第32話

 蓮に幸福をもたらせば、僕は再び生をはじめる。


 それは何時になるかは、分からない。


 一分後の話かもしれないし、もしかしたら何百年と先の話かもしれない。


 それに、もし蓮がまだ生きている時代に生を受けたとしても、僕は赤ん坊の姿で生まれてくる。過去の鮮明な記憶を手に入れるのに、十年はかかるのだ。


 十年も経てば、少女は女性となり、外見も中身も別人のように変わってしまっていることだろう。

 

 要するに、幸福をもたらせば僕と蓮は、二度と出会うことはないということだ。


「僕がいなくなって、何か困るのか?」


 蓮は顔を膨らまして、僕の頭をはたく。今回の攻撃は、それなりに痛い。力が込めらている。


「欄君は、あたしと二度と会えなくなって嫌じゃないの?」


 僕は、困った。非常に困った。質問の意図が、まるで分からないのだ。


 蓮の発言や行動には随分と悩まされたものだが、今の発言も中々に意味不明だ。


 僕は、しばし固まる。視線は動かさず、蓮の姿を捉えている。

 

 頭の中を、少し整理してみることにした。

 

 僕が蓮に幸福をもたらすことで、僕たちは二度と出会わなくなる。それは、はっきりとしている。


 そして、これは霧の中にあるように断片すら理解できないことだが、蓮は僕たちが出会えなくなることを嫌がっている。彼女は僕にも尋ねる、自分と同じように嫌ではないのかと。

 

 蓮と出会えなくなる、というのは一体どういうことだろう?

 

 面倒事がなくなる。毎日屋敷に出向く必要もなくなる。彼女の一顰一笑を、気にする必要がなくなる。文句を言われることもなくなる。喧嘩をしなくてよくなる。小突かれなくてよくなる――考えれば考えるほど、蓮と出会えなくなることのメリットが浮かび上がってくる。


 嬉しい事ではないか。


 何を嫌がる必要がある。


 人間とは、不思議な生き物だと改めて思わされる。自ら苦しい方を選択しようというのだから。

 

 僕は、彼女に返答する。答えは、「嫌じゃない」。むしろせいせいする。

 

 口を開き、その言葉を放つ準備をする。折りしも、脳裏に浮ぶものがあった。


――心地よい一時もなくなる。


 僕は、言葉を発することができず、口を閉じた。そして、俯く。


 なくなるのか?

 

 海で感じたあの心地よい鼓動、祭りで感じた心地よい一時、そして何より、彼女の笑顔を見たときの何ともいえないあの感じ。

 

 それら全てが――なくなる? 


 二度と感じることが、できなくなるというのか?

 


 僕は俯いたまま、顔を上げない。時が刻一刻と、流れていく。僕は、何も言えない。


「ありがとう」


 蓮が言った。


 何も発さず俯き続ける僕に、蓮が言った。


「ありがとう。ずっと一緒にいてくれて」


 僕は、顔を上げる。


 目の前の彼女は――涙を流していた。


 笑顔ではあるけれど、それでも涙を流し続けている。

 

 やめてくれ。 

 

 僕は君と出会ってから、おかしくなってしまっているんだ。

 

 君が笑えば僕も笑いたくなる。君が叫べば僕も叫びたくなる。

 

――だから。

 

 君が泣けば、僕も泣きたくなる。

 

 流れる意味も分からないまま。


 僕は彼女同様に、涙を流す。

 

 沈黙。


 人気のない夜暗の中のベンチで、互いに涙を流しあう。

 

 蓮の顔が近づいてくる。息の当たる距離。お互いの鼻先が触れる。僕は、動かない。


 やがて、蓮の唇がそっと僕の唇に重なった。蓮の背後に腕を回し、彼女を抱き寄せる。心地よい鼓動が、僕の身体の中に――響き渡る、


 唇が重なり、鼓動が重なり、命が重なる。


 時がゆっくりと流れる。 


 聞こえていた祭囃子が次第に小さくなり、重なった鼓動と息遣いだけが、この空間に木霊している。

 

 僕はその腕の中に一人の少女を抱きながら、思う。

 

 幸福とは、もしかしたら――。


「ごめんね困らせて。明日、望みを言うから」


 蓮の声が胸の奥に響く。響いて弾けて、そして広がる。僕の身体はおかしくなって、涙がより一層溢れ流れていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る