スポーツセンターの駐輪場で待ちあわせ。秘めた逢瀬。
わたしは手で口を押さえる。
「エっモぉ……!」
初めて『妖怪の小説家』を読んだときみたいに、感動で鳥肌が立った。
なんて意地らしくて可愛らしいんだろう。ふだんは大人しくてミステリアスなふたりだからこそ、なおさらそう感じる。
――やばっ。
ふたりが駐輪場から出てこちらに歩いてきた。感動に打ち震えていたせいで気づくのが遅れてしまった。わたしは慌てて、スポーツセンターと道の境に植わった低木の後ろに身を隠す。
声が徐々に近づいてくる。
「なに撮ってるんだよ」
これは有永くんの声。
「直司の顔だけど?」
こっちは小瀬水さん。
「昨日も撮ったろ」
「一昨日も撮ったし明日も撮るよ」
「大胆な犯行声明だな」
「犯行ってなに? ただ写真を撮ってるだけじゃん」
「写真ってなんか照れるんだよ。昨日撮ったんだからもういいだろ。一日でなにが変わるわけじゃあるまいし」
「わたし前から『昨日の今日』とか『一年前の今日』って言い方に違和感あるんだよね。昨日は昨日だし、今日は今日じゃない? 一年前は一年前だし」
「いや、なんの話?」
「一日として同じ日はないってこと。だからわたしは撮りつづける。明日も明後日も!」
「いいんだけどさ。でも、インスタとかに載っけるのだけはやめてくれよ?」
「大丈夫、インスタなんてやってないから」
無言。
「なに? なんで黙ったの?」
「舞果ってさ」
「うん」
「なんか女子高生っぽくないよな」
「は!?」
衝撃を受けたような声。
「え? ど、どこが?」
「どこがっていうか、どこにもないって話」
「いやいやいや! あるでしょ、なんかあるでしょ。たとえばほら……。――ね? ほら」
「自分でも出てこないじゃん」
「あ、甘いもの好きだし! ケーキとか!」
「ああ、それはちょっと女子高生っぽいかも」
「で、でしょ? ケーキならいくらでも入っちゃう」
「女子高生っぽい」
「丸いやつならぺろっと食べちゃう。おかわりもするし」
「それは食いすぎだろ!?」
「女子高生っぽい?」
「ただの大食いだろ」
ふたりは教室での寡黙さからは考えられないくらい丁々発止のやりとりをしている。……いや、『丁々発止』は議論をするときの熟語だ。こういう場合なにが適切だろう。『当意即妙』はちょっと違うし、『軽妙洒脱』? 洒脱という感じでもないので、ふつうに『軽妙』だろうか。うん、これが一番しっくりくる。
ふたりの関係を垣間見て久々にインスピレーションを覚えたためか、思考が小説モードに切りかわっている。
と、いうか――。
――有永くん、ふだんはああいうふうにしゃべるんだ。
いつもは頭に「あ、」がついて、つっかえつっかえつらそうに話しているのに、すごく滑らかに話している。やっぱり彼にとって小瀬水さんは特別なんだ。
わたしは腰を低くしたまま低木の陰を移動する。芝刈り機で芝を刈っていたおじさんに不審な目を向けられた。こんなときはおどおどすると逆効果だ。わたしは悠然と微笑み会釈する。おじさんは帽子のつばに手をやって会釈を返した。
うまくやり過ごし、ふたりの会話に耳を澄ます。
「蜂蜜とかバターで味を変えれば三枚くらいは食べれるよ」
「もしかしてホットケーキの話か?」
「そうとも言う」
「そうとしか言わん」
「わたしにとってはケーキと言えばそれなの」
「一般的にはショートケーキとかそういうやつだろ。誕生日にホットケーキが出てきたら子供が泣くぞ?」
「なんで? ふつうに嬉しくない?」
「それはさすがに……」
有永くんはちょっと考えるような間を置いたあと尋ねた。
「そ、そう言えばさ……、舞果の、た、誕生日っていつ?」
わたしは声が出そうになって手で口を塞いだ。
――
そこはどもるんだ。
「誕生日? 九月二日」
「そ、そう。九月二日。九月……。――終わってんじゃん!?」
「終わってるけど、なに?」
「い、いや、べつに……」
プレゼントでもあげようと考えたんだろうか。
――プレゼント……。
脳裏に、カラーボックスの上にある小さなふたつの箱がよぎった。
そして
わたしの誕生日は十月七日。あの子の誕生日は十月九日。だからわたしたちは真ん中の八日に、毎年プレゼントを交換していた。
最後に交換したのは中学一年生のとき。二年生のときはプレゼントを買ってはいたけど渡せず、三年生のときもそう。今年は買ってすらいない。きっともう渡すことはないと思ったから。あの子の誕生日も過ぎてしまっているし。
「そのときはまだ買われてなかったじゃん」
小瀬水さんの言葉でわたしは我に返った。
「直司がわたしを買ったのはいつだったっけ?」
――……え?
有永くんが、小瀬水さんを、買った?
「九月の十八日……」
「ね? どうやったって間にあわないでしょ? ――というか、よく覚えてるね」
「そりゃまあ契約書に書いてあるから」
「あ、そうか」
隠れる場所がなくなったあとも、わたしはふたりのあとをつけた。距離を置いているから声はもう聞こえないのに、尾行をやめようなんて思いつきもしなかった。小瀬水さんが吐いた言葉はそれほど衝撃的だった。
――買ったって、やっぱり、その……。
噂にあった、そういう意味での『買う』のことだろうか。
――あの気弱で初々しい有永くんが?
それに、そういうのって経済的に豊かな大人のひとがすることじゃ……? 同じクラスの同級生を買うだなんて、にわかには信じがたい。
やがてふたりは同じマンションに入っていった。
偶然、同じマンションに住んでいるだけかもしれない。そう考えようとしても、先ほどの会話が引っかかる。
わたしは呆然とマンションを見あげ、立ち尽くした。
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